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短編小説「パン屋と魔女と、その娘」

 もう十年になる。結衣が曾祖父の代から続いたパン屋で修業を始め、ようやく父からも認められるようになるまで十年。


 結衣の作るパンは食べると胸の中にあたたかい灯が点るような気持ちになると評判で、いつしか「魔法のパン」と呼ばれるようになった。


 思えば結衣のうちのパン屋の味には開業以来ずっと優しさと軽さと柔らかさがあって、常に魔法のように食べる人に幸福を与えてきた。


 結衣がその美味しさの秘密を知ったのも、ちょうど十年前だった。


 結衣の住む街にはある一つの伝承があった。と言えば大袈裟だが、駅から長い坂道を上って行き、住宅地も途切れて山との境界線ようなところまで辿り着くとその家は唐突に姿を現し、魔女が訪れた者の願いをなんでも叶えてくれる……というものだった。


 なにを子供だましな。結衣はずっとそう思っていた。山手の高級住宅街のどん突きは登山道に入るし、家並も道筋もグーグルマップで確認できるのに「突然家が出現する」なんて非科学的なことあるはずがない、と。十年前のその日までは。


 結衣はその時十七歳だった。これまで噂というものを鼻で笑っていたはずが、その夜、一人で坂道を上っていた。


 瀟洒(しょうしゃ)な住宅を通りすぎ、時折、ベンツやポルシェのヘッドライトが痩せた手足を照らしだしては横をすり抜け、夜道にぽつりと結衣を取り残した。


 我ながら馬鹿げていると思ったが、他に手段が思い浮かばなかった。


 美味しいと評判の老舗パン屋を閉店すると父が言い出したのは、母が亡くなった翌月のことだった。


 交通事故だった。あまりの急な別れに結衣は毎日泣き暮らし、父も暗い表情で固く口を閉ざし、次第に店を休むようになり、挙句の果ての「閉店」宣言だった。


 なぜと尋ねても父は答えてはくれなかった。


 山が近づくほど道幅は狭くなり、街灯は消滅し、どんどん闇が濃くなっていく。風は山から吹きおろしてくるのだろう。木々の緑と草の匂いがしていた。


 念の為に鞄にしのばせてきた懐中電灯を取り出す。どんどん突き進むうちに結衣はもうすっかり山の中に分け入っていた。暗闇もクモの巣に顔がぶち当たるのも怖くはなかった。懐中電灯を照らし、石に蹴つまずき一心不乱に歩いた。


 すると、結衣は急にひやりとした冷たい気配を感じた。水だ。そこだけ突然気温が下がるようなひやりとした空気があり、次いで、ささやかなせせらぎの音を聞いた。


 懐中電灯を左右に振り向けて、方向を確認する。幅の狭い川が流れており、道は二つに分かれていた。登山道と、茶色い煉瓦を敷いた道。結衣はそのとってつけたような怪しさに、迷わず舗装された道を進んだ。


 どのぐらい進んだだろう。果たしてその家は本当に結衣の眼前に現れた。けれど唐突ではなかった。煉瓦(れんが)の道は「どこかにつながっている」様相を呈していたし、道の両脇には人が手入れした植栽が並んでいた。あたかも「以前からそこにあった」ように。


 道の前方が開けてきて、カーブを描く車寄せと白壁の家の玄関灯が見えた。ドアの脇にはちゃんとインターフォンがついていた。


結衣は「魔女の家に、これ?」と微かに笑った。自分はおとぎ話しを真に受けてど深夜に突然知らない人の家にやってきた不審な娘で、警察を呼ばれるかもしれない、と。


 そもそもどうして魔女を尋ねるのは夜中だと思い込んで行動したのだろう。昼間でもよかった。


 インターフォンを押したが応答はなかった。その代りドアががちゃりと開くと、黒い服を着た女の人が顔を覗かせ、


「どちらさまですか」


 と、静かに尋ねた。


 結衣は焦った。魔女というからには白髪頭の鉤鼻(かぎばな)の老婆を想像していたが、現れたのは黒髪を頭のてっぺんでお団子にまとめた化粧っけのない普通の人だった。


「あの……」


 こちらは魔女のお宅ですか? いや、ちがうな。ここに来ると願いを叶えてくれるというのは本当ですか? いや、それもどうなの? そんなこと言う? 普通。


 口ごもっているとその人は不意に何か閃いたように結衣の顔をまじまじ見詰めた。


「あなた、パン屋のお嬢さん?」

「そうです! 駅前の! 昔からある、あの」

「やっぱり。すぐ分かったわ。ずいぶん大きくなったのね」


 そこまで言うと急ににこやかにドアを大きく開け放し「どうぞ」と結衣を誘った。


 結衣は「この人もうちのパンを知ってるんだ!」という嬉しさを感じたものの、自らの意思でここまで来たのに、心の底で明滅する本能的な警戒信号は否定できなかった。


が、彼女の肩越しに見えている部屋の様子……板張りの床とペルシャ絨緞(じゅうたん)の上の猫足のソファなどのちょっと古びた感じ……が、ひどく懐かしいような気がして乞われるままに足を踏み入れた。


部屋の中央に置かれたオーク材の重厚なテーブルには乱雑に本が積み上がり、ガラスペンとインクの瓶とかさかさに干からびた矢車草の束が乗っていた。それは母の好きな花だった。


「それで? なんのご用だったかしら?」

「えっ」

「用があるから来たんでしょう?」

「……父が、パン屋を閉めるというんです」


 結衣が意を決して話し始めると、女の人はまたじっと結衣の目を見つめてきた。


「母が亡くなって、それで。落ち込んで、やる気が出なくなったというか。あなたにこんなことを頼みに来るなんて頭おかしいと思われるかもしれませんが、ここへ来たらどうにかしてくれるという噂を聞いて……。父にパン屋を続けてほしいんです。うちのパン、評判いいんです。食べた人みんな幸せな気持ちになるって言ってくれるし、やめてほしくないんです」


 結衣の言葉は最後は涙声のようになって、震えていた。


「別におかしいことなんて何もないわ」


 彼女は言った。


「あなたは来るべくして、ここにやって来た。あたなのお母さんも昔来たことがあるからね」

「えっ」

「さあ、座って。今から秘密を教えてあげる」


 彼女がさっと右手を振りおろすと不思議な突風が生じて、結衣の体を押すようにふわりと浮かせて、ソファへ着地させた。


「お母さんはここへパンを美味しくする方法を相談しに来たの。あなたのお父さんは当時まだお店を継いだばかりで、職人としての腕はまだまだだった。そうでしょう?」


「若い頃はおじいちゃんに叱られてばかりだったと聞いたことあります」


「だから。お母さんはお父さんの手助けをしたかったのね」


「手助けと言っても母が厨房でパンを作るの見たことないですけど」


「そりゃあそうよ。別にお母さんが粉をこねたりするわけじゃない。お母さんはね、パンに魔法をかけられないか尋ねに来たの」


「パンに魔法を?」


「そう。だから私は酵母に魔法をかけることを提案したの。パンを膨らませるのは発酵の力。美味しさの原点。魔法の力で季節を問わず発酵は安定し、生地はよく膨らみ、焼き上がりはふんわりときめ細かくなる……そんな魔法」


「どういうこと? じゃあ母が死んだら、その魔法は……?」


「お父さんは気づいたのかもしれない。酵母の秘密に」


「魔法のことに?」


「あなたの店、天然酵母でしょう。あれはね、お母さんの愛で育てる魔法の酵母なの。だからお母さんがいなくなったら菌が死んでしまうってわけ。お父さんは酵母が駄目になったことに気づいたんじゃないかしら。もうあの美味しさは出せないってことに」


「じゃあもう一度酵母に魔法をかければ……」


「言ったでしょう。あれはお母さんの魔法だったって」


「それじゃあ、もう、店は……」


 結衣は絶望的な気持ちになり、涙がじわりとこみ上げてきた。


「まあ方法がないわけじゃないんだけど」


 女の人はサイドボードに置かれた幾つものガラス瓶の中から薄紫の美しい装飾の施された物を選び出してくると、結衣に手渡した。


「この中には葡萄を元にした酵母が入っている」


 結衣は瓶の中身を光にかざした。葡萄や液体ではなく、灰色の煙のようなものが瓶の中で渦を巻いている。


「その瓶の蓋を開けて、あなたの愛をその中に籠める。蓋を閉めてよく振って、お店の酵母の中にその中身を加える。すると菌は魔法の力でパンを発酵させてくれる。美味しくね」


「愛っていうのは、どういう……」


「あなたがお母さんからもらったもの、お父さんから教わったもの。おじいさんや、お友達や、色んな人にもらったもの。あなたがここへ来たということは、あなたはもうちゃんと知っているってことだから」


「そんなこと本当にできるんでしょうか……」


「もちろん。最初は上手くできないかもしれないけど、だんだんできるようになる。だってあなたはお母さんの娘なんだから」


「……」


「明日からお父さんを手伝ってパン作りを覚えるのね。手足を動かして、やってみれば分かるわ。あなたにできることは魔法以外にも沢山あるはずよ」


 女の人の目が、その澄んだ黒い瞳が真剣に結衣を見つめていた。


「さあ、もう行きなさい。夜も更けた」


「あの、それじゃあ、お金はいくらぐらい払えば……」


「お金? 魔法はお金じゃ買えないわ。そうねえ……、それじゃあ、あなたがパン屋を継ぐ日が来たら訪ねるから、魔法の成果を見せてちょうだい」


「そんなの何年先になるか……」


「何年先でも必ず訪ねる。いいわね? 約束よ」


 夢みたいな、冗談みたいな夜だった。が、結衣は父の為に、いや、むしろ亡くなった母の為にその魔法を信じた。


 女の人に送り出されて来た道を戻る途中、一度だけ振り返ったがもう門灯の光は見えなかったし、背後には暗闇が広がるばかりだった。


 実際、十年という月日は決して平坦なものではなかった。父とは何度も衝突したし、パン作りは常に困難を極めた。


 しかし結衣にはもう全部分かっていた。パン作りの秘訣、美味しさの秘密。自分のこと。家族のこと。とりわけ、母のこと。


 焼き上がったパンを棚に並べていると、ドアが開いた。顔を上げると、お団子頭に黒い服の女の人が立っていてあの時と寸分違わぬ澄んだ瞳で、


「おすすめは、どれ?」

 と尋ねた。


 結衣は静かに、自慢の胡桃といちぢくの入ったライ麦パンを手渡した。


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