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短編小説「足の速い海老」神戸新聞文芸佳作

 なまじ学問などさせたから婚期を逃したのだと周囲から言われてきたが、見合いの末に文子の嫁ぎ先が決まり、本人の心持はさておき、諸事万端整えて文子は五月のよく晴れた日に市電(しでん※注1)三越(みつこし※注2)前で下車してすぐの所にある元町西洋料理店に嫁いでいった。

 ※注1:1910年~1971年まで神戸市内を走行していた路面電車に対する呼称

 ※注2:三越(百貨店)神戸支店。1984年閉業。


 外国人の多い港町神戸は新しい食文化をすぐに自分達のものにして、新開地にもお手軽な洋食屋はずいぶん増えていたが、本格的な西洋料理となるとまだ数は少なかった。


 文子の結婚相手はオリエンタルのグリル(※注3)で働いた後にパリへ修行に行ったという「本物」で、見合いの席でも文子本人より運ばれてくる料理に関心を見せるといった風で仲人夫妻を慌てさせたが、スープの温度や肉の塩加減に注目する姿勢は文子には職人気質の生真面目さに思えて好ましかった。

 ※注3:1870年に神戸・旧居留地に開業した日本最古級の西洋式ホテル。西洋建築と本格的フランス料理を提供するレストランを備え、当時は日本最高と言われていた。谷崎潤一郎「細雪」等にも登場する。


 文子は学校での成績も良く、卒業後は修めた学問のうち英語や文学を()ってして教職に就いていたが、適齢期もとうに過ぎたあたりでいよいよ両親とのすったもんだの末、結局見合い結婚で年貢を納めることになったものだから、花嫁修業をせずに来てしまい、それも一般家庭ならいざ知らず、西洋料理店の嫁というのが何をするものなのかさっぱり分からず、嫁いだはいいが日がな一日店の周囲をぶらぶらして無為に過ごしていた。


 そういったいかにも暇そうな姿を見かねたのか、夫である秋生は、ある時文子をコック場へ招じいれ、


「食べ物の好き嫌いはあるか?」


 と尋ねた。


「いえ、ありません。割となんでも美味しく頂ける方で……」


 文子が答えると、秋生はふむと頷きコック場の若い見習いに向って、


「今日は忙しいよってに、海老の殻剥き手伝うてもうてんか」


 と言った。


 文子はその時になって突然「あ、そうか」と閃いた。やる事が分からなければ聞けばよいのだ、と。なぜそんな簡単なことに気づかなかったのだろう。西洋料理店という未知の世界に気遅れがしたのもあったが、コック場というのが職人の神聖な場所であり、男のものだと思う気持ちがあったからだろうか。


 文子はすぐに割烹着をつけて、まだ子供みたいな顔の見習いの横に並んだ。


 そして流しの中で笊に入れられた大量の、まだぴんぴんしている海老に見入った。


「こんなにたくさん」


「はあ、海老のフライやカクテルは人気がありますから」


「海老、美味しいものねえ」


 呑気な調子で話していると、秋生が見習いに向けたものか文子にか、ぴしゃりと、


「海老は足が早いんやから手ぇ動かさんとあかんやろ」


 と言った。


 文子は驚いた。海老は海のものだ。走りはしない。泳ぐものだ。「泳ぐのが早い」というのなら分かるのだけれど。まだ生きているから笊から逃げ出すということだろうか。


 秋生の言葉に見習いの若者は「はい」と返事をし、急いで水道の水をじゃぶじゃぶ出しながら、笊の中で海老を洗い始めた。


「海老は足が速いんですか」


「はあ、そうですね。やっぱり他のものに比べると早いですね」


 文子はこういうのが実地の体験や体感によって得る学びというものなのだなと、元教師の顔になっていたく感心した。


 手早く、しかし、大事な海老の頭をもげさせないで殻を剥く方法を教わり、文子は下手ながらもどうにか下拵えをしていった。


 それが終わると文子はパン粉を(ざる)で濾して目を細かくする作業を言いつかり、コック場の隅でパン粉が砂粒のようになるまで丹年にふるい始めた。


 こうして秋生たちの働く様子を見ていると、なるほど西洋料理店というのはずいぶん沢山の仕事手順があり、思った以上に大変なのだなということが分かった。


 文子は細かくし終えたパン粉の笊を手に、秋生の傍へ寄って行き、


「なんでこんな風にパン粉を細かくするんですか?」


「ああ、それはな、フライにする時パン粉を細かくする方が軽くて上品になるし、余分な油を吸わんから素材の旨みをより強く感じられるんや。海老のフライは好きか?」


「はい。天ぷらも好きです」


「フランスの天ぷらいうたらな、卵の白身を固く泡立てたのに小麦粉をいれて、水やのうてビールで溶いたんを衣にするんや。今日はよう手伝うてもうてるから、あんたの剥いてくれた海老でちょっとそれを作ったろ」


 秋生は見習いに何事か言いつけながらてきぱきと手を動かし始めた。


 鉄鍋で油が煮えている。秋生の調えた衣に文子の剥いた海老がひとくぐりして油の中に投じられると、じゃっという小気味良い音が溢れた。いかにも旨げな香ばしい匂いに文子は思わず唾を飲み込んだ。


 気がつくと数人いる見習い達が皆、鍋の周りに集まって秋生の手元を真剣な顔で見つめている。


「さ、食べてみ」


 文子は差し出されたフォークを手に取った。


 フォークの先端が衣に刺さるとさくっという気持ちの良い感触。息を吹きかけつつ口に入れるとぷつっという海老の弾力が歯を押し返してきて、熱い香気と海老の味わいが口いっぱいに広がった。


 文子は自ずと頬に手を当てうっとりと目を細め、何度も頷きながら口の中の海老を飲み下した。


「美味しいです、本当に。ふわふわで、さくさくで。こんなん食べたことない」


「そうか」


「それに勉強になりました。海老が走るの速いなんて知りませんでした。やっぱり足の数が多いからでしょうか。そしたら蝦蛄なんかも速いんでしょうね。蟹は足八本やから海老には負けますわね?」


 文子が言うと、秋生をはじめ見習い達もきょとんとした顔になり、それからどっと弾けるように笑い出した。


 文子が不思議そうな顔をしていると、秋生は目尻の涙を指ではらって、


「そうやなあ、うん、そうかもしれんなあ」


 と、いつまでも可笑しそうに笑っていた。


 文子がコック場の隅に袖を引っ張られて行きこっそりと「海老の足が早い」というのは「(いた)みやすい」という意味だと、見習いに耳打ちされたのは開店準備で大忙しの中、一刻ほどしてからのことで、文子が神戸で一番の呼び声も高い元町西洋料理店に嫁いできて、ちょうど一週間たったところだった。


食材のいたみやすい(腐りやすい)のを「足が速い」と言うのは、阪神間だけだろうか。

私の知る限り、飲食店の厨房ではそのように言われていた。

そしてこれはプロの料理人の間で用いられる言葉であって、一般家庭で使うことはない。

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