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エッセイ「Yとインドの青空歯医者」

 若い時分というのは大抵の場合貧乏暮らしをしているもので、私ももちろんその一人だった。


 繁華街の駅から三分という好立地ではあるが、古いマンションの一室に居を構え、お金がないならないなりに工夫しもって気ままに暮らしていた。


 お金がないということは「何を優先するか」が肝で、なにせ若かったのでおしゃれや趣味を楽しむことと、遊興に耽ることが第一で、食べることに関しては後回しになり、いつも空腹だった。


 そんなある日、どういう経緯だったか忘れてしまったが知り合いにお鮨をご馳走になることになった。しかも、回っていないお鮨。即ち、ちゃんとした鮨屋で。


 回転寿司がちゃんとしていないわけではないのだが、回っていない方の鮨屋の敷居の高さと高級なイメージから、便宜上そう称するとするが、ともかく、それまでの人生でそういうところに行ったことがないものだから、表面的には澄ました顔をしつつ内心は小躍りしていた。


 空腹は人を卑しくさせる。私は当日の昼食を抜いて猛烈な飢餓状態を自ら作り出し、その場に臨んだ。なんでも好きなだけ食べろというので、小躍りは狂喜乱舞までに盛り上がった。


 喜び勇んで目の前の笹の葉の上に登場した鮨に手を伸ばし、いざとばかりに口にした。


 途端、脳天を突き抜けるような激痛が口中に走った。思わず口の中の鮨を吐き出しそうになる痛みだった。


 私はその週の初めに、親知らずを抜いていた。親知らずが斜めに生えて隣の歯に当たってよろしくないということで、親知らずを二つに割ってがりがりごりごり大層な音をさせての大変な抜歯だった。


 それが痛みの原因だった。いや、厳密にいうと親知らずはなんの関係もない。その隣り。これまで斜めに生えた親知らずによって遮られていた隣りの歯が、親知らず亡き後に突然丸裸になったものだからそれはある意味「生まれたて」も同然の状態で、鮨が強烈にしみるのだ。


 一体、お酢がしみるのか、ひんやりしたネタか人肌のシャリか。どれがとは分からない。とにかくとんでもない知覚過敏で鮨がしみて、とてもじゃないが食べられない。


 私自身と成長を共にしてきた反対側の歯の方に鮨を持っていき、恐る恐る食べるが、どうしたって口中に満ちる鮨が生まれたての奥歯に触れる。鮨をちびちび囓るわけにもいかないので、口中に鮨が充満するのがいけないのだろうけれど、他になす術がない。


 結局、あれほど楽しみにしていったはずなのにろくに食べることができず会食は幕を閉じた。


 以来、私は虫歯に怯え、歯を大切にするようになった。その最大の理由は「歯を悪くすると美味しい物が食べられない」からである。鮨が食べられなかったことは私に精神的外傷を残した。不幸な出来事であった。


 友人のYも歯には気をつけているという。


 Yが二十代前半の頃、典型的なお金のない若者のインド旅行を決行したことがあった。安宿に泊まり、町をぶらぶらしたり、鉄道で旅し、ガンジス川を眺めたりするあれである。


 そのインドのとある町で、Yは安宿の食堂でオムライスを食べようとしていた。よくぞそんなものがあったなと思うが、Yが言うにはカレー以外のものが食べたかったそうで、嬉々として注文したそうだ。


 そして、出てきたオムライスを口に運ぶと「がりっ」という固い物が歯に当たった。


 噛み当てただけなら「ああ、異物混入ね」と思うのだが、オムライスを食す喜びの勢いのせいか歯の方が異物に負けて、吐き出してみるとあからさまに前歯が欠けていた。異物は小石だった。


 Yが恐る恐る鏡で確認すると冗談みたいに前歯が欠損し、とてもじゃないが恥ずかしくて口もきけない状態になっていて、無邪気なインドの子供たちが集まってきてYの前歯を指さして一体どうしたんだ騒ぎ立てた。


 インドの旅はまだ一週間続く予定だった。このままでは無理だ。


 そこからのYの行動は珍妙なものがあった。まず、国際電話(無論コレクトコール。料金先方持ち)で母親に電話をかけ「来週の歯医者の予約を取ってくれ」と頼んだ。絶対それは今じゃなくてもいい。が、Yは一番に「歯医者を予約しなくっちゃ」と思ったのだと言う。


 それから宿の人に聞いて現地の歯医者を探すと、そこへ行くことにした。欠けた前歯を持って。


 これが欧米であったら現地で医者に行くことは絶対しなかっただろうが、そこはインド。Yは保険や代金のことなど考えず、教えられた場所へ行くとそこはボロい三階建てのビルで、歯医者はその四階部分……即ち屋上にあった。


 インドの青空の下、歯医者の椅子はあった。Yはヒンディー語も英語もできるわけではなかったが、無謀な勇気は持ち合わせていて、衝立も何もない屋上の椅子に座るとカタコトで前歯を見せた。


するとインド歯医者は「これは抜かないと駄目だ」と言った。Yは流石にこんな屋上でよく知りもしないインド歯医者に前歯を抜かせることはできないと考えると同時に、抜いたら歯抜けの間抜け面で残りの一週間を過ごすことになると思い、持参してきた欠けた前歯をかざして、突然閃いた英語で訴えた。


「Anyway Fix」


 とにかくくっつけてくれ。


 すったもんだの末、インド歯医者は屋上でいきなり現れた日本人の欠けた前歯をくっつけた。Yがあんぐり口を開けている間、助手がふいごのようなものをぱふぱふさせて、インドの暑い風をYの口中へ送り込んでいた。


 そうしてとにかくくっつけた前歯でYは残りのインドの旅を無事終え、帰国し、日本の歯医者へ行った。


 母国の歯医者が言うには「とても上手に」くっつけてあったらしい。


 以来、Yは前歯が再び欠けることのないよう注意を払って今も生活しているし、歯医者にもこまめに行く。


 私はYと食事に行き固そうなものを食べる時「歯は大丈夫か」と尋ねる。Yは「餅は、やばい」と言う。


 今日では、私の生まれたてだった奥歯も年を重ねて堅牢になり、Yの前歯も幾度かの治療を経て、健在である。


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