女は守るものができたとき、最強になる
あの頃の彼は、本当に優しくて、強くて、私の世界を、キラキラさせてくれた。
毎日が、幸せで、未来が、輝いて見えた。
あの出会いが、こんな結末になるとは、あの時の私たちは、想像もしていなかった。
あの優しい笑顔も、あの眩しいリングの姿も、私の心のどこかに、今でも残っている。
だからこそ、私はあの男を、許せなかったのかもしれない。
ある秋の終わりのことだった。
私は法学部2年生。ゼミの選択で迷っていた頃、友人に誘われて入ったのが「刑法ゼミ」だった。
教授は厳しいことで有名で、ゼミ生はみんな真剣そのもの。
初回の授業で、教授が投げかけたテーマは「家庭内暴力と法の限界」。
「DVは犯罪だ。しかし、被害者が声を上げない限り、法は届かない。なぜだと思う?」
教室が静まり返る中、一人の男が手を挙げた。
「被害者が加害者を愛しているから、です。
愛があるからこそ、恐怖も大きく、逃げられない。
法は外側からしか介入できないのに、心の問題は内側からしか解決できない」
声は低く、落ち着いていて、でもどこか熱を帯びていた。
彼だった。
名前は高橋悠斗。
法学部3年、ボクシング部の主将。
頭が良くて、運動神経も抜群。
ゼミではいつも鋭い意見を言い、教授からも一目置かれていた。
私はその答えに、胸がざわついた。
当時はまだ、DVなんて自分とは無縁だと思っていたけど、彼の言葉が、なぜか心に刺さった。
ゼミの後、みんなで飲みに行くことになった。
居酒屋の座敷で、彼が私の隣に座った。
「さっきの君の顔、覚えてるよ。
教授の質問で、なんか考え込んでたよね」
突然話しかけられて、どきっとした。
「……あのテーマ、ちょっと重くて」
彼はビールを飲みながら、優しく笑った。
「俺も、重いと思ってる。力がある男が、愛する人を傷つけるなんて、最低だろ」
その言葉に、私は初めて彼の目を見た。
真っ直ぐで、強い、でもどこか優しい目。
それから、ゼミのたびに話すようになった。
彼はボクシング部の練習で忙しかったけど、
ゼミの後、いつも私を駅まで送ってくれた。
「女の子一人で夜道は危ないから」
って、照れくさそうに言って。
試合の日も、誘ってくれた。
「来てくれよ。俺の試合」
私はボクシングに興味なんてなかったけど、
彼のリングに立つ姿が見たくて、体育館に行った。
リングに上がった彼は、別人だった。
鋭いジャブ、正確なストレート、重いフック。
相手を圧倒しながら、でも決して無駄な一撃は打たない。
勝った後、観客席の私を見つけて、グローブを掲げて笑った。
あの笑顔が、眩しかった。
試合の後、二人で学食で遅い夕飯を食べた。
「今日、来てくれてありがとう。
なんか、いつもより力が出た気がする」
私は頰が熱くなって、下を向いた。
「……かっこよかったよ」
彼が少し照れて、笑った。
それから、自然と付き合い始めた。
大学のカフェで勉強したり、
図書館で一緒にレポートを書いたり、
夜のキャンパスを散歩したり。
彼はいつも優しかった。
私の話をちゃんと聞いて、
「すごいな」「頑張ってるな」って、
素直に褒めてくれた。
毎日が、幸せで、輝いていた。
「将来、弁護士になって、弱い人を守りたい」
彼がそう言ったとき、私は心から思った。
この人と、一緒にいたい。
あの頃は、本当に、毎日が幸せだった。
社会人になって二年後、私たちは結婚した。
小さな教会での式。
白いドレスを着た私は、彼の優しい視線に包まれて、誓いの言葉を交わした。
「ずっと、幸せにするよ」
彼がそう言って、私を抱きしめた瞬間、世界が輝いた。
あの温もりは、今でも体に残っている。
ゲストは友人たちと家族だけ。
みんなが祝福してくれ、笑顔が溢れていた。
式の後、パーティーで彼がスピーチした。
「今日から、君を守るよ。俺の人生は、君と出会ってから始まったんだ」
みんなが拍手した。
私は涙が溢れて、頷くしかなかった。
新居は小さなアパート。
二人で選んだ家具を運び込み、壁に写真を飾った。
朝は一緒にコーヒーを淹れ、
夜はソファで寄り添ってテレビを見た。
彼は法律事務所で忙しかったけど、
帰ってくると必ず、私の肩を抱いて、
「今日もお疲れ」
と言ってくれた。
あの頃の彼は、本当に優しかった。
仕事のストレスを溜めても、私には当たらず、いつも笑顔でいてくれた。
結婚してすぐに、妊娠がわかった。
「お腹に、俺たちの子が……」
彼が喜んで、私を抱き上げた。
あの瞬間、二人の幸せが、永遠に続くと思った。
娘が生まれたのは、春だった。
産院のベッドで、初めて娘を抱いたとき、小さな体が、私の胸に収まる感触。
指を握り返す小さな手。
涙が止まらなかった。
彼も隣で、目を潤ませて、
「可愛いな……あかり、って名前にしよう」
娘の名前はあかり。
光のように、私たちの世界を照らす子。
毎日が、幸せで満ちていた。
朝、娘の寝顔を見て微笑み、
昼、仕事の合間に彼から来る「今日も頑張れ」のメッセージに笑い、
夜、三人で布団に並んで眠る。
娘が歩き始めた頃、彼と公園で遊んだ日々。
娘が転んで泣くと、彼がすぐに抱き上げて、
「大丈夫、大丈夫だよ」
と優しくあやしていた。
「あかり、パパに似て強い子になるよな」
彼が笑って言った。
私は頷いて、心から幸せだった。
「これが、永遠に続けばいいのに」
私は心から思っていた。
でも、その幸せは、少しずつ、影を落とし始めた。
彼の仕事が忙しくなった。
法律事務所のプレッシャー、残業の連続。
彼の目が、少しずつ疲れを帯び始めた。
ある夜、夕食の味付けを少し濃くしてしまい、
彼がフォークをテーブルに叩きつけた。
「なんだよ、この味……!食えるかよ!!」
私はびっくりして、慌てて謝った。
「ごめん……次は気をつける……」
彼はすぐに顔を上げ、ため息をついた。
「悪い……疲れてて、イライラしてた。気にすんな」
許した。
それが、最初だった。
でも、それが少しずつ、増えていった。
肩を強く掴まれるようになった。
「もっとちゃんとやれよ!!」
物を投げられるようになった。
リモコンが壁に当たり、割れた。
怒鳴られるようになった。
「これだからお前はダメなんだよ!!
俺の言うこと聞けないのか!?」
声が家中に響き、娘が部屋の隅で縮こまるようになった。
私は震えながら、
「ごめん……ごめんなさい……」
と繰り返すだけだった。
彼はいつも、翌朝謝ってきた。
「昨夜は……本当にごめん。もうしないから」
信じた。
許した。
だって、あの大学時代の優しい彼を、
まだ信じていたから。
でも、次も、その次も、繰り返された。
ある夜、彼が酔って帰ってきて、私を殴った。
頰が熱くなり、血の味が広がった。
鏡を見たら、青く腫れていた。
娘が部屋から覗いて、泣き出した。
「ママ……!!」
私は娘を抱きしめ、
「大丈夫よ……ママ、大丈夫……」
と、震える声で言った。
彼は翌朝、土下座して謝ってきた。
「本当に、ごめん……
もう、二度としない。約束する」
信じたいと思った。
許した。
でも、心のどこかで、何かが壊れ始めていた。
娘が小学一年生になった頃、彼の暴力はさらにエスカレートした。
仕事のストレスがピークに達し、娘の小さなミスにまで怒りが向かうようになった。
それは、秋の夕方だった。
娘は小学一年生になったばかり。
学校から帰ってきて、リビングのテーブルで宿題をしていた。
算数のドリルを開き、鉛筆を握る小さな手が、少し震えていた。
最近、夫の機嫌が悪かったから、娘もそれを敏感に感じ取っていた。
私はキッチンで夕食の準備をしていた。
夫は仕事から帰ってきて、ソファに座り、ビールを飲んでいた。
最近の彼は、残業続きで疲れが溜まり、
家に帰るとすぐにイライラを隠さなくなっていた。
娘が、問題を一つ間違えた。
簡単な足し算だったけど、答えを一つずらしてしまった。
夫がテーブルに近づき、娘のドリルを覗き込んだ。
「……なんだよ、これ」
声が、低く、重かった。
娘がびくっと体を縮め、
「ご、ごめんなさい……パパ……」
と、小さな声で謝った。
夫の目が、赤く充血し始めた。
「お前、こんな簡単な問題もできないのか?
学校で何やってんだよ! バカか!!」
声が、部屋中に響いた。
娘の肩が震え、涙がぽろりとドリルに落ちた。
「ごめんなさい……もう一回やるから……」
夫が赤ペンで、娘の答えに大きなバッテンを付けた。
ペンが紙を破りそうなくらい強く。
「これだからお前はダメなんだよ!!
俺の娘なのに、なんでこんなに頭悪いんだ!!」
夫の声が、怒鳴り声に変わった。
娘が椅子から滑り落ちそうになり、
「パパ……怖いよ……ごめんなさい……」
と、泣きじゃくり始めた。
私はキッチンから飛び出して、娘の前に立った。
「やめて!! あかりはまだ一年生よ!!そんなに怒鳴らないで!!」
夫が私を睨みつけた。
「邪魔すんな!!
お前が甘やかすから、こんなバカになるんだよ!!」
そして、夫の手が振り上げられた。
娘の小さな頰に向かって、
容赦なく、拳が振り下ろされた。
時間が行き止まった気がした。
「やめてぇぇぇ!!!!」
私は叫びながら、娘をかばった。
拳が、私の腕に当たった。
痛みが走ったけど、それ以上に、
娘の体に当たらなかった安堵と、
夫の目に見えた狂気が、胸を締めつけた。
でも、夫は止まらなかった。
「どけ!!」
もう一発が、娘の頰をかすめた。
娘の小さな体が、よろめいた。
頰が、赤く腫れ上がるのが見えた。
娘の目から、涙が溢れ、
「痛い……パパ、痛いよ……!!
ママ……ママぁぁぁ……!!」
と、泣きじゃくる声が、部屋に響いた。
娘の頰に、夫の拳の跡が、はっきりと残っていた。
その瞬間、私の心の中で、何かが、完全に壊れた。
視界が赤く染まった。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、純粋な、許せないという感情。
夫が、まだ拳を握りしめ、
「これで少しは頭が働くようになるだろ」
と、吐き捨てた。
私は娘を抱きしめ、震える体を包みながら、
夫を睨みつけた。
目が合った瞬間、
夫の目が、少し揺れた。
私の目が、
今までとは違う、
絶対に許さないという光を宿していたから。
私は娘の腫れた頰にそっと触れ、
耳元で囁いた。
「もう、大丈夫……ママがいるから……
もう、泣かなくていいよ……」
でも、心の中では、
別の声が響いていた。
もう、許さない。
あんただけは、絶対に許さない。
娘を守るために、
私は強くなる。
必ずあんたを、やっつける。
それから私は、誰にも言わずジムに通い始めた。
朝早く起きて、仕事が終わってからも。
ミット打ち、シャドー、サンドバッグ。
筋肉痛で泣きながら、それでも続けた。
娘の寝顔を見るたび、力が湧いた。
だんだん体が変わっていった。肩に力が入り、腹が引き締まり、パンチに重みが乗るようになった。
鏡に映る自分が、強くなったと実感できた。
もしかして……あいつを倒せるかもしれない。
ある夜、また娘が殴られた。
頰が腫れ、泣きじゃくる娘を抱きしめながら、私は彼を睨みつけた。
今までとは違う、冷たく、深く、絶対に許さないという光を宿した目で。
「……あたしと、試合をしなさい」
声は低く、静かだった。
でも、その静けさの中に、煮えたぎる怒りと、長い間抑え込んできた決意が、燃えていた。
夫が一瞬、呆気にとられた顔をする。
それから、腹の底からこみ上げるように笑い出した。
「は?はははっ!!何言ってんだお前?頭おかしくなったか?」
夫は笑いながらも、目がわずかに泳いでいるのがわかった。
最近の私の変化——朝早くから、夜遅くまでジムに通い、肩や腕に浮かび上がった筋肉、変わった視線——を、薄々感じ取っていたのだろう。
私は娘の震える体を優しく抱きしめたまま、冷たい声で続けた。
「本気よ。あたしが勝ったら、二度と私たちに手を出さないこと。」
夫の笑いが、徐々に引きつっていく。
「……お前、まさか本気で俺に勝てると思ってんのか?いいよ、やってやるよ。どうせすぐに泣き叫んで終わりだ」
私は冷たく頷いた。
「ジムを借りる。試合は夜にしよう。」
夫の表情が強張る。
私はさらに、冷たく、しかし力強く言い切った。
「観客は、娘だけ。
あかりの前で、あんたがどれだけ弱いか……はっきり見せてあげる」
夫は鼻で笑ったが、目がわずかに揺れていた。
本当は、私の変化に恐怖を感じ始めていた。
その夜──
私は娘の手を引いて、家を出た。
小さなスーツケース一つだけ。
これで、あの家には二度と戻らないつもりだった。
外はもう暗く、街灯が冷たく照らす道を、二人で歩く。
娘が私の手をぎゅっと握りしめて、上目遣いに見上げてきた。
「……ママ、本当に試合するの?」
私は足を止め、娘の前にしゃがんだ。
「うん。本気よ」
娘の目から涙がぽろりとこぼれた。
「やめて……ママ、試合なんてしてほしくない……
パパに勝てるわけないよ……パパ、強いもん……
男って、強いんだよ……ママが痛いところ、また見たくない……」
娘の声が震えて、私の胸が締めつけられた。
私は娘の両手を優しく包み、静かに、でも力強く言った。
「ママ、鍛えたよ。毎日、誰にも言わずにジムに行ってた。
だから……絶対に負けない。約束する」
娘が首を振る。
「でも……パパ、昔ボクシングしてたんでしょ?
ママ、勝てないよ……怖いよ……」
私は娘の涙を指で拭い、微笑んだ。
「聞いて。あかりが生まれてから、ママは毎日思ってた。
『あかりを守らなきゃ』って。
その気持ちが、ママを強くしたの。
女はね、守るものができたとき、誰よりも強くなるのよ」
娘の目が、少しずつ私を見上げた。
「ママ……本当に、勝てる?」
「勝つよ。ママ、約束する。
あかりがまた泣かなくていいように、絶対に勝つ」
私は娘の小さな手を握りしめた。
「だから、信じて。ママを、信じて」
娘はしばらく私の目を見つめ、
震える唇を噛んで、ゆっくり、ゆっくりと頷いた。
「……うん……ママ、信じる……」
私は娘を抱きしめ、耳元で囁いた。
「ありがとう。ママもあかりがいるから強くなれた」
二人で、再び歩き出す。
夜の冷たい風が頰を撫でるけど、
手をつないだ温もりが、私たちを包んでいた。
ジムの明かりが見えてきた。
リングが待っている。
運命の夜が、始まる。
私は心の中で誓った。
「絶対に勝つ。
娘のために、私のために、
女として──」
赤いグローブを握りしめて、
私たちは、ジムの扉を開けた。
ジムの照明がリングだけを白く照らし、周囲は薄暗い影に包まれていた。
観客席には、娘が一人、両手を膝の上でぎゅっと握りしめて座っている。
小さな体が緊張で固まっているのが、遠くからでもわかった。
私は真っ赤なグローブをきつく締め直し、赤いタンクトップとショーツでリングの中央に立った。
対する夫は黒いグローブ、黒いウェア。
昔の主将の体つきはまだ残っていたが、腹が少し緩み、目はどこか余裕を装っている。
私は静かにルールを告げた。
「どちらかが立てなくなるまで。KO決着のみ。レフェリーなし、タイムなし。倒れたら終わり。観客は……あかりだけ」
夫は鼻で笑ったが、笑顔の奥にわずかな動揺が滲んでいた。
ゴングの代わりに、私が手を強く叩く。
パチン!
試合開始。
最初は完全に彼のペースだった。
距離を詰めてきた夫のジャブが、私の顔面を小刻みに揺らす。速い。まだあの感覚が残っている。
続けて右ストレートが頬にクリーンヒット。頭がガクンと揺れ、視界が歪む。
「ほら、終わりかよ!」
嘲る声。
左フックが腹にめり込み、息が一瞬止まる。
続けて右アッパーが顎をかすめ、膝が笑った。
ボコボコにされる。
血の味が口の中に広がり、唇が切れた。
ロープに背中を預け、必死にガードを上げるが、パンチの雨は止まない。
このまま負けるのか……?
でも、そのとき、娘の声が聞こえた。
「……ママ……がんばって……」
小さな、震える、でも確かな声。
その一言で、私の体に火が灯った。
負けたくない。
娘の前で、絶対に負けたくない。
私はロープを蹴って前に出た。
夫の右ストレートをダックでかわし、初めてのカウンター──左ボディブロー。
ドスッ。
夫の顔がわずかに歪む。手応えがあった。
そこから、私の反撃が始まった。
ジャブで距離を測り、右フックを顎に当てる。カチンという音。
夫が一歩後退。
私は追撃する。
左ストレート、右ストレート、ボディ連打。
赤いグローブが、黒いガードを少しずつ割り始める。
夫の息が荒くなり、目に焦りが浮かぶ。
「くそ……」
私はさらに距離を詰めた。
右フックでこめかみを捉え、左ストレートで鼻を直撃。
血が飛び散る。
夫がよろめく。
「なんだよ……お前、いつからこんな……!!」
夫の声に焦りが混じる。
「娘を殴った日からよ!!
あの日から、私は変わった!!」
女の底力って、こういうときに出るんだ。
ガードを固め、さらにカウンターを決めた。
ボディに、顔面に。だんだん形成が逆転していく。
彼の目が焦りに染まる。
女に負けるかも──そんな恐怖が、彼を蝕む。
私は距離を詰め、連打を浴びせた。
右フック! 左フック! 右ストレート! 左アッパー! ボディ連打!
パンパンパンパンパン!!!
「ぎょぇぇぇっ!」
彼が苦しげに声を上げる。
娘の声が、はっきりと響いた。
「ママ! いけー!!」
その声に、私はすべてを乗せた。
ラッシュ。
左フック、右フック、左アッパー、右ボディ。
夫のガードが崩れ、顔が無防備になる。
「やめてくれ……!! やめてくれぇぇ!!!」
夫が泣き声のように叫ぶ。
でも、私は止まらない。
「やめない!!」
「あんたが娘を殴ったとき、私がどれだけ泣いたか知ってる!?」
夫の目が恐怖でいっぱいになる。
「女に……女に負けるなんて……ありえない……!!」
「負けなさい!! 女を舐めた罰よ!!」
「あんただけは、絶対に許さない!!」
私は涙で視界を濡らしながら、大きく一歩踏み込み、腰を深く沈め、地面を蹴り上げた。
息を吐ききり、全身の重みを右拳に込める。
これまでのすべて──
殴られた頰の熱さ、
娘の泣きじゃくる声、
鏡に映る腫れた自分の顔、
ジムで流した汗と涙、
そして、娘の「ママがんばって」という小さな声。
全部、全部、この拳に乗せた。
「てぇぇぇぇぇえい!!!!!!!」
全力のアッパーカット!!!
赤いグローブが、紅蓮の炎となって下から爆発的に振り抜かれる!!!
夫の顎に、完璧に、炸裂した。
ドゴオオオオオオン!!!!!!!
その瞬間、私の心の中で、時間が止まった。
拳が当たる感触──
骨が軋むような、確かな手応え。
爆音がジム全体を震わせ、ロープがビリビリと振動した。
「ひぎゃああああああああああっ!!!!!!!!」
「男がぁぁぁぁ……!!
女に……負けるなんて……!!!」
夫の絶叫が喉を潰し、頭が180度近く後ろに跳ね上がる。
体全体が高く浮き上がり、黒いウェアがはためく。
次の瞬間一ーリングに背中から隕石のように激突!!
ドオオオオン!!!!!!
キャンバスが大きく陥没するほどの衝撃で、体が三度バウンド。
口から白と赤の泡がゴボゴボゴボッ!!!と噴水のように溢れ、リングに飛び散る。
両手両足がビクンビクン!!と激しく痙攣し、黒いグローブが力なく床に落ちた。
瞳は完全に白目を剥き、焦点を失っている。
完全に、完膚なきまでに気絶。
リングに沈む黒。
天を突き上げる赤。
母の愛が、暴力を、悪を、すべて打ち砕いた。
私は肩を激しく上下させ、血と汗と涙にまみれながら、倒れた夫を見下ろした。
声は震え、血が混じっていた。でも、確かだった。
「二度と.....女を.....舐めるな......」
その言葉が、静かなジムに、勝利の鐘のように響いた。
ありえない……
俺はボクシング部の主将だった……
体格も、力も、全部俺の方が上だったはずだ……
なのに……なんで……?」
プライドが、音を立てて崩れ落ちていく。
男として、夫として、父親として、
築き上げてきた「俺は強い」という幻想が、
一瞬で粉々に砕かれた。
「負けた……
俺は、女に負けた……」
恥辱が、焼けるように胸を焦がす。
わたしの心の中がすべてが爆発した。
「……終わった……!!
本当に、終わった……!!!」
胸の奥から、熱い、熱いものがこみ上げてきた。
長年閉じ込められていた恐怖が、怒りが、悔しさが、
あの拳とともに、粉々に砕け散った。
「守れた……!! 娘を、あんたから守れた……!!
ママ、約束守れたよ……!!!」
涙が、止まらなくなった。
頰を伝い、血と混じり、リングに落ちる。
でも、それは痛みの涙じゃなかった。
自由になった喜びの涙だった。
自分を誇らしく思えた涙だった。
「私は……弱くなかった……!!
あんたに舐められて、殴られて、我慢して……
でも、私は負けなかった……!!
私、強かった……!!!」
心の底から、叫びが湧き上がった。
今まで「女だから」と自分を責めていた自分が、
あの赤いグローブとともに、空へ飛んでいった。
そして、娘の声が聞こえリングに駆け上がってきた。
小さな足がぱたぱたと鳴り、私の腰に飛びついてくる。
「ママぁぁぁ……!!」
泣きじゃくりながら。
私はグローブを外し、血と汗にまみれた手で娘を抱き上げた。
「ママ……勝った……ママ、すごかった……!!」
娘が私の首に腕を回し、ぎゅっとしがみつく。
私も、もう我慢できなくて、娘を抱いたままその場に膝をついた。
「うん……ママ、勝ったよ……もう誰もあかりを傷つけない……ママがずっと守るから……」
熱い涙が止まらなかった。
娘の髪を撫でながら、嗚咽が漏れる。
解放感と、愛と、達成感が胸いっぱいに溢れる。
怖かった。
本当に、死ぬほど怖かった。
でも、守れた。
娘の未来を、守れた。
この子と、これから生きていく。
二人で、幸せになる。
意識が戻った夫は、リングの上でうっすら目を開けた。
胸元には離婚届
「今すぐ書きなさい」
妻が自分を見下ろしている。
あの目は、もう優しくない。
冷たく、強く、決別していた。
娘が母に駆け寄る姿が見える。
「あの子は、もう俺の娘じゃない……
俺は、父親の資格を、完全に失った……」
孤独が、底なしの闇のように襲ってくる。
誰も助けてくれない。
誰も、許してくれない。
最後に残ったのは、
惨めさと、取り返しのつかない喪失感だけ。
震える手でペンを握り、涙を流しながら
あたしを見上げる弱い男の姿。
情けない、嗚咽混じりの声。
この男は、今何を想っているのだろうか。
手が震えるのは、きっと痛みのせいだけじゃない。
•力があると思っていた手
•人を支配してきた手
•家庭を「自分のもの」だと思っていた手
その手で自分の立場を失う書類を記入している。
なんで俺が
ここまで……
そう想っているに違いない。
だが、もう遅い。
全部あんたが選んだ道だから。
「終わったのよ。もう、二度と近づかないで」
私は冷たく記入を見届け、娘の手を握った。
娘が、私の手を握り返しながら、小さく手を上げてくれた。
勝利のポーズ。
「ありがとう、ママ……ママ、強かった……!!」
私は娘に微笑み、涙を拭った。
「ママも大好きだよ。これからは、二人で幸せになろう」
ジムの出口に向かって、ゆっくり歩き出す。
背後で、倒れた男の荒い息だけが虚しく響く。
もう振り返らない。
あの真っ赤なグローブは、今も私のお守り。
そして今、娘もジムに通い始めた。
一緒にミットを打ち、シャドーをする。
娘が笑顔で言う。
「ママみたいに強くなりたい!」
私は娘の小さな赤いグローブを締め直しながら、優しく頷く。
「なれるよ。一緒に強くなろう」
確かに男は強い。
でも本気になった女はもっと強い。
女は守るものができたとき、最強になる。




