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7 マフィン館

 「カエデが過ごす部屋はマフィン館の、この部屋です」


 クローバーが案内してくれた部屋は、うちわに似た構造の部屋だ。


うちわの柄にあたるひとつめの扉を開けると円形に似た形のエントランスがある。


エントランスの壁にはいくつもの扉がついている。部屋はうちわの骨で仕切られたような長細い部屋だ。


次の扉を開けると、ベッドと机とクローゼットが置いてあるだけの簡素な部屋がカエデの個人部屋だ。壁紙もベッドも机も、新しい。きれいな部屋だ。


 「ありがとう、とてもいい部屋ですね」


 「よかったです、満足いただけて。では、ここで毎日眠れるよう、仕事に励んでくださいね」


 「わかりました」


 クローバーが部屋を出ていくと、カエデは、ベッドの上に飛び乗った。


 「なんか、落ち着く」


 壁紙はやわらかなはちみつ色。ベッドもそれに似た色で統一されている。机は丸みを帯びた造りで、使いやすそうだ。


 ベッドから降りると、カエデは机に向かい、引き出しを開けてみた。


 「ノートだ。鉛筆もある」


 そのほかに、のり、はさみ、テープ、一通りの文房具が揃っていた。いくつか引き出しを開けて気づいた。


 「さすがに、パソコンやタブレットはないな」


 カエデはわくわくした。勉強は好きだ。真新しいノートを取りだし、鉛筆で「思ったよりいいかもしれない」と書いてみた。


カエデは、今までも、なんとなくわくわくするときには、きっといいことが起きるにちがいないと思うようにしていた。


悪い予想や嫌なことが実際にあって、心が暗闇に沈みそうなことが何度もあった。


だからこそ、無理やりにでも楽しいこと、幸せなことを考えよう、と思うことで、カエデは今まで生きてきたのだ。


 大学で学んだことを少しノートに書いてみる。


 「懐かしいな」


 つい最近まで大学に行っていたのに、ずっと前の出来事のように思える。


 ふと、カエデは今の状況をノートに書きだしてみた。


 セマシが運転していない、セマシのタクシーで轢かれた。


 すきま区の四丁目診療所に来てしまった。


 仕事があるらしい。……。


 セマシはどんな借金をして、どんな風に取り立てられているのか。


 ハルオおじやセツコおばの言う通りなら、のんきな借金取りのはず。


 ……もしかして、何かの事件に巻き込まれているのか?


 そこまで書いて、ノートを閉じた。その先は、さっぱり想像もつかない。


 甲高い、けたたましい音が鳴り響いた。聞いたことのある音。剣の舞のようだ。


 どうした?


 恐る恐る、個人部屋の扉を開けた。


エントランスにあるいくつもの扉が次々に開き、見知らぬ人々が出てきた。人々は、何でもないような表情で、外に出ていく。


何人目かの男性がゆっくり出てきた。


カエデは思い切ってたずねてみた。


 「すみません、この音は何ですか」


見知らぬ男性は、カエデがいたことに驚いた様子でカエデの顔をまじまじと見た。


 「新人?」


 「……はい、そうです」


どことなく品のある高齢男性は、にっこり笑った。優しい笑顔だ。


 「今から仕事に出かけるんだよ。一緒に来るといいよ」


 「……仕事ですか。……何か持っていくものはありますか」


 「いえ、そのままでいいよ」


 カエデは高齢男性のあとについて外に出た。


そこは、幅の広い廊下になっていて、たくさんの人々が歩いている。高齢男性とはぐれないよう、注意しながら歩いた。


 「僕は大江原ノボルだよ。小学校の先生をしていたんだ。定年前は、校長先生をしていたんだよ」


 カエデはノボルの話を聞きながら、ノボルの優しい雰囲気に納得した。


カエデ自身が小学生のときの先生たちは、みんな優しかった。


 「僕は、藤カエデです。大学生です」


 「やあ、大学生か。まだ若いね。こんなところに来てしまったんだね」


 ノボルの体じゅうから気の毒だという雰囲気がにじみでている。


 「僕はね、娘と息子がひとりずついてね。息子は結婚して子どもがいるんだけど、娘はまだ独身でね。


この娘が僕の心配をしてくれて。僕が定年退職をして、ぼんやりしていたらいけない、と言って、公民館の陶芸教室を教えてくれたんだ。そこに楽しく通っていたんだけどね。


通っている途中で車が事故を起こしてしまって、ここに来てしまったというわけさ。


ははは、僕はもう年よりだから、思い残すこともないし、このまま死んでも悔いはないよ」


 カエデは返す言葉が見つからず、黙っていた。定年退職したばかりなら、まだ六十代だろう。


 「これから行く仕事はね、動物の世話をするんだよ。これが新鮮でね。僕は初めての体験で、楽しいよ」


 ノボルはひとりでしゃべって、ひとりでうなずいている。


カエデはうっすら笑みを浮かべて黙って聞いていた。


長い廊下を歩いて、あるところで外に出た。


 広い緑の大地が広がっている。青い空がずっと向こうで緑の大地と交わって地平線をゆるやかに描いている。


 カエデは、最近見たことのある風景だ、と思った。


 ずっと向こうの緩やかな緑の斜面に、黒い点々が散らばっている。


 「……あれは、牛ですか」


 「そう、牛だよ。私たちの仕事は、あの牛さんのおうちの掃除なんだよ」


 「そうなんですね」


 カエデはそう答えて、ピンとこなかった。牛の家、ってどんな家?


 「ここだよ」


 到着したのは、小高い丘のふもとだ。トンネルのような大きな穴が開いている。


 ノボルはトンネルの中にどんどん入っていく。


カエデはなんだか不気味さを感じたが、ノボルについてトンネルの中に入っていった。今にも影からなにか飛び出して来やしないかとビクビクした。


真っ暗な穴に入っていって、大丈夫だろうか。牛の家だなんて、衛生面で触りたくないな。


 トンネルは、カエデの想像とは違い、ところどころに穴が開いていて、外の空気を容易に取り込むことができる仕組みになっていた。


空気も入るし、太陽の光もたくさん入ってくる。


 「思ったより、過ごしやすそうな場所ですね」


 「そうでしょ」


 ノボルはにこにこしている。


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