3 カエデ、吹っ飛ぶ
セマシは退院することができた。
一週間は家で療養するらしい。
セマシの怪我は小さな切り傷が無数にあって、見た目は痛々しい。タクシー運転手として、ゾンビみたいな顔で仕事をしないよう、会社から言われたそうだ。
「体は元気なんだ」
セマシはうれしそうに出歩いた。
「どこへ行くんだよ」
「こういう時こそ、昼間から店に行って遊ばないと」
「セマシ、そんなことしているから金がなくなるんだよ」
「いいんだよ。カエデに迷惑かけてないから」
「かけてます!」
セマシは鼻歌まじりで玄関を出ていった。外が静かなので、ハルオおじもセツコおばも畑にはいないらしかった。
カエデはセツコおばが心配して作ってくれたおかずをタッパーから出して皿に出した。一口食べる。
「うまっ」
学食も外食も、揚げ物が多くて、煮物を食べる機会が少ない。セツコおばは、煮物や魚料理をたくさん作ってくれた。
母親がいたら、こんな料理を毎日食べていたのかな。
ふと、考えてしまった。
カエデに母親の記憶はない。
幼い頃、カエデがセマシに母親のことをたずねると、おれが生んでやったんだとか、天女になって空にのぼっていったとか、夏になったから溶けていなくなったとか、いろんなことを言っていた。
姉さんにたずねると、ちょっと嫌そうな表情をしたあと、私がお母さんよとか、お母さんはミツコ姉さんよとか、いろんなことを言うから、もう聞かない方がいいんだろうなと理解していた。
今日も居酒屋は繁盛していた。
バイトが済むと、たいてい深夜を過ぎている。帰ると一目散に布団に駆け込み、あっという間に眠りに落ちる。
朝、軽くシャワーを浴びて大学へ行く。
夕方、軽くセツコおばが作ってくれた料理を皿に移して食べた。
居酒屋でまかないも出してくれるが、まかないを食べる時間は相当遅いので、それまで腹が減る。
いつもはおにぎりなんかを自分で作って食べるのだが、今はセツコおばがたくさん作ってくれているので、助かる。
「うまっ」
あっという間にたいらげ、皿を流しに置いた。
カエデはバイト用のエプロンをバッグに入れた。
かがんだ時、今まで感じたことがないような、胃の痛みを感じた。
急速に食べたばかりの食物が食道をかけのぼってくる。
急いでトイレにかけこむと、流動食のようなものを大量に吐き出した。額には冷たい汗が大量に浮き出ている。息も荒い。
なんだ?
背中にも冷や汗がとろりと流れる。何度も何度も吐いた。最後は胃液しか残らなかった。
しゃべれないので、店長にメールを打った。
すぐに「休め」と返信がきた。
まさか、セツコおばが作ってくれたおかずが早くも腐っていたのだろうか。
とにかく、吐けるだけ吐いた。ときどき水を飲んでみるが、それも全て吐き出した。
気づくと朝になっていた。吐き気はおさまったが、徹夜でフルマラソンを走ったかのように身体が疲れ切っていた。
大学は休んで寝ていた。
セツコおばが作ってくれたおかずは残りひとつとなっていた。
あの苦しみを考えると、セツコおばには申し訳ないが、おかずは捨てた。
夕方になると、起きれるようになった。
店長に電話をすると、胃腸炎か何かで、店の料理に影響が出るといけないから、しっかり休むよう、言われた。
セマシではないが、元気になり、やることもなくなるとちょっと遊びに出かけたくなった。
何人かの大学の友人に連絡をしてみると、一緒に遊んでもいいという友人を見つけ、出かけることにした。
久しぶりに楽しく遊んだあと、バイト帰りの時間より早い時間に帰宅した。
家の中は暗かった。電気をつけ、手を洗おうと洗面台に行くと、台所の方から物音がした。
「セマシ?いるのか?」
台所には、見たことのない男が立っていた。
黒の上下のジャージを着て、目出し帽をかぶっている。
一瞬で、泥棒だと確信した。
黒ずくめの男は、カエデを小ばかにしたような目で見ると、ふてぶてしく歩いて玄関に向かった。
テレビドラマなら、かけ声とともに悪漢に飛びついていくのだろうが、包丁など持っていたらなど考えると恐ろしくて声も出ず、カエデはじっとしていた。
男はフッと鼻で笑うと、堂々と玄関から出ていった。
カエデは玄関に鍵をかけるとすぐに警察に電話をした。
待っている十分間が長く感じた。
警察官はカブで二人やってきた。
盗られたものはないか、などいくつか質問をした。またなにかあればすぐに電話するよう言うと、警察官たちは帰っていった。
「ねえ、カエデ。しばらく家においてある食べ物は食べない方がいいわよ」
ミツコ姉さんに配達に行くと、ミツコ姉さんはいつもになく厳しい顔つきで言った。
「あんたたち、おかしいわよ。セマシは室外機が落ちてきて怪我するし、カエデは家にある物を食べて吐くし。しかも、泥棒も入ったんでしょ。普通じゃないことが、立て続けに起きているじゃないの」
「そうですね」
「あんた、他人事みたいね」
「いえ…。ただ、僕の家みたいに貧乏なところに、何をしに泥棒が入ったのかな。入る家を間違えたんじゃないかな」
「たしかにね。貧乏で、さえない男二人の家に、何を盗みに入ったのかしらね。むしろ、何かを置いていったんじゃないの?」
「置いて?僕たちに、何かくれたの?」
「くれたなんて言ったら聞こえがいいけど。悪い物を置いていったんじゃないかしら。とにかく、気を付けることね」
「わかりました。ありがとうございます」
カエデは首をかしげながら居酒屋に戻った。カエデも少しおかしいと思っていた。
セマシに言って、家に食べ物や飲み物をおかないようにした。
買って帰ったらすぐに食べるようにしている。
何に対しておかしいと感じているのか、わからない。でも、なにかがおかしいのは確信していた。
大学の授業が済んで自転車をこいでいると、家の方からセマシも自転車に乗って走ってきた。
「今から仕事?」
「おーよ。行ってくる」
「いってらっしゃい」
「あれ?」
セマシが道の向こうを見つめた。
「どうしたの」
「おれのタクシーが走っている」
「どういうこと?」
「一人一台、タクシーが割り当てられている。あれは、おれのタクシーだ。誰が運転しているんだ?」
セマシのタクシーが、どんどんこちらにやってくる。広くない道路を速いスピードだ。
タクシーは、スピードを緩めるどころか、さらにスピードをあげた。
セマシに向かって走ってくる。
カエデは必死にセマシをよけようと自転車を走らせた。
「危ない!」
「来るな、カエデ!」
「セマシ、よけろ!」
「カエデ!」
セマシの悲痛な声を聞いたとき、カエデの体は宙に弧を描いていた。
カエデの自転車が大きな音をたててバラバラになるのが見えた。