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2 セマシ、事故にあう

 居酒屋が開店すると次々にお客さんがやってきて、気が付くとすでに深夜になっていた。


 「カエデ、配達に行ってくれ。ミツコさんのところ」


 店長が料理を箱に入れながらカエデを呼んだ。


 カエデは居酒屋を出ると、すぐ先のビルのエレベーターのボタンを押した。


しばらく待っていると、エレベーターが到着し、扉が開いてカエデは一瞬ギョッとした。


エレベーターの床には一人の若い男が転がっている。男は泥酔しているらしく、真っ赤な顔を少し動かして眠りこけているようだった。


 「兄さん、乗るよ」


 カエデは料理に注意しながらエレベーターに乗り込み、行先のボタンを押す。


エレベーターが動いている間、兄さんが静かにしていることを願った。ありがたいことに、兄さんはピクリともせず眠りこけている。


目的地にエレベーターが到着すると、カエデはさっさとエレベーターを降りた。


 慣れた通路を通り部屋に入ると、ミツコ姉さんが休憩をしていた。


ミツコ姉さんは大柄な男性だ。だが本物の女性よりも美しい顔をしているし、しぐさも女性よりも女性らしい。


ミツコ姉さんの店には、男性の姉さんもいれば、女性の姉さんもいる。


それが何の違和感もなく営業できてしまっているのは、オーナーであるミツコ姉さんの大きな人間性のおかげだと、この街の住人は認めている。


ミツコ姉さんはドレープがたくさんあしらわれたゴールドのドレスをまとい、三人用のソファを独り占めしていた。


 「肉よ、肉を食べるわよ」


 カエデはミツコ姉さんの前に料理を並べる。


 「おいしそう!カエデも食べていいわよ」


 「いえ、僕はまかないがあるので」


 ミツコ姉さんは長いまつ毛の目でジロリとカエデを見る。


 「カエデ、そんな細い体で。女が寄って来ないわよ。もっと筋肉をつけなさい、ここも鍛えて」


 ミツコ姉さんは長い爪でカエデの股間を指さす。


 「ここは関係ないでしょ、鍛えようもないし」


 「伸ばしたり縮めたりするのよ。一日百回ね。ふふふ」


 「何言ってるんですか」


 「いつでも言いなさい、私も練習につきあってあげるわよ」


 「いえ、結構です」


 ミツコ姉さんは吸い込むように料理を口に入れていく。あっと言う間にたいらげると満足そうな表情でワイングラスをかたむけた。


 「あんたさあ、いつ男になるの」


 「……また、何を言い始めますか。僕は生まれた時から男です」


 「子どもみたいなことを言うのね。そうね、店の子たちが、カエデを誰が奪うか、かけをしていたわよ。カエデ、いつまでも赤ちゃんじゃだめよお。女を取っては食い、取っては食い。男を磨きなさい」


 「ぼちぼちでいいです」


 「カエデ、おっさんみたいなこと言っていると、おっさんになるわよ」


 カエデはあいまいに笑った。


 「それとも、男に興味があるの?最近、目つきの悪い男たちがカエデたちを見張っているみたいよ。心当たりは?」


 「借金取りかなあ?セマシのやつ、どこから金を借りたんだろう。僕の大学は無料だから、お金はそんなにいらないはずなんだけど」


 「あら、大学無料を続けているのね。成績優秀者でないともらえない奨学金でしょ。カエデ、がんばっているのね。そうねえ、奴ら何者かしら。借金取りならいいけれど」


 「いいけれど?どういうことですか、姉さん」


 「……さあね」


 ミツコ姉さんはそれ以上、その話をしなかった。




 大学の講義が済み、学食で学生たちの長い列に並んでいると、カエデのスマホが鳴った。


 「もしもし」


 「カエデちゃん!」


 ミツコ姉さんの店の事務員のタキザワさんだった。慌てている様子だ。カエデの胸がざわつく。


 「セマシが!タクシーで事故なのよ!空から室外機が落ちてきたの!今、病院にいるから行ってあげて!」


 カエデは病院に自転車を急がせた。


教えてもらった病室に着くと、壁に貼ってあるネームプレートを確認した。「藤 ヒロシ」と書いてある。セマシの本名はヒロシなのだ。


カエデの物心ついたときから姉さんたちがセマシと呼んでいて、小さい頃はカエデも父親の名前はセマシだと思っていた。


「ヒロシだなんて、高尚な名前!セマシでいいのよ!」と姉さんたちが大笑いしたのを見て衝撃を受けたことを今でも覚えている。


 「セマシ」


 病室に入ると、セマシが白い部屋の白いベッドに横たわっている。カエデはたった一人の家族がいなくなる予感がして、体中の血の気が引いて行くのを感じた。


 「おおう、カエデ」


 セマシは元気そうな声で答えた。カエデはホッとする。


 「なんだよ、事故ってんじゃねえよ」


 「おおう、カエデ。空からでっかい何かが降ってきたのよ。おれがスピード出していたら、おれに当たっていたかもしれんのよ」


 「室外機もセマシに当たりたくなかったんだよ」


 憎まれ口を言いながら、カエデは安心して涙が出そうなのをがまんした。


 「なんで、室外機?そんなものが空から降ってくるのかよ。それでか、警察がやってきていろいろ聞くものだから。おれに知ったことじゃないだろ。ビックリしたよ、本当に」


 セマシはブツブツ文句を言っている。女性看護師がやってきて、カエデの顔を見るとにっこり笑いながら説明してくれた。


 どうやらセマシが客を降ろしてタクシーを運転していると、近隣の高層住宅の室外機が外れてセマシのタクシーのボンネットに直撃したらしい。


それがはずんでフロントガラスを割ったが、車内に室外機は入らなかった。代わりに割れたガラスがセマシに当たったらしい。


傷は浅いが無数にあって一日入院して他に異常がなければ退院できるとのこと。


 セマシがうれしそうに女性看護師に話しかけるが、女性看護師は慣れた様子でにこにこ笑いながらさっさと部屋を出て行った。


 セマシが元気なのを確認すると、カエデの脳裏にいろんな疑問が湧いてきた。


 どこからエアコンの室外機が落ちてきた?セマシのタクシーに当たったのは偶然?ミツコ姉さんが言っていたことも気になる。


カエデは自転車を事故現場へ走らせた。


 現場は、セマシのタクシーも落ちてきた室外機もすでに撤去されていた。しかし、黄色のテープが張り巡らされ、現場には入れないようになっていた。


黄色いテープの周りには野次馬が群がっていた。


 「あれが落ちてきたのか。今回落ちた室外機のほかにまだいっぱいあるじゃないか」


 「ビルの壁にむき出しの室外機、最近ではほとんど見なくなったけど、まだあったんだなあ」


 「ここは道路のすぐ脇だから危ないなあ」


 「あのブルーシートがかかっている場所の室外が落ちてきたんだろ。残っている室外機も落ちてくるなら、この道路、かなり危ないね」


 「早く撤去してもらわないと、怖いわ」


 野次馬たちがしゃべるのをカエデはじっと聞いていた。


八階建てのビルは壁の色もすっかり剥げ落ち、コンクリートの色がむき出しになっている。


今も誰か入居しているのか不明だが、ビルにベランダはなく、部屋の数だけ室外機が壁につけられた金具でぶらさがっている状態。


あの金具が何らかの原因で緩んで室外機が落下したのだろうと予想はつく。


あんなに大きな物が、音もなく空から落ちてきて、セマシの頭の上に落ちてきていたら。想像するだけでゾッとした。

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