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19 ノボルの思い出

 「大江原先生」


 放課後の誰もいなくなった廊下で若いノボルを呼び止める子どもがいた。教師になってやっと軌道にのってきたころだ。


 「ボタン?」


 ボタンはこの春、ノボルの小学校を卒業したばかりの子どもだ。真新しい中学校の制服が輝いている。


だが着ているボタンの顔はうつろで青ざめている。ボタンは口の前に指を立て、辺りを気にしている。


 「どうした?」


 ノボルは小さい声でボタンにたずねた。


子どもは冗談で内緒話をよくするが、ボタンの様子はただごとではなかった。涙を流し、血の気の失せた唇を細かく震わしている。


 「教室に行くか?今、私は四年生を受け持っているから、四年生の部屋だよ。きっと懐かしいと思うよ」


 ノボルは誰もいない自分の教室にボタンをつれていき、席に座らせた。ノボルも何でもないかのように、教師用の事務椅子に座った。


 「小さいな」


 ボタンは席に座ると、懐かしそうにニッと笑った。


 「ボタンも小さかったんだよ」


 ノボルはにこにこ笑ってみせた。ボタンはぽろぽろ涙を流す。


ノボルはボタンが話し始めるのをじっと待った。ボタンは両手を揉んだり、髪を触ったり、落ち着かない様子。


 「……誰にも言っていないの。お母さんにも」


 ボタンは震える小さな声で言った。ノボルは黙ってひとつだけうなずいた。


 「……私、お腹に赤ちゃんがいるの」


 ノボルはうなずくことができないほど、内心驚いた。表情に出さないようにすることだけ、必死にがんばった。


 誰の子?中学生になったばかりの子どもが妊娠?親も知らない?お腹の子どもはどうする気だ?どうやって妊娠した?


 ノボルの頭の中で、何人ものノボルが大討論をはじめた。額に汗が浮かぶのを感じた。


 「……先生、どうしよう」


 長い沈黙が続いた。


 ボタンはかわいい女の子だ。成績もよく、男女問わず、いろんな友だちと仲良くしているのをよく見かけた。


 どこがどうなって、こうなった?ボタンに何を話せばいい?


 ノボルは黙って曖昧な笑顔を浮かべるのが精一杯だった。


 「……好きな男の子の子どもなの。産みたいの」


 ボタンは小さいがしっかり言った。強い意思を感じた。


 ノボルの心は、もだえ苦しんだ。


 産みたいと言うのは、簡単!そのあと、どうやって育てるんだ?


 「どうすればいいか、わからないの」


 ボタンは泣いた。


 ノボルは絶望を感じた。


 ノボルの頭の中で、何人ものノボルが激しい討論を繰り広げている。


 ボタンは父親を知っているらしいぞ?誰か聞いてみろよ?


 一人のノボルが言った。


 ノボルは、ぽん、と自分の頭をひとつ叩いた。


 「ボタン」


 ノボルはゆっくり、優しく言い方に気を付けて声をかけた。


 「ボタンがお腹の赤ちゃんのお母さんなら、お父さんもいるはずだよね。私に教えてくれるかな?お父さんになった人と、赤ちゃんの誕生を喜びたいんだ」


 ボタンはハッと顔をあげた。


 「……先生、赤ちゃんの誕生を喜んでくれるの?」


 「もちろんだよ」


 「先生、本当ですか!」


突然、教室の扉がガラリと音を立てて男の子が飛び込んできた。


ノボルは驚きのあまり飛び上がって男の子を凝視した。男の子は制服を着ていないが、ノボルには見覚えのある子どもだ。


「キキョウ」


「先生、僕が父親なんです」


キキョウは賢そうな瞳を緊張でこわばらせている。


キキョウも成績のよい子どもで、思い返せばボタンとは特に仲良くしていた。


だが、こんなことになるほどの仲良しとは思ってもみなかった。


「君がお父さんなんだね、おめでとう」


 ノボルは精一杯の笑顔で言った。


 ボタンはわっと泣き出した。キキョウも立ったまま声を出して泣き始めた。


ノボルは二人が泣いているのを、どうすることもできず黙って見ていた。


 キキョウは嗚咽しながらノボルに言った。


 「ごめんなさい、初めからちゃんとボタンと一緒に先生の前に来ればよかった。ボタンがひとりで行くというから」


 「だって、キキョウが来たら、先生に殴られると思ったから」


 「でも、心配で心配で、こっそりついて来てしまった」


 ボタンとキキョウは嗚咽しながらお互いをかばいあった。


 「うん、わかったよ。大丈夫だ。さあ、キキョウも座って」


 ノボルはボタンとキキョウに向かい合う形で座った。


 「では、授業をはじめようか」


 ノボルは黒板を使って、現状と未来の予想図を書いた。


 「今はまだお腹の中にいる赤ちゃんは、いずれ産まれてくる。産まれると育てないといけない。育てるには、何が必要ですか」


 「お金」


 ボタンが即答した。


 「そうだね。お金と、そして?」


 ノボルは意見を黒板に書いていく。キキョウも答えた。


 「保育園」


 「そうだね。そして?」


 ボタンとキキョウは首をひねった。


 「育てるのにお父さんとお母さんの愛情が必要なんだよ」


 ボタンとキキョウは、ハッと顔を見合わせた。ノボルは黒板に大きく、愛情、と書いた。


 「ははは、難しいことを言ったね。君たち顔色がとても悪いよ。そんな青い顔をして、赤ちゃんを愛してあげることができるかな?大丈夫、ゆっくり考えてみよう。私はいつでも力になるから」


 ノボルはにこにこ笑った。ボタンとキキョウは二人で顔を見つめあい、ボタンがふふ、と笑った。


 「本当だ、キキョウ、青い顔をしている」


 「ボタンも、青い顔をしているよ、ごめん、僕のせいだ」


 「一緒に育てようよ」


 「うん、一緒に育てよう」


 「じゃあ、ボタン、キキョウ、君たちのお父さんとお母さんにも伝えないといけないよ。だって、彼らはおじいちゃんとおばあちゃんになるんだからね」


 ボタンとキキョウの顔に笑顔が戻り、少し顔色もよくなった。


二人は仲睦まじく教室をあとにした。その後ろ姿は、ままごとのようで、ノボルはたよりなさを感じていた。


 ノボルが校長と教頭から呼び出されたのはまもなくだった。


 「ボタンとキキョウは、大江原君に相談しにきたんだね。すぐに私たちに報告してくれないと困るよ」


 「ボタンとキキョウの両親から連絡があったんだ。ボタンは中絶させると両親は言っている。当然だがね」


 校長と教頭は深いため息をついた。


ノボルも、こういう未来は予想していた。二人が親になりたいと思っていることは理解できるが、育てる現実は困難を極めている。


 鬱々とした気分で家に帰ると、夜更けに玄関のチャイムが鳴った。


 「誰かしら」


 妻のヨリコがそっと玄関に出た。


 「あなた!」


 ヨリコがボタンとキキョウを連れて部屋に来た。


 「先生、ありがとうございました。先生だけでした。僕たちの力になってくれたのは。僕たち、ここから逃げます。ここにいると赤ちゃんを産めなくなってしまうから……」


 キキョウが言い、ボタンは泣いている。


 「どこへ行くの?」


 ヨリコが心配そうにたずねた。


 「わかりません」


 キキョウが答えると、ヨリコは怒った表情をした。


 「あなた!」


 ヨリコはノボルに言った。


 「あなた、教師でしょ。子どもが困っているのに、放っておくのですか!」


 「しかし」


 「キキョウさん、ボタンさん、あなたたちのことは主人から聞いています。あなたたち、本当に赤ちゃんを産むつもりなの?」


 「はい!」


 キキョウもボタンも決意ある表情をした。


 「親になるつもりなのね?」


 「はい」


 「なら、なんだってできるわね?」


 「……はい!」


 「その返事、聞いたわよ。しっかり、親になりなさい。赤ちゃんは、私が育てますから」


 ヨリコの言葉に、キキョウとボタンは意表を突かれた顔をした。


 「いいですか。あなたたちはまだ中学生。これからしっかり勉強して大人になり、仕事をしないといけません。そのためには、赤ちゃんがいてはできません。


本当に親になるというのなら、赤ちゃんは私に任せなさい。その間に、あなたたちは大人になりなさい。それが、あなたたち親の勤めです。できますか」


 キキョウとボタンは顔を見合わせた。


 「できます」


 キキョウが答えた。


 「私もできます」


 ボタンも答えた。


 「じゃあ、今晩は帰りなさい。ご両親には主人の方から連絡しておきますからね」


 ヨリコはにっこり笑って二人を見送った。




 赤ちゃんがノボルとヨリコの養子になったのは、半年ほど後のことだった。


ノボルとヨリコが赤ちゃんを引き取りに行くと、ボタンは泣いていなかった。キキョウは青い顔をしていたが、しっかりボタンを支えていた。


 「先生、赤ちゃんをよろしくお願いします。私たちが大人になるまで、赤ちゃんに会いません。赤ちゃんが混乱するといけないから、赤ちゃんは先生の子どもとして育ててもらえませんか」


 ボタンは、はっきりとノボルとヨリコに言った。


 「二人で考えたんです。僕たちが、今できる精一杯の愛情なんです。どうか、お願いします」


 キキョウもノボルとヨリコに深くお辞儀した。


 「わかりました。しっかり、お預かりします」


 ノボルとヨリコも、深くお辞儀をし、赤ちゃんを受け取った。


 中学生の子どもの判断ではなかった。一人の子どもを思う親の判断だ。ノボルは重大な宝物を受け取ったと思った。

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