1 カエデ
飲食街の猥雑な環境で育った大学生の藤カエデ。
父セマシのようにはならないぞ!と勉強やバイトに励んでいたら、事故にあって、この世とあの世の間にある「すきま区」にきてしまった。
すきま区の人々は、生きるか死ぬかを自分で決めるらしい。
そんなの決まっているでしょ、と思ったらそうでもないみたい。
いろんな人のいろんな人生に、ちょっとだけ入ったり出たりするお話です。
「セマシ、早く行けよ」
「わかってるよ」
「仕事に遅刻なんて、ありえないからね」
「うるせえ、カエデ。おれのかあちゃんか」
「僕には母親がいないから、どんなものか知らないよ。どこの世界に息子から説教される父親がいるの」
「ここにいるよ」
「いくら長年働いたタクシードライバーだからって、みんなが許してくれるわけじゃないんだよ」
「まかせろってんだ。若いくせに口うるせー奴だ」
セマシはゆっくり靴を履いた。
玄関を開けると、元気な大きい声がした。隣に住んでいるハルオおじとセツコおばだ。
カエデはそのありがたい声を聞くと気持ちが滅入った。はあ、と軽くため息をついてカエデはセマシの後から玄関の外に出る。
「セマシ、いってらっしゃい」
「おーよ。行ってくるよ、ハルオさん、セツコさん」
「セマシのおかげで、この社宅に今でも住めているんだからさ。見送りなんて、毎日やってやるよ」
「そうそう。セマシのおかげなんだから。ハルオさんが定年退職したのに、まだ社宅に住んでもいいって会社が言ってくれるのは、セマシが一生懸命稼いでいるおかげなんだから」
「まあ、需要と供給が合ったってことだよ。このオンボロ社宅を建て直す金が会社にない。おれたちは住むところがない。じゃあ、おれたちが安い家賃を払いながらここに住んでメンテナンスだってやってるんだから。会社もおれもウィンウィンなんだよ」
ハルオおじは解説員のように得意げに言う。
「ハルオさん、なんだか難しいことを言うのね」
「フフフ」
セツコおばに言われて、ハルオおじは得意そうに笑う。
「カエデちゃんの面倒だって、私たちにまかせて」
「セツコおば、僕はもう大学生だよ。面倒って。赤ちゃんじゃないんだから」
「なに言ってるの、カエデちゃん。人間は、支え合って生きていくのだからね。ほら、人っていう字は、右と左の線が支え合っているでしょ」
「おお、久しぶりに聞いたなあ。このくだり」
「セツコおば、それって支え合っているんじゃないらしいよ……」
そこまで言って、カエデはそれ以上言うのをやめた。セツコおばの言う通り、この社宅の人々は支え合って生きている。
一階建ての小さな家が数件集まって建っている社宅で、ハルオおじとセツコおばは、家のまわりの土を、たぶん勝手に耕して畑にしている。そこで摂れた野菜を社宅間で配って物々交換をして楽しんでいる。
「じゃあな」
「行ってらっしゃい、安全運転だぞ、セマシ」
セマシは手を振って自転車をこいで行った。
「夜、困ったことがあったら、すぐに私たちに言うのよ」
「そうそう、最近、カエデの家に借金取りがよく来てなあ。おれたちの家までたずねてきやがる」
「そうなんですか。すみません、ご迷惑をおかけして」
「まあ、セマシのヤツ、どんな借金をしているのか知らんけどさ。でも、あの借金取りも、のんきな奴らだよな」
「この間もさ、私たちが畑で草取りしていたら、セマシの家の周りを一周回ったあと、うちに来て、いつセマシが帰るのか、とかセマシ以外に誰か住んでいるのか、とかいろいろたずねるものだから。あんまりやかましいから、お茶でも飲んで帰りな、って言ったらね、お茶を飲んで、草取りを手伝って帰ったよね」
「まあ、あいつらも手ぶらじゃ帰りづらいんだよ」
ハルオおじは少し歯の抜けた口を大きくあけ、わあっはっはと強い腹筋を使って笑った。
「いつもありがとうございます。じゃあ、僕、これからバイトなんで」
カエデはハルオおじとセツコおばに挨拶をして一旦家に入った。
薄いバッグにバイト用のエプロンを入れて玄関を出た。セツコおばとハルオおじは庭の畑に水やりをしていた。
「カエデちゃん、行ってらっしゃい」
「気をつけてな」
「行ってきます」
カエデは薄暗くなりはじめた道に自転車を走らせた。
カエデのバイト先の居酒屋は、夜の繁華街の一角にある。その少し離れた場所にセマシのタクシー会社があって、セマシが酔った客や店の姉さんを乗せて走っている。
「カエデちゃん、バイト?」
自転車を走らせていると、女性の声がした。真っ赤なドレスを身にまとった女性が赤い唇でにこにこ笑っている。
「はい、バイトです」
「はい、バイトです。ウケるぅ、ちびカエデちゃんのくせに、一人前の男みたいに答えちゃって」
「あらあ、一人前の男よね。カエデちゃん、バイトが終わったら店にいらっしゃい」
別の女性が寄ってきた。
「今日のオードブル、すごくおいしそうなの。本当はいけないけど、カエデちゃんのために残しておくから」
色とりどりのドレスを着た女性たちがカエデの周りに集まってきて、口々にしゃべる。店の姉さんたちだ。
「いや、いけないんだから、取っておかなくていいですよ」
カエデは道を開けてほしいと思って自転車を押した。
「いいえ、必ず取っておくわ。だから、必ず店に来てよ。そのまま店で働いてくれてもいいのよ」
女性たちは、体ごとカエデに近づいてくる。腕を組んでくる姉さんもいる。
「離れてください、爆発しますよ」
「爆発う?一緒に吹き飛んであげる!」
「じゃあ、爆発する前に、私と何回イケるか試してあげる!」
いろんな姉さんたちが大きな声で競い合う。周囲の通行人は見ないふりをして通り過ぎで行く。恥ずかしいことこの上ない。
「カエデ!」
男性の太い声が聞こえた。飲食店が連なる通りの向こうからだ。
「あ、店長が呼んでるわよ。店長ぉ、カエデちゃんバイト終わりに店に来るように説得してね」
「しねえよ!カエデ、いつまで障害物競争から脱出できねえんだ」
店長は店の外に看板を出している。
「すみません、店長。じゃあ、姉さん、行ってきます」
「カエデちゃーん、待ってるわよう」
カエデはつきまとう姉さんたちを振り切り、居酒屋にやっと到着した。急いで開店準備に取りかかる。
雑多な通りには客たちが集まり始めていた。空は暗くなり、ネオンが一層輝き始めた。
身をひそめるように路上でタバコをふかしている男がカエデを見ていることなど、誰も気にしていなかった。
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