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——初夏の空気が、ヴァルモント帝国の宮廷の石畳を吹き抜けた。
心地よい太陽の光が、大広間に差し込みお茶会を歓迎しているようだ。
「……ご準備が整いました、皇女様」
控え室で膝を折る侍女アニーの声は、かすかに震えていた。
鏡の前に立つエレノア自身も、血の気が引くような感覚を覚えていた。鏡に映るのは、十五歳の自分。あの日、愚かにも皇后の手のひらで踊らされ、破滅への道を歩み始めたあの日。
「……ええ、ありがとう、アニー」
口元に笑みを浮かべたつもりだったが、頬は引きつっていた。
何もかも既視感があった。それもそのはず。この場面を、彼女はかつて体験していた。
そして、あのときは何も知らず、無邪気にこのお茶会へと足を運び、恥をかかされ、孤立を深めたのだ。
親睦を深めるという名目で皇后が主催したお茶会は、表向きは和やかなものだった。
だが、その意図は明白だった。
エレノアは自分の手の甲を握りしめ、同じ過ちは繰り返さないと強く誓い、爪が食い込む痛みで冷静さを取り戻した。
「アニー、今一度、髪飾りを整えてくれる?」
「はい……!」
アニーは慌てて立ち上がり、手早くエレノアの髪に手を伸ばす。
彼女の手先が震えているのを感じながら、エレノアは心の中で深く息を吸った。
(私自身も、侍女たちも緊張している。だからこそ、私は冷静でいなければならない。)
ドアの外では、控えている侍従たちの気配。
宮廷内の噂は、とうに広まっている。”皇后に逆らえない皇女殿下”、”お飾りで立場がない存在”など言いたい放題だ。その冷たい視線がが、会場ではさらに突き刺さることは容易に想像できた。
けれど、エレノアはもう逃げない。すでに覚悟は固まっていた。
***
大広間へ向かう長い回廊は、静寂に包まれていた。
エレノアの足音と、アニーが持つ裾のわずかな布ずれの音だけが響く。
「エレノア様……その、どうか無理はなさらずに……」
アニーの声はかすれていた。
エレノアはそっと彼女を振り返り、声をかける。
「ありがとう、アニー。でも、私は大丈夫よ。」
声に決意を宿すと、アニーははっとしたように頷いた。
やがて、茶会の会場が見えてきた。白と金を基調とした扉には、見張りの侍従が立っていた。彼らの目がわずかに、いやらしげにこちらに視線を向ける。
その視線に含まれた蔑みと憐れみを感じ取り、エレノアは静かに笑んだ。
***
会場の扉が開かれると、まばゆい陽光が広がる庭園が目に飛び込んできた。春の花が咲き誇るなか、中央に設えられた白亜のテーブルと、その周囲に配置された精緻な椅子が整然と並んでいる。贅を尽くした茶器や菓子皿が、光を受けて微かに輝いていた。
「ようこそ、エレノア。招待に応じてくれて嬉しいわ」
柔らかな微笑を浮かべながらも、瞳に探るような光を宿し、皇后アドミナが声をかけてきた。
その声音は優雅でありながら、どこか含みのある響きを持つ。彼女の背後に控える侍女たちも、緊張を隠せない様子で控えている。
「皇后陛下、本日はお招きいただきありがとうございます。このような素敵な場にご招待くださり、大変光栄でございます。」
エレノアは一礼し、表情を崩さずに言葉を返す。
「ようこそおいでくださいました、皇女殿下。本日、このような場にてお目にかかれますこと、とても光栄ですわ」
皇后のそばで微笑みながらそう言ったのは、セフィーナ・グリディアであった。年若い令嬢たちの輪の中心に立つ彼女は、深い紅色のドレスに身を包み、気品を漂わせながらも、その瞳の奥に潜む得意げな色を隠そうとはしなかった。
まるで、自分が主催者であるかのような振る舞いは、あのときとまったく変わらない。
その声色は、丁寧でありながら微かに皮肉が滲んでいる。エレノアはそれを敏感に感じ取った。
「私こそ、皆さまと過ごせるひとときを楽しみにしておりました」
エレノアは静かに微笑み返した。
冷たい視線と好奇の眼差しだ彼女たちに注がれた。皇后の影響力下にあるこの場にエレノアが居ること自体が異質だったのだ。
若い令嬢たちが次々に挨拶を寄せてくる。その言葉の端々に、エレノアは自分への試すような意図を感じ取った。
「皇女殿下のようなお方に、私どもの拙い茶会は退屈に感じられるのでは……」
「こうした場は、皇后陛下のご厚意あってのことですものね」
皮肉とも賛辞とも言えないような言葉が、淡い微笑みとともに放たれる。エレノアは穏やかな顔で応じたが、その胸の内では冷ややかに見定めていた。
——この場に敵は多い。
前世で味わった屈辱の記憶が脳裏をよぎる。あのとき、私は受け流すばかりで、逆手に取ることもできなかった。
エレノアの戦いはまだ始まったばかりだった。