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翌朝——
朝食を取るエレノアのところに一人の女性がやってきた。
「皇女様、お耳に入れたいことがございます」
そう慎ましやかに現れたのは、皇后付きの侍女長であるグリゼルダだった。
痩身で笑みの張りついたような顔は、何も知らぬ者には丁寧で気品があるように見えるが、エレノアにはその裏がわかっていた。
(来たわね)
「何かしら」
「本日、皇后陛下が皇女様にお伝えしたいお話があるとのことで、お目通りの準備をとの仰せです」
「話って……?」
「皇女様の将来に関わる、大切なことでございます」
エレノアは微笑んで頷いた。
「そう、それなら支度したら行くと伝えてちょうだい」
「かしこまりました」
そう言って、グリゼルダは部屋を後にした。
(まあそうよね。そんな簡単に諦めると思ってないけど、さすがに手が早いわね)
エレノアが十五歳になったこの年、皇后アドミナは政略結婚という名目で彼女に婚約者を紹介した。
その相手が――ジノ・カナス。
アドミナに忠誠を誓う貴族の子息であり、のちにエレノアの夫となり、彼女を毒殺することになる男だった。
(前世では断れなかった。でも今は違う)
鏡の前で身なりを整えながら、エレノアは静かに闘志を燃やす。
あの頃のエレノアは何もできなかったし、しようともしなかった。命じられれば従うしかないと思っていた。でも今は違う。
鏡に映る自分の顔を見据える。
「さあ、行きますか!」
***
謁見の間よりはこじんまりとした、皇后の部屋。
壁には精巧なな刺繍が施されたタペストリーが掛けられ、薔薇のお香を焚いた空間は、どこか濃密な気配に満ちていた。
その中心に、優美な姿勢で座る女——皇后アドミナ。
「お入りなさい、エレノア」
「ご機嫌麗しゅうございます、皇后陛下」
優雅に一礼すると、アドミナはやわらかな笑みを浮かべた。
「この前はごめんなさいね——まさか私の呼び出しに来られないほど、体調が悪いとは知らなかったのよ」
棘のある言い方はいつも通りだ。
「いえ。こちらこそ体調が優れず申し訳ございませんでした」
「それはそうと、あなたもう十五歳よね。いつの間にか子ども扱いできない年頃になったわね」
「身に余るお言葉です」
エレノアは微笑を返すが、内心は凍るような静寂を保っていた。
(この女の“微笑み”が、どれだけの人を葬ってきたか……私は知っている)
「さて……今日はあなたに、素晴らしい知らせを持ってきたの」
そう言って、アドミナは飾り気のない調子で切り出した。
「近く、あなたの婚約を発表しようと思うの」
予想通りの言葉。それでもエレノアにほんの少しの緊張が走る。
「婚約……ですか?」
「ええ。相手は帝都の名家——カナス伯爵家の嫡男、ジノ・カナス。あなたにふさわしいと思うわ」
その名が口にされた瞬間、エレノアの心臓は強く打った。
(……ジノ。聞くだけで気分が悪くなるわ)
前世では、彼女を優しく見守るふりをして、長い時間をかけて毒を盛り続けた男。
エレノアは静かに目を伏せ、そして上げる。
「お言葉ですが、皇后陛下。私はまだ、そのような婚約を受け入れる準備が整っておりません」
一瞬、室内の空気が張り詰めた。
アドミナはにっこりと微笑んだまま、冷たい声で言う。
「まあ……皇女であるあなたが、陛下のお許しのもとに決めた婚約を断ると?」
「お父様のお耳には、まだ届いていないものと存じます。もしこれが“陛下からの正式なご命令であれば、私はそれに従う義務がございます。ですが、皇后陛下のご内意であれば、私は自分の意思を優先させていただきます」
アドミナの目が細くなる。
「つまり、私の言葉には従えないと?」
「皇女である私の身はこの国に捧げるもの。ゆえに、国家のためになる道を、慎重に選びたい——ただそれだけございます」
淡々と伝えるエレノアに、これくらいの脅しは通用しない。
前世ではできなかった逆転の第一歩だった。
「……ふふ。随分と口が達者になったのね」
アドミナの笑みが、ほんのわずかに歪んだ。
「では、陛下のお耳に届いたときには、どうするつもり?」
「心配には及びんません。そのときは、正しくお答えいたします」
冷静なエレノアに、アドミナの表情がさらに曇る。
「その“正しい”が、あなたのためになるのかしら?」
「……私のためでなく、この国のためになるように考えていますので」
沈黙。ほんの数秒の、息苦しい静寂。
やがてアドミナはゆっくりと椅子から立ち上がった。
「わかったわ……今日はこれ以上何を言っても無駄なようね。だた一つ、忠告を」
彼女はエレノアの肩に手を置いた。
「——言動には気を付けたほうがいいわよ」
その指先は、絹の手袋越しであっても、冷たい。
「ええ。心得ております。それでは、失礼します」
エレノアは深く頭を下げ、そのまま退室した。




