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その夜。
城の片隅にある、エレノアの私室で蝋燭の明かりが静かに揺れる中、彼女は窓辺の椅子に座っていた。
目の前の夜空は澄み渡っているというのに、彼女の胸の中には重い靄が渦巻いていた。
——トントントン。
静まり返る空間に扉をノックする音が響く。
「……どうぞ」
入ってきたのは、見覚えのある少女。
焦茶色の髪を三つ編みにまとめた、小柄な侍女——アニーだった。
「失礼いたします、エレノア様。お身体の具合はいかがでしょうか?」
「ええ、だいぶ良くなったわ。ありがとう、アニー」
アニーは優しく微笑みながら、湯気の立つハーブティーを運んできた。
この香りも、懐かしい。かつてのエレノアは、この香りが“平穏”を意味すると信じていた。
「……あなた、ずっとここに仕えているのよね」
「はい、皇女様の侍女になって三年目です。あの……何か、私のことで不都合が?」
「いいえ。少し思い出していただけよ。昔のことを」
アニーはどこか戸惑ったように瞬きをする。
エレノアの記憶の中での彼女は裏切り者ではなかった。ただ、何も知らずに巻き込まれていった一人だった。
(……無力だった。あのときの私は。味方と呼べる人が誰もいなかった)
「アニー。突然だけど、あなたは私のことをどう思ってる?」
「えっ……?」
「私は皇女だけど、他の皇族ほど権威もなければ、母もすでに亡くなっているわ。後ろ盾もないし……そんな私に仕えて、何か得るものがあるかしら?」
アニーは目を丸くして、慌てて首を振る。
「そんなこと、考えたこともありません。エレノア様は、私たち使用人にも優しくて、それでいていつも凛としていらっしゃって、お支えできて嬉しいです」
声を震わせながら伝えられた、まっすぐな思いだった。
その言葉にエレノアは柔らかく目を細めた。
「ありがとう、アニー。あなたは変わっていないのね。……これから少しだぇ私の周囲は騒がしくなると思うの。でも、あなたが変わらずそばにいてくれたら嬉しいわ」
アニーはエレノアを見て、胸に手を当ててうなずいた。
「はい。私は皇女様のおそばにいます。……何があっても」
(信じてもいい。今の彼女なら)
まずは敵と味方を見極める。前世でできなかったことを、やり遂げなければならない。
今度こそ、“皇女エレノア”として立ち上がるために。
***
王宮の謁見の間は、朝の陽光に照らされていた。
高い天井には歴代皇帝の肖像画が並び、床に敷かれた紅の絨毯は、中央の玉座へとまっすぐ延びている。
その玉座に、帝国の主——ゴドリック・ヴァルモントがいた。
「入れ」
重厚な声が響き、扉が開かれる。
「お父様、謁見の場を設けていただきありがとうございます」
静かに一礼しながら、エレノアは玉座へと歩みを進めた。
その姿はぎこちなさは残りつつも堂々としたものだった。さらにその沈着さと瞳の奥に宿した光は、以前とはまるで違う。
(お父様の本心を、私は前世で何ひとつ知らなかった)
ゴドリックは一見して冷静で無口な父であり、前世では交わした言葉も数えるほどだった。
それでもエレノアが王宮を出て嫁いだ日、どこか寂しそうな顔をしていたことが記憶に残っている。
(お父様はすべてを知っていたのか。知っていたのだったらどうして——。)
「久しいな、エレノア」
その一言に、彼女は深く頭を下げた。
「はい。ご無沙汰しております」
「体調が優れなかったと聞いたが」
「はい。ですが、もう回復しました。ご心配をおかけしました」
彼の表情は読めない。けれど、エレノアを見る目は鋭く厳しいものだった。
以前の彼なら、目線を宙に漂わせながら形式的な応答しかしなかったのに。
「……して、今日は何の用向きだ」
(きた。ここが駆け引きの始まり)
エレノアはひと呼吸置いてから、言葉を綴った。
「お父様、先日はご命令に背き、お呼び出しに伺えず申し訳ございませんでした」
「呼び出しだと? 私がか……?」
「はい。お父様と皇后陛下からの命令で、私に伝えたいことがあると聞いています。しかし、体調が優れなかったので、本日まで伺うことができませんでした」
「うむ。そんな話、私は聞いてない……それゆえおまえも気にすることはない」
ゴドリックは何かを察したかのように眉をひそめた。
「かしこまりました。……たしかに私の勘違いだったかもしれません」
そう言って微笑むエレノアを見て、ゴドリックは意味深な笑みを浮かべていた。
「話とはそれだけか?」
「いいえ。お父様にお話し申し上げたいことがございます。——私に、改めてご命令をいただきたく存じます」
「……命令?」
「はい。私は皇女として、生まれながらにこの国のために尽くす義務を持っています。それにもかかわらず、これまで何もせず、ただ宮中で時を過ごしてまいりました。それが、どれほど無責任であったか——」
そこで言葉を切り、彼女は膝をついた。玉座から少し手前。
「これより先は、命をかけて帝国の一員として働きたいと願っております」
その場が静まり返る。
侍従たちが驚きの表情を隠せずにいるなか、ゴドリックは表情ひとつ変えずにいる。
「……ふむ」
沈黙を破り、彼は立ち上がった。
「おまえの申し出を受けるのは、今後のおまえ次第だ。 だが、覚えておけ。口にしたからには、退路はないぞ」
「はい。心得ております」
静かな言葉の裏にある決意を、ゴドリックは見逃さなかった。
「話は済んだな。 もう下がってよいぞ。 まだ本調子ではあるまい」
彼女に背を向けるように、皇帝はゆっくりと玉座へ戻る。
その背中を見つめながら、エレノアは思った。
(……この人はきっと、前世でも私を見捨てたわけではなかった。ただ、私が向き合おうとしなかっただけ)
「失礼いたします」
頭を下げ、静かに扉を後にした。