3
エレノア・ヴァルモントは、息を詰めるようにして目を覚ました。
冷たい汗が頬を伝い、胸の奥から噴き出すような動悸が彼女の体を揺らした。
呼吸はままならず、声も喉から絞り出すようで、自分のものではないように思えた。
目の前にあるものが信じられなかった。いや、それ以上に、自分の中の記憶とあまりに齟齬があった。
──私は、たしかに死んだ……はず。
夫であるジノが枕元で不適な笑みを浮かべていたのが鮮明に記憶に残っている。
エレノアは勢いよくと起き上がろうとしたが、身体がうまく動かない。しびれるような感覚と、現実にいるとは思えないような浮遊感。喉が乾いていて、まともに言葉すら出ない。
心臓の鼓動が速くなる。生きている感触が、痛いほど胸を打っていた。
「お嬢様……! 目を覚まされたのですね!」
部屋の扉が開くと、侍女が駆け込んできた。
その顔を見た瞬間、エレノアの息が止まった。
「──マリア?」
前世ではエレノアが十六歳の時、急に辞めた侍女の一人。見間違えるはずがない。彼女は十年以上も前に姿を消したはずだ。
——そのマリアが今ここにいる。泣きそうな顔でエレノアの枕元に膝をつき、手を握っていた。
「本当に良かった……! 急に倒れられて、本当に心配したんですよ……」
マリアの涙がぽろぽろと溢れる。
その様子をみたエレノアの瞳からも涙が溢れる。
徐々に現実味がおびてきた。
エレノアは震える唇を指で押さえた。
「……私……いつに……えっと、今何歳だっけ?」
「はい? ご気分がまだ優れませんか? お嬢様は今年で十五歳に──」
「そう……だったわね! なんか混乱してるみたい……」
エレノアは戸惑いながらも、過去に戻ったことを確信した。
この部屋も、侍女のマリアも、この落ち着く空気感も——何もかも懐かしくて、心地よい空間だった。
(時間が戻った……私の人生が、巻き戻された……)
身体の奥底からこみ上げてくるようにいろいろな感情がエレノアを襲う。
怒り、苦しみ、無念、後悔。そして決意。
強く、静かな闘志だった。
(もう二度と、あんな死に方はしない。今度こそ……私は──)
ベッドの中で、エレノアは目を閉じてゆっくりと息を吐く。
「今度こそ、私は負けない。必ず、すべてを取り戻す……」
自分に言い聞かせるようなその決意は、かつての皇女を再び戦いの舞台へ押し上げた。
***
目覚めてから三日。
エレノアの体調は徐々に回復しつつあった。だが、彼女の頭の中は休まる暇もなかった。
ベッドに伏している間も、過去の出来事──自身の死までに起きたことを思い出しながら、記憶の糸を丁寧に繋ぎ直していた。
(十五歳……あの婚約話が来た時期と一致する)
ジノ・カナス。
前世での夫であり、そして何よりエレノアを殺した男。
その婚約話が持ち込まれたのは、彼女がまだ病の影もない健康な時期だった。皇后・アドミナの「取り計らい」で決まった縁談だったが、当時のエレノアは受け入れる以外の選択肢がなかった。
あのとき、断っていれば──そう悔いた日々。
すべてを知っているエレノアは、もう二度と同じ過ちを繰り返さない。
そんなある日──
執務服に身を包んだ宮廷官吏が、エレノアの私室を訪れた。若いが真面目そうな青年で、見覚えはなかった。
だが、その背後に感じる“影”の正体は、瞬時に察せられた。
「皇女殿下、突然のご訪問、失礼いたします。皇后陛下よりお呼び出しでございます。両陛下のご命令により、お伝えするべき案件がございますので、これから私についてきていただきます」
皇后の命令──やはり、来た。
「……具体的にどのような話かしら?」
「私の口からお伝えすることはできません。ですから——」
「行かないわ」
エレノアは青年の言葉を遮るように、きっぱりと言った。
「……お言葉ですが、皇女殿下。これは両陛下の命令であり、正式な──」
「わかったわ。それなら、あとでお父様のところに行きます。それでいいでしょ?」
エレノアの発言にその場にいた全員の顔色がわずかに変わる。
これまでの彼女の言動を考えれば、ここまで明確に自分の意志を示すとは思っていなかったのだろう。
「……では、皇后陛下にそうお伝えいたします」
「ええ、そうして」
エレノアは一瞬微笑みを見せ、すぐに背を向けた。
彼らが退出した後、扉が閉まると、エレノアはひとつ大きく息をついた。
過去では拒めなかった婚約話。
だが今回は違う。
最初の“罠”は、もう回避した。
敵は動き出している。だが、それは自分にとっても始まりの合図にすぎない。
ここから先、どれだけの逆風が吹こうと、もう二度と立ち止まらない。