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——皇后の視線がそっとセフィーナを捉える。
助け舟を出すべきか、一瞬迷ったのだ。だが、今この空気で彼女を庇えば、自らの威信を損ねる。皇后はそのことを悟らぬほど愚かではなかった。
セフィーナの爪が、膝上のドレスに突き立つ。心の中で何度も叫んでいた。
(なぜこんなことに……せっかく皇后陛下にアピールできるチャンスなのに。あの女のせいで……)
その心の声を表に出すことは決して叶わなかった。
その場の空気が静まり返る中で、誰もが皇女殿下の一言一句に耳を傾けている。その視線の集まり方、誰もが「この場の主役が誰であるか」に気づいているようだった。
「フロリカ嬢」
エレノアが静かに呼びかけた。柔らかい声だったが、その響きは場に明るい光を灯すようだった。
「はい……はい、皇女殿下……」
「帝国は、文で国を治める力を忘れてはなりません。剣で守るのも、法で導くこともたしかに素晴らしいことでございます。ですが、それらと同じようにブラウン家の出版業も民に正しい知をもたらし、国家をより堅固なものにする——誇るべきお役目でございますわ」
フロリカの頬を静かに涙が伝った。
周りの令嬢たちは、そっと胸に手を当てる者、視線を伏せる者もいた。誰もが己の浅ましい心を、皇女の言葉に映し出されたかのようだった。
「……そんなふうにおっしゃってくださったのは皇女殿下が初めてです。本当に嬉しい——ありがとうございます。このご恩は決して忘れません」
フロリカは震える声で応えた。
一方で、セフィーナの心は煮えたぎるような思いに支配されていた。目の前で、フロリカや他の令嬢たちが皇女に心服していく様が、彼女には屈辱以外の何物でもなかった。
「グリディア嬢——今の私の言葉、何か間違っていますか」
エレノアは、あえてその名を口にした。その声は柔らかく、けれど逃れられぬ重みを持っていた。
セフィーナは笑みを貼り付けたまま、返事に詰まる。
「……いいえ、殿下。まさに仰せの通りにございますわ」
令嬢たちの間に、密やかなざわめきが広がった。セフィーナはとうとう言葉を封じられたのだと、皆が感じ取っていたのだ。
皇后は、沈黙のままその様子を見つめていた。瞳の奥にわずかな苛立ちと、焦りの色が交錯する。ここでセフィーナを庇えば、自らの立場も危うくなる——その葛藤が、皇后の表情に微かに滲んでいた。
その場の空気は、完全にエレノアを中心に回り始めていた。
ほんの少し前までは、誰もがセフィーナこそがこの場の華だと信じて疑わなかった。だが、今やその華は色褪せ、逆にエレノアが輝きを放っていた。
それでも皇后は、なんとかこの場を取り繕おうとした。
「皆様、どうかご安心を。セフィーナ嬢は、若くして様々な役目を担っておられます。この場での小さな行き違いは、成長の糧となりましょう」
優雅に、微笑を浮かべての言葉だった。だが、その声色には、かすかな焦りが滲んでいた。令嬢たちは皇后の言葉を聞き、表面上は穏やかな笑みをたたえたが、内心では既に別の思いを抱いていた。
エレノアは、皇后のその言葉にあえて口を挟まなかった。ただ微笑み、品位をもって静かに茶を啜る。その姿が、かえって皇后の焦りを引き立たせた。
「私は皇女殿下のことを勘違いしていたようです……」
場の一角で、小さな声が上がった。話の中心は自然とエレノアへと移る。
これまで皇后の威光に遠慮していた令嬢たちが、次々に同意の意を示し始める。
「本当に……お優しく品もあって……」
「皇女殿下の聡明さには感服いたしましたわ」
その一方で、セフィーナの顔は次第に硬く、冷たくなっていく。自尊心を傷つけられた怒りと屈辱が込み上げてくるのを必死に押さえ込もうとしていた。彼女は皇后の前にいるという立場に助けを求めるようにちらりと母君の顔を窺うが、皇后は視線を逸らしたままだった。
「セフィーナ、落ち着きなさい」
皇后は静かながらも強い口調で言った。彼女の声は、これまでの厳かな優しさとは違い、どこか苛立ちを孕んでいた。
だが、その言葉は重く響くどころか、空気を一層重苦しくするばかりだった。
「申し訳ありません、陛下」
セフィーナは震える声で謝罪したが、その瞳はまだ諦めを知らず、次の一手を練っていることがわかる。
エレノアはその様子を冷静に見守っていた。
数人の令嬢はひそかにエレノアに同情を寄せ、心の中で彼女の勝利を願っているのを感じ取った。彼女たちの視線が次第にエレノアへと集まり、そして微かに膨らむ期待の輪郭が、たしかな連帯感へと変わっていくのだった。
「本日はそろそろお開きとしましょう」
皇后は一言を言い残し、その場を後にした。
お茶会の締めくくりが告げられ、令嬢たちは静かに席を立った。だが、その背中には明らかな空気の変化が漂い、エレノアとセフィーナの間に刻まれた溝は深まるばかりであった。
——その夜、エレノアは自室で静かに眼を閉じた。胸中には、今日の一連の出来事が重くのしかかっていたが、同時に不屈の決意が燃え上がっていた。
「これは、まだ始まりに過ぎない。私は必ず、この帝国で正当な地位を得る——」
静かな声で誓いを立て、エレノアは新たな未来へ向けて、心を固くしたのだった。




