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穏やかな春風がカーテンを揺らしている。
遠くで誰かが馬車を操る音がした。屋敷の裏手、庭の手入れをする音も微かに聞こえる。けれど、エレノアにはもう、それらが遠い他人事のように思えた。
目を開くと、天井の模様がぼんやりと見えた。ゆっくりと首を傾ければ、カーテン越しに薄い陽光が差し込んでいる。なのに、身体のどこにもあたたかさはなかった。
――また今日も、生きてしまった。そんな思いが脳裏をよぎる。
死が近いことに、エレノアはずっと前から気がついていた。だがそれは「病名」が与えられるような明確なものではなかった。ただ、少しずつ少しずつ身体の芯が冷えていくような感覚。気づけば歩けなくなり、文字が読めなくなり、呼吸も苦しくなっていった。
「エレノア様、薬をお持ちしました」
まるでこの屋敷の人間ではないかのように呼ばれ、侍女が部屋に入ってくる。彼女の名前は思い出せないが、その声の調子から、まるで儀礼のように繰り返されてきた日々なのだと分かる。
匙に載せられた薬の匂いが鼻をつく。エレノアは目を伏せ、拒絶の意思を込めてそっと首を振った。
「……そうですか。無理なさらずに」
侍女は下がっていく。その背中を見送ることもできず、エレノアは目を閉じた。まぶたの裏には、もはや薄ぼんやりとした過去の景色が浮かぶ。
ヴァルモント王朝、かつての宮殿。
あの人――父、ゴドリック陛下の声。
紅の絨毯を歩く自分。
笑っていた少年……エドガー。
穏やかに微笑む皇后アドミナの姿。
けれど、それらの記憶は遠くかすんでいた。まるで夢の中の出来事のように。
「エレノア……まだ起きていたか」
扉が静かに開く音がした。ゆっくりとした足音。部屋に足を踏み入れたのは、夫のジノだった。
冷静な物言い、端整な顔立ち、優しげな微笑み。かつては多くの貴婦人を虜にした男。
「顔色が悪いな。……もう、長くなさそうだな」
その声に、まるで他人事のような冷たさが滲む。
エレノアは微かにまぶたを持ち上げた。ジノの姿が視界にぼやけて見える。
「……どうして、来たの……?」
掠れた声で問うと、ジノはにやりと口元を歪めた。
「別に? おまえの死に顔を、見ておこうと思って」
その一言に、胸の奥がざらりと冷えた。だが、驚きはしなかった。彼のこうした皮肉は、今に始まったことではない。結婚して以来、ずっと続いてきたものだったから。
「……そう。……相変わらず、やさしいのね」
かろうじて出た声は、わずかに震えていた。
ジノは肩をすくめて、ベッドのそばに腰を下ろした。そして、少しの沈黙の後――突然、口を開いた。
「なあ、エレノア。ずっと気になってたろ? おまえの身体が、どうしてこんなに弱ってったのか」
それは、まるで世間話でもするかのような調子だった。エレノアは目を開けた。
「……病気なんだから、仕方ないわ」
「病気? はは、違うさ。……バカだな」
ジノの口元には、笑みすら浮かんでいた。
エレノアは驚き、かすかに唇を開いたが、声は出なかった。
「ずっと飲んでた薬、あれに混ぜてたんだ。まあ、命令だったからな……俺を恨むなよ」
”命令”その言葉だけで、誰が関与しているか想像できた。
――アドミナ。
義母であり、現皇后。父の寵愛を一身に受け、エドガーを正統な後継者として育て上げた女。
「思ったより長引いたが、やっとだな。おまえの心配をしてるやつなんて一人もいない。さすが忘れられた皇女様だな」
続けられるその言葉に、エレノアの胸の奥で何かが崩れた。
忘れられた皇女。――確かに、そうだった。
実の母を早くに亡くしてからの王宮では、ずっと冷遇され誰にも頼らずに育った。私の意思など必要なく、皇女に関するすべてのことが他人によって決められた。誰も自分を見てはいなかった。
「……最初から……私を……?」
「ああ、そうだよ。じゃなきゃおまえなんかと結婚しないだろ」
ジノは悪びれる様子もなく、あっさりと答えた。
「……そう……だったのね……」
そう言い残したエレノアは、ゆっくりとまぶたを閉じた。
身体の奥が冷たくて、動かない。けれど、脳裏は焼けつくように熱かった。
なぜ誰も、気づいてくれなかったのだろう。
父はどう思っていたのか。
なぜ、自分だけが、こんなにも無力だったのか。
悔しい。
――無念だ。
――――悔しくて、たまらない。
涙は出なかった。すでに、泣く力も残っていなかった。
だが、胸の奥にあった何かが、ぽたりと崩れ落ちたその時。エレノアの意識は、急激に闇へと引きずりこまれていく。思考の輪郭がぼやけていく。自分という存在の形が、徐々に溶け出していくようだった。呼吸は浅く、心臓の鼓動も、もうどこか遠くから響く音のようにしか感じられない。
薄い膜一枚隔てた向こう側――そこに、意識が沈んでいく。
そのさなかでも、ジノの声は鮮明に届いていた。
「おまえが頭悪くて助かったよ。ずっと疑いもせずに……」
楽しげに語るその声音は、冷酷を通り越して、どこか子どもじみた無邪気さすら感じられた。
「おまえの敵が誰なのか……最後まで気づかなかったんだな。哀れってやつだ」
敵――。
その言葉が、エレノアの中で引っかかった。ゆるやかに回転する思考の渦に、さまざまな記憶が沈んでいく。宮廷。王の間。社交の場。お父様の背中。亡きお母様の記憶。
そして……冷たい瞳で微笑む義母アドミナの姿。
――最初から、ずっと。私は利用され、切り捨てられてきた。
「だが、もうすぐ終わる。おまえも、俺も。これで全部、おしまいだ」
エレノアの葛藤とは裏腹にジノは冷静だった。
何が“終わる”のか。ジノがどこまで知っていて、どこまで命じられて動いていたのか、それを問いただす力も残っていない。
けれど、分かっている。
最初からすべて仕組まれていたんだ。そして少しずつ少しずつ、削り取られてきた。
「……ここで死ねることに感謝しろよ」
その言葉は、まるで刃物だった。最期の一突きにふさわしい一言だった。
(……終わるの? 本当に……?)
苦しみと絶望の最中、エレノアの心に、わずかに灯がともる。
なぜか、魂の奥底から、ふつふつと湧きあがる感情があった。
怒り、悔しさ、そして……諦めきれない想い。
このまま、死んでたまるものか。
私は、まだ何も成し遂げていない。
忘れられるために生まれてきたんじゃない。
エレノアの胸の奥で、微かな祈りのような声が生まれる。
――誰か。
――神でも、悪魔でもいい。
――もう一度、やり直せるのなら。
――この手で、奴らを打ち倒せるのなら。
「……私に、もう一度“チャンス”を」
その瞬間、身体の中で何かがぷつんと切れたような感覚が走る。
世界がぐにゃりと歪み、視界が闇に呑まれた。
すべてが音を失い、時間が止まる。
いや、“巻き戻っていく”のだ。世界が。時間が。
走馬灯のように、人生のあらゆる瞬間が流れていく。
そのなかでも一つの記憶を、より鮮明に覚えている。
それは突然の出来事だった。
「皇后陛下より、婚約話を賜りました。お相手は――」
ただただ受け入れるしかなかった。それが正しい道だと思っていた。
急に決まった婚約、それこそが分岐だった。すべての運命を決めた。
「やり直したい……今度こそ自分の人生を生きたい……」
思いが届いたかのようにエレノアは暖かな光に包まれ、渦の中心に吸い込まれていく。
これは終わりじゃない。
エレノアの新しい人生が今、始まる。