第6話『リサイクルボックスの、いちばん下』
夏の終わり。日暮れ前でも、アスファルトは湿気を含んでじっとりと熱かった。
黒津市のショッピングモールは、冷房がよく効いていて、オレたち中学生にとっては“逃げ場所”みたいなものだった。
今日は特に予定もなかった。
オレと篠原と岡部の三人で、ゲーセンをぶらついたあと、いつものようにフードコートの端っこでだらだらしていた。
「なぁ、知ってる?」
アイスを食いながら、篠原が妙に真剣な声で言った。
「モールの裏にある、リサイクルボックス。あそこ、マジで変な話あんの、知ってるか?」
岡部が鼻で笑った。
「なにそれ、都市伝説? 捨てたはずのものが戻ってくるとか?」
「いや、もっと具体的。ぬいぐるみ限定。しかも、捨てたやつのとこに“返しにくる”んだってさ。中身が……ちょっと変わってて」
ぬいぐるみ。返しにくる。
オレの記憶の奥が、微かにざわついた。
確か、去年あたりも、そんなことを言ってた先輩がいた気がする。
「気になるなら見に行ってみようぜ」
篠原は、半分笑いながらそう言った。
「ついでに何か捨ててみる? 誰か古いぬいぐるみ持ってこいよ」
そうして、食べかけのアイスを片手に、オレたちはモールの裏手へと足を向けた。
そこは、表の賑やかさが嘘みたいに静かだった。
壁はひび割れ、タイルの間には雑草が伸びていた。
建物の脇に、大きな金属製の箱が置かれていた。
――リサイクルボックス。
資源回収用と貼り紙があるが、誰も管理していないのは明らかだった。
ボックスの周囲には、カビの浮いた古着、ぬいぐるみ、割れたプラスチックのおもちゃ。すべて、時間に忘れられたものばかり。
「うわ、これ絶対臭えやつ……」
岡部が鼻をつまんだ。
そのときだった。
ボックスの脇に、ひとりの少女がしゃがみこんでいた。
うす汚れた作業ベストを羽織った、細い腕の中に、なにかを大事そうに抱えている。
少女の髪は黒く、肩で切りそろえられていた。
顔は見えない。ただ、彼女の存在だけが、この空間の空気を変えていた。
彼女は静かに、足元に落ちていたぬいぐるみを拾い上げた。
それは、くたびれたクマのぬいぐるみだった。
けれど、オレにはそれが、“動物の形をした何か”に見えた。
縫い目は不自然に曲がり、片目は取れかけてぶらさがっていた。
歯のようにも見える糸が、にたりと笑っているように見えた。
誰も声をかけられなかった。
ただ、少女は立ち上がり、ぬいぐるみを抱いたまま、モールの裏へと無言で歩き去った。
「……今のって……スタッフ?」
篠原がかすれた声で言った。
「知らね。ってか、あれ……人形だったよな?」
岡部も、明らかにビビっていた。
でも、怖いくせに、篠原は“こういうの”が好きだった。
その日の夕方、オレは、押し入れの奥から古いぬいぐるみを取り出した。
小学生のとき、誕生日にもらったウサギのぬいぐるみ。
すでに片耳が取れて、目も片方だけ黒ずんでいた。
次の日の朝。
登校しようと玄関を開けたとき、オレは声も出なかった。
そこに――昨晩、リサイクルボックスに入れたはずのウサギが、戻ってきていた。
泥で汚れ、濡れた綿がのぞく腹部。
首は傾いて、両目が、こちらを見上げていた。
手には、ぬいぐるみなんて持ってなかった。
なのに、玄関の前にそれがあった。
心臓が跳ねた。
何も見なかったことにしようと、ドアをそっと閉じた。
でも、それはきっと――もう遅かったんだと思う。
「やべぇって、それマジで戻ってきたのかよ!」
昼休み、校舎裏の影で、オレがスマホの写真を見せると、篠原と岡部は声を潜めて叫んだ。
ウサギのぬいぐるみは、昨日と同じ……いや、それ以上にボロボロになっていた。
綿が乾ききっていないせいか、ところどころ茶色く変色していた。
なのに、妙に“こちらを向いている”感じがする。
「マジだって。親にも聞いたけど、誰も置いてないってさ」
「捨てたよな、確かに。オレも見たもん」
「つーか、戻ってきただけで済むんならマシじゃね?」
篠原がそう言って笑ったけど、その声は少しだけ震えていた。
それからというもの、おかしなことが続いた。
数日後、岡部が別のぬいぐるみ――緑色のワニのようなやつを、ノリで捨てた。
そして三日後、彼の下駄箱にそのぬいぐるみが置かれていた。
背中には鋭利な何かで引っかいたような傷。
目が左右で別のものに入れ替えられていた。
岡部は「うっかり持って帰ったんだろ」と笑ったが、顔はひきつっていた。
その日のうちに、そいつは高熱で学校を休んだ。
次は篠原だった。
「さすがにおかしいよな」と言いつつも、家にあった古いテディベアを捨てた。
リサイクルボックスに入れたときは、ただの少し汚れたぬいぐるみだった。
でも、それが“返ってきた”とき――中身が違っていた。
篠原の話では、テディベアの首を少し傾けた瞬間、中から自分の名前が書かれた紙が出てきたらしい。
折りたたまれたメモ用紙には、学校でしか使わない筆跡。
「これ、オレの字なんだよな……」と、篠原は顔を青くしていた。
それを境に、オレたちはリサイクルボックスには近づかなくなった。
でも、ぬいぐるみたちは勝手に帰ってくる。
ある夜、布団に入ってスマホを眺めていたオレは、ふと部屋の隅に気配を感じた。
視線を上げると、本棚の影。
そこに――例のウサギが座っていた。
壁に立てかけていただけのはずの古いバッグが倒れ、その上に乗るようにして鎮座していた。
オレは思わず電気をつけた。
でも、ライトをつけた瞬間、ウサギの姿は消えていた。
「見間違いか……?」
そう思おうとした。
でもその晩、眠ろうとして布団をめくったら、ウサギの右耳が足元に落ちていた。
オレは声を上げて飛び起きた。
どこにも姿はないのに、耳だけがある。
“どこかにいる”――その確信だけが、強く残った。
次の日、モールに向かう途中、例のリサイクルボックスの前でふと足を止めた。
そこには、また少女が立っていた。
ベスト姿。黒髪ボブ。顔は見えない。
でも、確かに昨日も見た気がする。
彼女は無言で、ボックスの中に手を入れた。
そして、ひとつのぬいぐるみを拾い上げる。
――それは、篠原の捨てたテディベアだった。
その瞬間、少女が、こちらを振り向いた気がした。
顔は、影になっていて見えない。
ただ、わかった。
その目だけが、真っすぐこっちを見ていた。
何かを問うでもなく、責めるでもなく。
ただ“確かめている”ような、あの目。
オレはそのまま走ってモールに逃げ込んだ。
心臓はずっと鳴っていた。
背中が、じっとりと汗をかいていた。
その晩、オレは布団の中で眠れなかった。
部屋の空気はじめじめと湿っていて、エアコンをかけても肌がざらつくような感じが抜けなかった。
ぬいぐるみのことが、ずっと頭から離れない。
ただの布と綿の塊。
だけど、あの目が――あの、歪んだ笑いが、夜の隙間から見ている気がしてならなかった。
気づけば、耳を澄ましていた。
カサッ――と、どこかで紙が擦れるような音。
ベッドの下か、本棚の裏か。そんなはずはないのに、音だけが確かに耳に届く。
オレは布団をまくって、スマホのライトをつけた。
部屋の隅、机の脚のそば。そこに――あのウサギが立っていた。
いや、“立っていた”なんてはずはない。
ぬいぐるみは、勝手に立ったりしない。
けれど、そこには確かに“存在”していた。
目が、光を反射していた。
濡れた綿の隙間から、黒ずんだ布の奥に、何かが見えた気がした。
「おい……ふざけんなよ……」
オレはウサギを掴んで、洗濯ネットに入れた。
ぐるぐる巻きにして、ガムテープで口を塞ぎ、クローゼットの奥に突っ込んだ。
そうしてドアを閉めたあとも、背中に目を感じた。
“まだそこにいる”。
翌日、学校では篠原も岡部も妙に無口だった。
いつもの教室なのに、空気が濁っているような、妙な静けさがあった。
「……お前んとこ、来た?」
放課後、篠原がぽつりと聞いてきた。
「……来たよ」
「……動いた?」
「……たぶん」
それっきり、言葉が出なかった。
口にすれば、“あれ”がまた動き出す気がして。
その帰り道。
モールの前を通ったとき、ボックスの脇に誰かが立っていた。
あの少女だった。
ベストを着た、黒髪ボブの中学生くらいの子。
ただ立っているだけなのに、道の空気がひんやりと冷えていく。
通り過ぎようとしたとき、彼女がオレに気づいた。
わずかに首を傾けて、微笑んだ――気がした。
そのとき、足元の舗装の隙間から、カサ、と何かが転がった。
見下ろすと、それはぬいぐるみの目だった。
あのウサギの、取れたはずの左目。
オレは叫びそうになった。
でも、声は出なかった。
少女はすでに背を向け、ぬいぐるみを抱えて歩いていった。
帰宅して、クローゼットを開けた。
ガムテープは破れていた。
洗濯ネットも裂けて、そこには――何もなかった。
床に落ちた一枚の紙だけが、残っていた。
オレの字で、こう書かれていた。
「これで、返したことになるよね」
手が震えた。
これは書いた覚えのない、自分の字だった。
その夜、家族に「誰かがぬいぐるみを持ってきた?」と訊いたが、全員が首を振った。
妹は「知らない」と言ったあとで、こんなことを言った。
「でもね、お兄ちゃんの部屋の前で、“ウサギさんが見てたよ”って言ってた子はいたよ」
「子?」
「うん、なんか制服の子。たぶん、学校の人。しゃがんでて、黙ってたけど、ウサギをぎゅって抱っこしてた」
オレは、思わず窓を見た。
雨は降っていないのに、ガラスには小さな濡れた手跡が残っていた。
あの夜、眠ったはずなのに、朝になっても体が重かった。
まぶたの裏に、ずっとあの目が焼きついていた。
ぬいぐるみの、でもぬいぐるみじゃない“何か”の目。
目が覚めても、現実が夢よりも不確かだった。
玄関に出ると、いつもと違うにおいがした。
土のような、古い綿のような、ぬるいにおい。
スリッパを履こうとして、足を止めた。
そこに、段ボール箱がひとつ、置かれていた。
開け放した玄関の前、誰かが置いていったにしては妙に整っている。
蓋はしっかり閉じられていて、紙テープの端にはこう書かれていた。
「お返しします」
手が震えるのを感じながら、そっと蓋をめくった。
中には、ぬいぐるみが入っていた――
いや、“それ”はもう、ぬいぐるみじゃなかった。
形はたしかにウサギ。
けれど、表面の布はすっかり破れて、糸がほどけ、内側の綿が黒ずんで粘ついていた。
奇妙だったのは、“顔”。
片目だけ、ボタンではなく、人間の写真が貼られていた。
白黒写真の一部のような、切り取られた“目”の部分。
それがまるでオレの目のように見えた。
吐き気がこみあげた。
思わず蓋を閉めようとしたとき、箱の底にもう一枚、紙が貼られているのが見えた。
手を伸ばして、それをそっと剥がす。
そこには、こう書かれていた。
「あなたの番は、終わりました」
それだけの言葉だった。
でも、読み終えた瞬間、背中が冷たくなった。
家の中に戻ると、妹が声をかけてきた。
「お兄ちゃん、今日も学校行くの?」
「……うん」
「ふーん。……でも、お兄ちゃんって、前はあんな話し方だったっけ?」
その言葉に、オレは立ち止まった。
「あんな?」
「うん……なんか、ちょっとだけ変な気がする」
妹はそう言って、首を傾げた。
――おかしいのは、どっちだ?
自分の声が、自分の声じゃないように聞こえる。
足音も、ドアを開ける音も、少しずつズレている。
鏡を見ると、そこにはたしかに“オレ”がいた。
でも、その目だけは――昨日、箱の中で見た“それ”と、まったく同じだった。
今朝、通学路で、篠原を見かけた。
向こうもこっちを見ていた。
でも、何も言わなかった。
それが、“昨日までの篠原”かどうか――わからない。
帰り道、モールの裏を通ったとき、例のボックスの前に誰かがいた。
ベストを着た黒髪の少女。
いつものように、ぬいぐるみを両腕で抱いていた。
でも、その腕にあるのは、ウサギでもクマでもなかった。
――人の形をした、布の塊だった。
それは、制服を着ていた。
胸元には、オレの通っている中学の名札。
そして、それをじっと見つめる少女の唇が、かすかに動いた。
「ねぇ、知ってる?」
振り返ると、少女の姿はなかった。
代わりに、リサイクルボックスの中から、笑い声のような布ずれの音がした。




