表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

第5話『紙人形の教室』

 中学二年の春。

 私は放課後になると、いつも図書室で時間を潰していた。


 本が特別好きというわけではない。

 ただ、誰にも話しかけられない場所が、ここしかなかった。


 夕方の図書室は静かで、ページをめくる音と、たまに風が窓を揺らす音だけが響く。

 その音にまぎれるようにして、誰かが机に何かを置く気配がした。


 


 ――その人は、いつからか隣の席に座っていた。


 


 椎名しいなさん。

 同じクラスの女子で、話したことはほとんどなかったけど、折り紙がすごく上手な人だった。


 彼女は図書室に来ると、決まってカバンから色とりどりの折り紙を取り出して、小さな人形を黙々と折り続けていた。


 


 動物、花、着物姿の人、兵士のような人形。

 どれも信じられないほど精密で、折り紙とは思えないほど立体的だった。


 でも、どの作品も不思議なことに――顔がなかった。


 


 ある日、帰りぎわに椎名さんがぽつりと話しかけてきた。


 「ねぇ、知ってる?」


 私は思わず顔を上げた。


 「……え?」


 「美術室。旧校舎のほうにある、今は使われてない教室。あそこに、“本当に動く紙人形”がいるんだって」


 彼女は笑っていなかった。冗談を言っているような雰囲気でもなかった。


 


 「動くって……どういう意味?」


 「作った人の願いどおりに動くんだって。よくできてれば、よくできてるほど」


 「それって、なんかの都市伝説?」


 「うん、たぶん。でも、私、ちょっと気になってるんだよね。……行ってみたいなって」


 


 椎名さんの指先には、まだ未完成の紙人形があった。

 いつものように顔は描かれていなかったけれど、その輪郭だけは――どこか、私に似ていた。


 


 その日の帰り道、私はずっと美術室のことが頭から離れなかった。


 霞ノ第二中学校の旧棟は、いまは立入禁止になっている。

 といっても、扉に張り紙があるだけで、実際は鍵も壊れていて、生徒の間では“隠れ休憩所”として知られていた。


 


 次の日、椎名さんが私の机に小さな折り紙をそっと置いた。


 それは、机にうつむく私そっくりの人形だった。

 長い黒髪、制服の襟、そして――その顔には、細く描かれた私の目元だけがある。


 


 放課後、図書室に行くと、椎名さんは言った。


 「ね、今日、行かない? 美術室」


 私は断れなかった。

 何かに引っ張られるように、気がつけば頷いていた。


 


 夕方五時すぎ、旧棟の裏手にまわると、埃をかぶった扉がきい、と音を立てて開いた。


 中は薄暗く、古びた机や椅子がそのまま残されていた。

 廊下の窓には黒い布が垂れ下がり、まるで中の時間が止まっているかのようだった。


 


 美術室は突き当たりの部屋だった。


 壁には昔の作品の名残があって、剥がれかけた切り絵や、紙粘土の仮面が所々に吊るされていた。


 


 「ここ……ちょっと、こわいね」


 私は思わずそう呟いた。


 椎名さんはかすかに笑って言った。


 「でも、落ち着くでしょ? ここ、音がしないから」


 


 そのとき、私は気づいた。

 さっきまで聞こえていたはずの鳥の声も、窓の外の車の音も――何も聞こえなくなっていた。


 


 「ねぇ、知ってる?」と椎名さんがもう一度言った。


 「この紙人形、顔を描いて名前をつけるとね、“呼ばれる”んだって」


 


 そう言って、彼女はポケットから小さな人形を取り出した。

 それは昨日、私の机に置いていったものと同じ。


 ただひとつ違うのは、その額に小さく赤い印がついていたことだった。


  椎名さんは、私の返事を待たずに、紙人形を机の上にそっと置いた。


 古びた木の机の上に、白く折られたその人形は、不思議と“存在感”があった。

 目も口も描かれていないのに、そこに“誰かがいる”気配だけが濃く漂っている。


 


 椎名さんはペンを取り出し、ためらいなく顔を描きはじめた。


 その筆跡は、どこか私の記憶にある自分の顔に似ていて、頬や眉のあたりに特徴が寄せられていくのが分かった。


 ――まるで、“誰かを正確に模写するように”。


 


 「ねぇ、この子の名前、教えて」


 椎名さんが、静かにそう言った。


 


 私は一瞬、何のことか分からなかった。


 「え、名前?」


 「うん。呼ぶには名前がいるから。……本当の、あなたの名前」


 


 私はとっさに、嘘の名前を言いかけてやめた。

 でも、口から出てきたのは、いつも通りのフルネームだった。


 


 椎名さんはうなずいて、名前を人形の背に書き入れた。

 そして、少しだけ首をかしげて言った。


 「この子、ちょっと怒ってるかも」


 「……え?」


 「わかんない? 顔、ちょっと睨んでるよ」


 


 確かにその紙人形の顔は、どこか不機嫌そうに見えた。

 でもそれは、椎名さんがそう“描いた”からじゃないのか、と言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。


 


 そのとき、壁に貼られた古い切り絵がふっと揺れた。


 窓は閉まっていたし、風もない。

 なのに、その一枚だけが、誰かが引っ張ったように揺れた。


 


 「……今、動いたよね?」


 私がそう言うと、椎名さんは静かに頷いた。


 「ここ、来るたびに変わるんだよ。昨日までは、もっと物が少なかった」


 「え?」


 「でも、紙人形を折ると、なにかが増えるの。“呼ばれる”の。わたし、知ってるから」


 


 机の上の紙人形が、微かに傾いた。


 風はない。誰も触れていない。

 なのに、その人形はまるで自分の意志で立ち上がろうとするように、ごとっと小さく音を立てて倒れた。


 


 私は息を呑んだ。

 さっきまでは、ただの紙だった。それが――今、動いた。


 


 「この子はね、自分の“本体”を探してるんだって」


 椎名さんの声は、もうさっきまでの穏やかなものじゃなかった。


 「あなたの“形”を借りて作ったから、きっと、あなたのところに行くよ。

 だって、そういうふうに作ったんだもん」


 


 私は机から距離を取った。

 紙人形の目が、私を見ているような錯覚があった。

 無表情なのに、怒っている。何かを伝えようとしている。


 


 「……やめてよ。冗談でしょ?」


 「冗談じゃないよ。ねぇ、知ってる?」


 


 椎名さんがこちらを見て、笑った。


 


 「“本当に似てる”って言われた紙人形はね、だんだん作った人の手を離れるんだよ。

 顔も名前も与えられて、自分の“持ち主”を探して歩き出すの。

 でね、見つけたら――そこに、“戻る”んだって」


 


 紙人形が、机の上で音もなく起き上がった。


 足音はない。紙が立つ音もしない。

 なのに、そこに“何か”が立っている気配だけが、強く、確かにあった。


 


 私は立ち上がった。


 でも、足が震えて、動けなかった。


 


 そのとき、教室の隅に吊るされた紙の仮面が、ひとつ、ぽとりと落ちた。


 何かが始まっている。

 何かが、もうすぐこちらに来る。


  紙人形が机の上に立ち上がった瞬間、部屋の空気が変わった。


 動いているのは紙のはずなのに、空気が揺れる音すら聞こえた気がした。

 それは、誰かが“深く息を吸い込んだ”ような――冷たく湿った音だった。


 


 「やっぱり、うまくできたんだね」

 椎名さんがぽつりと言った。


 「これで、ちゃんと“帰れる”よ。あの子が……わたしのかわりに」


 


 「……え?」


 


 紙人形は机の上で、こちらを向いた。

 顔は紙のはずなのに、視線だけが“刺さるように”伝わってくる。


 その瞬間、私はようやく理解した。


 


 ――これは、“私の形”をした何かじゃない。

 これは、“私になろうとしているもの”だ。


 


 「ちょっと、やめ――」


 言いかけた瞬間、教室の天井がわずかに軋んだ。


 その音に合わせて、天井から吊るされていた仮面が、次々と落ち始めた。


 ぽと、ぽと。

 ひとつ、またひとつ。


 そのたびに紙人形の影が濃くなっていく。

 まるで、落ちた仮面の“役”をすべて吸い込んでいくように。


 


 椎名さんは、動かなかった。

 いや、動けないように見えた。顔は私を見ているけれど、目は焦点が合っていなかった。


 そして、その口元が微かに動いた。


 


 「ねぇ、知ってる?

 紙でつくられた人形は、人になりたがるんだよ。

 でもそのためには、誰かの“抜け殻”が必要なの。……入れ物がね」


 


 紙人形の影が、床から長く伸びた。

 その先端が、私の影とぴたりと重なった。


 


 足が、動かなかった。

 紙の影が冷たく肌に這っているような感覚。

 それは物理的なものではなく、“存在の底”を撫でるようななにかだった。


 


 「やめて……やだ、やめて」


 私は声をあげた。

 でも、誰にも届かない。椎名さんも、部屋も、紙人形も――すべてが音を拒絶していた。


 


 そのとき、美術室の奥。

 紙細工の棚が積み重なったその間から、何かが“のぞいた”。


 見えたのは、白い紙の服。ジャージのような布の模様が印刷された、それらしい形。

 そしてその下、のっぺりとした顔のない影。


 “あの子”だった。


 帽子のような折りがされた頭。細長い手。

 口のないはずの顔から、かすかに音が漏れた。


 


 「……こえ、かして」


 


 その声が、頭の内側に響いた。


 


 紙人形が、一歩こちらに歩み寄った。


 カサリ。


 その一歩だけで、部屋の空気が二重になったような感覚がした。


 もう一歩、近づいた。


 今度は私の喉の奥が、カラカラに乾いた。


 ――“入られる”

 直感がそう警告してきた。


 


 私は、机の上のその紙人形を、思わず払いのけた。


 


 バサッ――。


 人形は、軽い音を立てて床に落ちた。


 


 でもその瞬間、壁一面に貼られていた折り紙が、同時に揺れた。


 バサバサと、まるで風が吹き抜けたように。

 そして、すべての折り紙が“こちらを向いた”。


 


 動いていない。

 ただの紙。そう、ただの紙。


 だけど――見られている。


 


 その瞬間、背後の扉がきぃ、と音を立てた。

 誰も開けていないのに、勝手に開いた。


 


 風が吹いた。

 風の中に、誰かの声が混じった。


 


 「……かわって、いい?」


  「……かわって、いい?」


 その声が、私の耳の奥で反響した瞬間。

 美術室のすべてが、ぴたりと静止した。


 紙人形も、仮面も、空気も。

 私の鼓動さえ、一度だけ止まった気がした。


 


 ふと気づくと、私は床に座り込んでいた。

 さっきまで立っていたはずなのに、記憶がない。


 椎名さんは、机にうつ伏せて眠っていた。

 紙人形は見当たらない。仮面も、壁の折り紙も、何もかも元どおりに貼り付けられていた。


 


 「……今のって、夢?」


 呟いた声が、自分のものじゃない気がした。


 喉の奥に違和感がある。

 言葉のイントネーションが、わずかにズレている。


 


 私は立ち上がり、美術室の扉を開けた。

 きぃ、という軋み音が、妙に耳に残った。


 外に出ると、もう陽は傾いていた。

 いつの間に、こんなに時間が経っていたのか。


 


 「……あのさ」


 背後で声がして、振り返ると椎名さんが立っていた。


 表情は変わらない。でも、声の調子が、あの教室の中と違って聞こえた。


 


 「ごめんね。あたし……たぶん、あの子の“入り口”になってたんだと思う」


 「……入り口?」


 「うん。でも、君に似すぎてたんだよ。だから、あの子……本気になっちゃった」


 


 私は何も答えられなかった。

 でも、胸の奥に引っかかる言葉だけが残っていた。


 


 “君に似すぎてた”。


 


 それって――“今の私は、本当に“私”なのか?”ということ?


 


 


 次の日。

 学校の教室では、何も変わった様子はなかった。


 みんな、いつもどおり。授業も、昼休みも、部活の放課後も。


 でも、気づいてしまった。


 


 私は、ノートの自分の字を、前と同じように書けなくなっていた。


 


 “あ”の形が少しだけ違う。

 漢字のバランスも、わずかにずれている。


 


 授業中、クラスの子が私を見て、こう言った。


 


 「ねぇ、なんか今日、しゃべり方ちがくない?」


 


 私は笑って誤魔化した。

 でも、その笑顔も――自分のものじゃないような気がした。


 


 放課後、図書室に行くと、椎名さんが座っていた。


 彼女は黙って折り紙を折っていた。

 そして、机の端にひとつだけ、紙人形が置かれていた。


 


 それは、私の顔をしていなかった。


 けれど、なぜかとても、懐かしい気がした。


 


 ――それが、“前の私”なのかもしれない。


 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ