第5話『紙人形の教室』
中学二年の春。
私は放課後になると、いつも図書室で時間を潰していた。
本が特別好きというわけではない。
ただ、誰にも話しかけられない場所が、ここしかなかった。
夕方の図書室は静かで、ページをめくる音と、たまに風が窓を揺らす音だけが響く。
その音にまぎれるようにして、誰かが机に何かを置く気配がした。
――その人は、いつからか隣の席に座っていた。
椎名さん。
同じクラスの女子で、話したことはほとんどなかったけど、折り紙がすごく上手な人だった。
彼女は図書室に来ると、決まってカバンから色とりどりの折り紙を取り出して、小さな人形を黙々と折り続けていた。
動物、花、着物姿の人、兵士のような人形。
どれも信じられないほど精密で、折り紙とは思えないほど立体的だった。
でも、どの作品も不思議なことに――顔がなかった。
ある日、帰りぎわに椎名さんがぽつりと話しかけてきた。
「ねぇ、知ってる?」
私は思わず顔を上げた。
「……え?」
「美術室。旧校舎のほうにある、今は使われてない教室。あそこに、“本当に動く紙人形”がいるんだって」
彼女は笑っていなかった。冗談を言っているような雰囲気でもなかった。
「動くって……どういう意味?」
「作った人の願いどおりに動くんだって。よくできてれば、よくできてるほど」
「それって、なんかの都市伝説?」
「うん、たぶん。でも、私、ちょっと気になってるんだよね。……行ってみたいなって」
椎名さんの指先には、まだ未完成の紙人形があった。
いつものように顔は描かれていなかったけれど、その輪郭だけは――どこか、私に似ていた。
その日の帰り道、私はずっと美術室のことが頭から離れなかった。
霞ノ第二中学校の旧棟は、いまは立入禁止になっている。
といっても、扉に張り紙があるだけで、実際は鍵も壊れていて、生徒の間では“隠れ休憩所”として知られていた。
次の日、椎名さんが私の机に小さな折り紙をそっと置いた。
それは、机にうつむく私そっくりの人形だった。
長い黒髪、制服の襟、そして――その顔には、細く描かれた私の目元だけがある。
放課後、図書室に行くと、椎名さんは言った。
「ね、今日、行かない? 美術室」
私は断れなかった。
何かに引っ張られるように、気がつけば頷いていた。
夕方五時すぎ、旧棟の裏手にまわると、埃をかぶった扉がきい、と音を立てて開いた。
中は薄暗く、古びた机や椅子がそのまま残されていた。
廊下の窓には黒い布が垂れ下がり、まるで中の時間が止まっているかのようだった。
美術室は突き当たりの部屋だった。
壁には昔の作品の名残があって、剥がれかけた切り絵や、紙粘土の仮面が所々に吊るされていた。
「ここ……ちょっと、こわいね」
私は思わずそう呟いた。
椎名さんはかすかに笑って言った。
「でも、落ち着くでしょ? ここ、音がしないから」
そのとき、私は気づいた。
さっきまで聞こえていたはずの鳥の声も、窓の外の車の音も――何も聞こえなくなっていた。
「ねぇ、知ってる?」と椎名さんがもう一度言った。
「この紙人形、顔を描いて名前をつけるとね、“呼ばれる”んだって」
そう言って、彼女はポケットから小さな人形を取り出した。
それは昨日、私の机に置いていったものと同じ。
ただひとつ違うのは、その額に小さく赤い印がついていたことだった。
椎名さんは、私の返事を待たずに、紙人形を机の上にそっと置いた。
古びた木の机の上に、白く折られたその人形は、不思議と“存在感”があった。
目も口も描かれていないのに、そこに“誰かがいる”気配だけが濃く漂っている。
椎名さんはペンを取り出し、ためらいなく顔を描きはじめた。
その筆跡は、どこか私の記憶にある自分の顔に似ていて、頬や眉のあたりに特徴が寄せられていくのが分かった。
――まるで、“誰かを正確に模写するように”。
「ねぇ、この子の名前、教えて」
椎名さんが、静かにそう言った。
私は一瞬、何のことか分からなかった。
「え、名前?」
「うん。呼ぶには名前がいるから。……本当の、あなたの名前」
私はとっさに、嘘の名前を言いかけてやめた。
でも、口から出てきたのは、いつも通りのフルネームだった。
椎名さんはうなずいて、名前を人形の背に書き入れた。
そして、少しだけ首をかしげて言った。
「この子、ちょっと怒ってるかも」
「……え?」
「わかんない? 顔、ちょっと睨んでるよ」
確かにその紙人形の顔は、どこか不機嫌そうに見えた。
でもそれは、椎名さんがそう“描いた”からじゃないのか、と言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。
そのとき、壁に貼られた古い切り絵がふっと揺れた。
窓は閉まっていたし、風もない。
なのに、その一枚だけが、誰かが引っ張ったように揺れた。
「……今、動いたよね?」
私がそう言うと、椎名さんは静かに頷いた。
「ここ、来るたびに変わるんだよ。昨日までは、もっと物が少なかった」
「え?」
「でも、紙人形を折ると、なにかが増えるの。“呼ばれる”の。わたし、知ってるから」
机の上の紙人形が、微かに傾いた。
風はない。誰も触れていない。
なのに、その人形はまるで自分の意志で立ち上がろうとするように、ごとっと小さく音を立てて倒れた。
私は息を呑んだ。
さっきまでは、ただの紙だった。それが――今、動いた。
「この子はね、自分の“本体”を探してるんだって」
椎名さんの声は、もうさっきまでの穏やかなものじゃなかった。
「あなたの“形”を借りて作ったから、きっと、あなたのところに行くよ。
だって、そういうふうに作ったんだもん」
私は机から距離を取った。
紙人形の目が、私を見ているような錯覚があった。
無表情なのに、怒っている。何かを伝えようとしている。
「……やめてよ。冗談でしょ?」
「冗談じゃないよ。ねぇ、知ってる?」
椎名さんがこちらを見て、笑った。
「“本当に似てる”って言われた紙人形はね、だんだん作った人の手を離れるんだよ。
顔も名前も与えられて、自分の“持ち主”を探して歩き出すの。
でね、見つけたら――そこに、“戻る”んだって」
紙人形が、机の上で音もなく起き上がった。
足音はない。紙が立つ音もしない。
なのに、そこに“何か”が立っている気配だけが、強く、確かにあった。
私は立ち上がった。
でも、足が震えて、動けなかった。
そのとき、教室の隅に吊るされた紙の仮面が、ひとつ、ぽとりと落ちた。
何かが始まっている。
何かが、もうすぐこちらに来る。
紙人形が机の上に立ち上がった瞬間、部屋の空気が変わった。
動いているのは紙のはずなのに、空気が揺れる音すら聞こえた気がした。
それは、誰かが“深く息を吸い込んだ”ような――冷たく湿った音だった。
「やっぱり、うまくできたんだね」
椎名さんがぽつりと言った。
「これで、ちゃんと“帰れる”よ。あの子が……わたしのかわりに」
「……え?」
紙人形は机の上で、こちらを向いた。
顔は紙のはずなのに、視線だけが“刺さるように”伝わってくる。
その瞬間、私はようやく理解した。
――これは、“私の形”をした何かじゃない。
これは、“私になろうとしているもの”だ。
「ちょっと、やめ――」
言いかけた瞬間、教室の天井がわずかに軋んだ。
その音に合わせて、天井から吊るされていた仮面が、次々と落ち始めた。
ぽと、ぽと。
ひとつ、またひとつ。
そのたびに紙人形の影が濃くなっていく。
まるで、落ちた仮面の“役”をすべて吸い込んでいくように。
椎名さんは、動かなかった。
いや、動けないように見えた。顔は私を見ているけれど、目は焦点が合っていなかった。
そして、その口元が微かに動いた。
「ねぇ、知ってる?
紙でつくられた人形は、人になりたがるんだよ。
でもそのためには、誰かの“抜け殻”が必要なの。……入れ物がね」
紙人形の影が、床から長く伸びた。
その先端が、私の影とぴたりと重なった。
足が、動かなかった。
紙の影が冷たく肌に這っているような感覚。
それは物理的なものではなく、“存在の底”を撫でるようななにかだった。
「やめて……やだ、やめて」
私は声をあげた。
でも、誰にも届かない。椎名さんも、部屋も、紙人形も――すべてが音を拒絶していた。
そのとき、美術室の奥。
紙細工の棚が積み重なったその間から、何かが“のぞいた”。
見えたのは、白い紙の服。ジャージのような布の模様が印刷された、それらしい形。
そしてその下、のっぺりとした顔のない影。
“あの子”だった。
帽子のような折りがされた頭。細長い手。
口のないはずの顔から、かすかに音が漏れた。
「……こえ、かして」
その声が、頭の内側に響いた。
紙人形が、一歩こちらに歩み寄った。
カサリ。
その一歩だけで、部屋の空気が二重になったような感覚がした。
もう一歩、近づいた。
今度は私の喉の奥が、カラカラに乾いた。
――“入られる”
直感がそう警告してきた。
私は、机の上のその紙人形を、思わず払いのけた。
バサッ――。
人形は、軽い音を立てて床に落ちた。
でもその瞬間、壁一面に貼られていた折り紙が、同時に揺れた。
バサバサと、まるで風が吹き抜けたように。
そして、すべての折り紙が“こちらを向いた”。
動いていない。
ただの紙。そう、ただの紙。
だけど――見られている。
その瞬間、背後の扉がきぃ、と音を立てた。
誰も開けていないのに、勝手に開いた。
風が吹いた。
風の中に、誰かの声が混じった。
「……かわって、いい?」
「……かわって、いい?」
その声が、私の耳の奥で反響した瞬間。
美術室のすべてが、ぴたりと静止した。
紙人形も、仮面も、空気も。
私の鼓動さえ、一度だけ止まった気がした。
ふと気づくと、私は床に座り込んでいた。
さっきまで立っていたはずなのに、記憶がない。
椎名さんは、机にうつ伏せて眠っていた。
紙人形は見当たらない。仮面も、壁の折り紙も、何もかも元どおりに貼り付けられていた。
「……今のって、夢?」
呟いた声が、自分のものじゃない気がした。
喉の奥に違和感がある。
言葉のイントネーションが、わずかにズレている。
私は立ち上がり、美術室の扉を開けた。
きぃ、という軋み音が、妙に耳に残った。
外に出ると、もう陽は傾いていた。
いつの間に、こんなに時間が経っていたのか。
「……あのさ」
背後で声がして、振り返ると椎名さんが立っていた。
表情は変わらない。でも、声の調子が、あの教室の中と違って聞こえた。
「ごめんね。あたし……たぶん、あの子の“入り口”になってたんだと思う」
「……入り口?」
「うん。でも、君に似すぎてたんだよ。だから、あの子……本気になっちゃった」
私は何も答えられなかった。
でも、胸の奥に引っかかる言葉だけが残っていた。
“君に似すぎてた”。
それって――“今の私は、本当に“私”なのか?”ということ?
次の日。
学校の教室では、何も変わった様子はなかった。
みんな、いつもどおり。授業も、昼休みも、部活の放課後も。
でも、気づいてしまった。
私は、ノートの自分の字を、前と同じように書けなくなっていた。
“あ”の形が少しだけ違う。
漢字のバランスも、わずかにずれている。
授業中、クラスの子が私を見て、こう言った。
「ねぇ、なんか今日、しゃべり方ちがくない?」
私は笑って誤魔化した。
でも、その笑顔も――自分のものじゃないような気がした。
放課後、図書室に行くと、椎名さんが座っていた。
彼女は黙って折り紙を折っていた。
そして、机の端にひとつだけ、紙人形が置かれていた。
それは、私の顔をしていなかった。
けれど、なぜかとても、懐かしい気がした。
――それが、“前の私”なのかもしれない。




