第4話『小杜町、旧トンネルの向こう側』
夏休みの帰省は、毎年気まずい。
両親はあいかわらず仲が悪いし、祖母の家はテレビの音がやけに大きいし、玄関を開けた瞬間から畳と線香のにおいが肌にまとわりつく。
でも今年は少し違った。中学の同級生から、LINEが届いていたからだ。
《ひさしぶり! 今度ひまな日ない? 久々に集まろー!》
送り主は川澄という男子で、当時はそんなに仲がよかったわけじゃないけれど、たしかに印象には残っている子だった。
そして、もうひとり。「あやね」――中学のころ、いちばんよく話していた友達も、そこに来るという。
集合場所は、商店街のはずれにあるコンビニ。
小杜町には、スタバもゲーセンもない。でも、このコンビニの前だけは昔から「なんかたまる場所」として機能していて、高校生も大学生も、地元の社会人まで、なぜかみんなここに戻ってくる。
「久しぶり!」
声をかけてきたのは、あやねだった。
髪を肩まで伸ばして、色も明るくなっていたけど、笑ったときの目の形は変わっていなかった。
「ほんとに、○○(語り手の名前)、全然変わってないよね。あたし、ちょっと大人になったでしょ?」
「うん、なんか“しっかり”した感じする」
「でしょ〜。川澄はあんまり変わってないけどね」
「失礼な。オレ、いま社会人だよ。トラック運転してる」
「えっ、まじ? 地元に戻ってきてたんだ?」
「そう。毎日このへん走ってる。旧道のとこ、まだ工事してるよ。相変わらず“例の場所”はそのまんまだし」
「“例の場所”?」
川澄がにやっと笑って言う。
「旧トンネル。肝試しでおなじみの、あそこ」
あやねが吹き出した。
「なつかしっ! あれでしょ、まだ“帰ろう”って落書き残ってんの?」
「多分ある。あと、だれかが花供えてたらしいよ。中学生が入って行方不明になったって噂もまだあるし」
「やだぁ、それ昔から言われてたやつじゃん。信じてんの?」
「じゃあ、見に行く? 今夜とか、3人で」
話がトントン拍子に進んで、なんとなく断る理由も見つからないまま、その日の夜に「旧トンネル」に行くことが決まった。
まだ夕方だったけれど、商店街からの帰り道、川澄がぽつりとつぶやいた。
「ねぇ、知ってる? あそこって、帰ろうとする人から順にいなくなるんだって」
「それって、脅しかな?」
「違うよ。オレがガキのころ、親から聞いた話」
「へぇ」
「……でも、“いた”んだよ、実際に。“いなくなった子”。オレの隣のクラスの女子だった。ひとりだけ、写真に写ってないやつがいたの。今思えば、変だったんだよな……」
その夜、午後10時。
小杜町の裏手にある旧道は、昼でも人がいない。車道の途中でポツンと横道に入ると、木に覆われた坂道の先に、封鎖された旧トンネルがある。
柵は腰高の鉄パイプで、誰でもまたげる。
でも、そこには今も“それらしい空気”が残っていた。
「わあ……ホントにある。これ、スプレーで描いたやつ?」
あやねが指差した壁には、赤いスプレーで**「ねぇ、もう帰ろう」**と書かれていた。
“ねぇ”という文字だけが妙に細かく描かれていて、誰かが上書きしたような痕があった。
「花もある……」
トンネル入口の端に、小さなプラスチックの花束が置かれていた。
よく見ると、それは造花だった。少し汚れているけど、明らかに最近置かれたものだった。
「……ねえ、これマジで入るの?」
あやねが少し引き気味に聞いた。
「ビビってんの? 行こうよ。中は一本道だし、スマホのライトあるから大丈夫」
川澄が先に柵をまたぎ、ぼくたちも続く。
トンネルの中は、ひんやりしていて湿っていた。
足音がコツコツ響くたび、水たまりの中に波紋が広がる。
「うわ……天井、なんか這ったあとあるじゃん」
あやねの声が響く。
スマホのライトを上に向けると、天井の金属板に何かの跡が残っていた。
長い爪のような、何本もの線が、奥へ向かって伸びていた。
「……ねえ、今の音、なに?」
「なにって?」
「なんか……チャリって。金属音みたいなの」
「オレは聞こえなかったけど……」
そのとき、川澄がぽん、と軽く背中をたたいた。
「記念に撮っとこうぜ、せっかく来たんだし」
「やめなよ〜、そういうの写るやつ」
「だからいいんじゃん。インスタ載せるから」
川澄がスマホを構えて撮影ボタンを押す。
パシャ。
トンネルの奥へ向けてフラッシュが走った。
その一瞬、ライトの先に――誰かが立っていたように見えた。
川澄がスマホをのぞきこむ。
「……あれ?」
画面には、3人の影と、奥にぼんやりと浮かぶ四つ目の影が写っていた。
それは、天井近くまで届くような、背の高い――でも帽子をかぶったような形だった。
「なんだこれ……」
誰も言わなかったけれど、みんな同時に、**“もう戻ったほうがいい”**と感じていた。
トンネルの奥へ進むと、空気の密度が変わった。
最初に感じたのは「音」の違和感だった。
川澄がスニーカーで水たまりを踏む音も、あやねが小声で「ちょっと、やっぱやめよ」ってつぶやいた声も、どこか遠くで鳴っているみたいに聞こえる。
「……スマホ、見て」
川澄が声をひそめて、ポケットから取り出したスマホの画面を見せてきた。
フラッシュで撮った写真には、やっぱり“何か”が写っていた。
人影のような、でも妙に頭が大きくて、帽子をかぶったような。
それが――徐々に近づいている。
「……これ、場所的に、あっち側から撮ってるよね」
あやねが指さした先。トンネルの奥。真っ暗な空間の中。
壁のシミと見間違えるほど、わずかに“何か”がいた。
立っていた。こちらを向いていた。
ライトを向けても、そこには何もなかった。
「川澄、帰ろう。これマジでやばいって」
「……いや、オレ、ちょっとだけ奥、見てくるわ」
「ちょっと、なに言って――」
川澄は、懐中電灯を持ったまま、ふらふらとトンネルの奥へ歩き出した。
「大丈夫、大丈夫。すぐ戻るって」と言いながら。
それきり、彼の足音は消えた。
「……ねえ、今、川澄の足音、聞こえた?」
「聞こえない」
「声も?」
「……なにも」
あやねと顔を見合わせた。
ふたりとも、喉の奥がひりつくように乾いていた。
「行く?」
「……行くしかないでしょ」
私たちは、川澄の残した懐中電灯を頼りに、トンネルの奥へ進んだ。
けれど、数歩ごとに、道がなにかズレていくような感覚があった。
地面の傾き、天井の高さ、壁の質感――ぜんぶ少しずつ違っていく。
まるで、いま歩いているトンネルが、最初のものと同じじゃないような。
「……待って。何人だったっけ?」
「え?」
「私たち。ここに来た人数」
「……三人、でしょ?」
「……うん。そうだよね。三人、だよね……?」
あやねが、ぎゅっと私の手を握った。
でもその手は、妙に細くて、冷たかった。
しばらく歩いて、壁の一部が崩れかけたところに差しかかったときだった。
私たちは、ひとつの「分かれ道」を見つけた。
トンネルなのに、道が左右に分岐している。
「え、こんなのあった? 行きに?」
「……ない、はず。一本道って聞いてたよね」
左の道はさらに狭くて、崩れたレンガの瓦礫が足元に転がっている。
右は、なめらかに続くけもの道のような曲線を描いていた。
そのとき、どちらの道からともなく、声が聞こえた。
「ねぇ、こっちだよ」
女の子の声だった。
遠くて、くぐもっていて、それでいて耳元で囁かれたように鮮明だった。
「……ねえ、今の……」
「聞こえた」
その直後、ライトが一瞬だけ消えた。
電池切れか、何かに当たったのか。
そして再び点いたとき、あやねが言った。
「……今、私たち、四人だった気がしなかった?」
「……え?」
「ほんの一瞬だけど……うしろに、誰か、いたような……」
ぞっとした。
息が苦しくなって、鼓膜の内側で、なにかがずっと響いている気がした。
私は、思わず後ろを振り返った。
誰もいなかった。
けれど、壁に残る水の跡が――まるで“誰かが頭を押しつけた”ような形になっていた。
私たちは、分岐したトンネルの右の道を選んだ。
直感だった。なぜか、左に行ったら“戻ってこられない”気がした。
あやねと私は、肩を寄せるようにして歩いた。
さっきより空気がぬるくて、どこからか湿った泥の匂いが漂ってくる。
「……音、してる?」
あやねが小声で聞いてきた。
私も耳を澄ませたが、何も聞こえなかった。
さっきまであった、私たち自身の足音すら、吸い込まれて消えていくような。
スマホのライトも、少しずつ弱くなっている気がした。
そのとき――前方から、「おーい」と呼ぶ声がした。
川澄の声だった。
思わず駆け寄ろうとするあやねの腕を、私は反射的に引き止めた。
「まって……」
声が、おかしかった。
言葉は川澄の声だけど、テンポや抑揚が、妙に機械的だった。
何より、声に**“重なり”があった**。
ひとりがしゃべっているはずなのに、そこには微妙なズレのある二重音が混じっていた。
「……たすけて……」
今度は、もっと近くから。
ライトを向けると、トンネルの壁のくぼみに、誰かが立っていた。
「川澄……?」
あやねが震える声で呼んだ。
けれど、そこにいたのは――“川澄の形をしたもの”だった。
帽子をかぶっている。
その影は、さっき写真に写っていた“それ”と同じ高さ。
顔は川澄のものに見えるけど、目が合った瞬間に、私は確信した。
それは“川澄ではない”。
「……ねぇ、知ってる?」
その“川澄”が口を開いた。
声は確かに川澄の声だった。
でも、言葉の調子が違う。まるで、誰かが「しゃべり方」を真似ているような。
「道、間違えたでしょ。だからこっちに来たんだよね。
あっちに行った子は、もう帰れないんだ。……だって、“行き先が違うから”」
“川澄”の背後に、もう一人の影が立っていた。
少女のような、小さな人影。
ジャージ姿、つばのある帽子。まるで、体育の補助員のような格好。
けれど、その顔は、どこにもなかった。
正面を向いているはずなのに、目も鼻も、口もなかった。
ただの影の中に、ぽっかりと空いた空間があるだけだった。
「……あかん」
川澄に似た声が、もう一度言った。
「間違えたなら、戻らなきゃ。君らは、まだ“戻れるほう”だから」
そう言って、“それ”は、にたぁ、と笑った――ような気がした。
でもその笑顔も、どの顔が笑っていたのか分からない。
次の瞬間、あやねが叫んだ。
「うしろ、出口!」
振り返ると、そこにぽっかりと光の穴が見えた。
いつの間にか背後に開いていた、コンクリートの割れ目。
光が差し込んでいて、外の空気が感じられる。
私たちは一気に駆け出した。
後ろから、影がずるり、と追いかけてくるような気配があったけれど、振り返らなかった。
トンネルを抜けたあと、私は倒れ込むようにして息をついた。
あやねも、肩で呼吸しながら顔を覆っていた。
そして、少し遅れて、川澄が出てきた。
「……おそかったね」
私が言うと、川澄は首をかしげた。
「ん? おれ、ずっと外にいたけど?」
その一言で、全身が冷たくなった。
私たちは、あのトンネルの中で、“川澄”と確かに会っていた。
でも、今ここにいる川澄は、そのことをまったく覚えていないらしい。
「何言ってんの? あやね、川澄、奥行ったじゃん……!」
あやねが言いかけて、黙った。
顔が、ひどく青ざめている。
「……え?」
「川澄って……もともと、来てたっけ?」
「……川澄って、もともと、来てたっけ?」
あやねのその言葉が、耳の奥にずっと残っていた。
私たちはたしかに、三人でトンネルに入った。
でも今、思い出そうとしても、最初の待ち合わせに川澄がいたかどうかが曖昧だった。
集合場所のコンビニ。最初にいたのは、あやねと私。
LINEの履歴にも、川澄の名前は残っていなかった。
けれど、私の記憶にはある。川澄の声、笑い方、トンネルの中で撮った写真。
それなのに、スマホのカメラロールには、その写真が残っていなかった。
「……スマホ壊れたのかな」
「でも、最初からなかったのかもよ」
そう言ったあやねの表情も、少しずつ違ってきている気がした。
目の奥にあったはずの光が、何かで塗りつぶされたように鈍くなっていた。
「ねぇ、でも無事でよかったよね。……三人で行って、三人で戻ってこれたし」
――三人?
あやねは、間違いなく今、“三人で行った”と言った。
だけど、その三人の内訳を、彼女はもう思い出せていない。
私だけが、まだ気づいているのだ。
“本当は、最初から四人だったんじゃないか”って。
その夜、夢を見た。
トンネルの中。崩れかけた分かれ道の前。
誰かが私の手を引こうとしている。
それは小さな手だった。体育ジャージの袖から伸びた、少しだけ爪の汚れた指。
その顔は見えなかったけれど、声だけははっきりと聞こえた。
「ねぇ、知ってる?」
目が覚めたとき、部屋の隅に置いたカバンの中から、あの造花の花束が出てきた。
トンネルの入り口に置かれていたはずの、それと同じもの。
汚れ方まで、まったく同じだった。
その週、私は小杜町を出てアパートに戻った。
夏はまだ終わっていなかったけれど、どこかで季節が変わってしまったような気がした。
スマホを見ていると、通知がひとつだけ来ていた。
《川澄さんが“あやねの連絡先”を共有しました》
アプリの不具合かと思って開いてみると、そこにはこう書いてあった。
“あやねって、誰のことだっけ?”
私は、そのままスマホを閉じた。
今でも、たまに誰かが聞いてくる。
「ねぇ、あのとき、何人で行ったんだっけ?」
私はいつも、笑ってこう答える。
「……三人、だよ。たしか、三人だったはず」




