『橋の上で拾ってはいけない』
うちの近くには、少し古い歩道橋がある。
車道をまたぐように掛かっているくせに、信号のある横断歩道のすぐ横にあって、誰がどう見ても無駄な建築物だ。私も小学生の頃は何度か渡ったけれど、中学生になってからはほとんど使わなくなった。
けれどその歩道橋には、ひとつだけ――ちょっとした噂がある。
「橋の上で白いものを拾っちゃダメだよ。持ち主になっちゃうから」
そう言ったのは、妹だった。小学四年生の、少し生意気で、やけに真面目な女の子。
その日、私はいつものように塾からの帰り道、妹と一緒に並んで歩いていた。夕方六時過ぎ。周囲はすっかり薄暗くなっていて、街灯のオレンジ色がじわじわと舗装された道に染み出している。
妹はランドセルを背負ったまま、肩にかけた習い事のバッグをぎゅっと握りしめて、少しだけ疲れた表情をしていた。
「ねえ、お姉ちゃん。わたし、ちょっとだけ、遠回りして帰っていい?」
「遠回り? なに、寄り道したいとこでもあるの?」
「ううん。歩道橋の上、通ってみたいだけ」
私は少し考えた。
正直、わざわざ使うような道でもないし、今さら珍しがる年でもないと思ったけれど、妹の目がどこかまっすぐだった。
「いいけど、さっさと渡って帰るよ。今日カレーって言ってたし、冷めるとお母さん機嫌悪いし」
そう言って歩道橋の階段をのぼり始めると、妹もぱたぱたと小さな足音でついてくる。
歩道橋の上は、風が強かった。
その日はとくに寒かったわけじゃないけれど、高い場所に立つと空気がひんやりとしていて、吐いた息がうっすら白く見える。
橋の真ん中まで来たとき、妹がぴたりと立ち止まった。
「……あれ、なに?」
その声に、私も足を止めた。
妹が指さしていたのは、歩道橋の欄干の脇――ちょうど誰かが落としたような感じで置かれていた、“白い手袋”だった。
大人の女性用だろうか。真っ白で、毛糸ではなく、うっすらと光沢のある薄手の布でできていた。落ち葉もついていないし、汚れもない。
まるで“置かれていた”みたいに、整っている。
「拾わないでよ」と、私は先に言った。
妹が反射的に動きそうだったから。
けれど、妹はそれ以上に真剣な顔で私を見た。
「お姉ちゃん、ねぇ、知ってる? あれ、絶対に拾っちゃいけないんだよ」
私は内心でひやりとした。
その言い方。妹の声のトーン。“ねぇ、知ってる?”という言葉。
昨日、北校舎の図書室で聞いたばかりのフレーズだった。
「なんで、ダメなの?」
「だって、それ……“置いてある”じゃなくて、“戻されてる”んだよ。最初に拾った人が、返したんだよ。だって、捨てたら“ついてくる”から」
私は何か言いかけて、口を閉じた。
妹の目は、ふざけているようには見えなかった。
彼女はランドセルのベルトをぎゅっと握りながら、手袋を見下ろして言った。
「拾った人は、夢に“誰か”が来るんだって。手袋の持ち主。返して、って。でも、返す場所を間違えると、もっとひどいことになるんだって」
「……どこで聞いたの、その話」
「さっき。塾の玄関で。黒い服の女の子が教えてくれた」
「黒い服?」
「うん。……制服じゃなかった。ズボン履いてた」
その瞬間、背中に冷たいものが流れた気がした。
妹が言ったその“女の子”は、きっと私が昨日、図書室で会った“あの子”だ。
妹の世界にも、あの子は現れている――。
私はとっさに妹の手を引いた。
「やっぱり、行こう。冷えるし、もうすぐごはんだし」
妹は頷いた。けれど歩き出そうとしたそのとき、急に風が強く吹いた。
――手袋が、飛んだ。
ふわりと舞い上がった白い布が、ひゅるひゅると風に乗って、妹の足元に落ちる。
反射的に、妹はそれを拾った。
「あっ!」
私が声を上げたときには、もう遅かった。
妹は手袋を胸元に抱え、「冷たっ」とつぶやいた。
私はすぐにそれを取り上げ、欄干の上に戻そうとした。けれど、妹がその手を掴んで止めた。
「……ダメ。拾っちゃったら、もう“渡された”んだよ。持って帰らなきゃ」
「なにそれ、意味わかんないって」
「だって、あの人が言ってたもん。“返すときは、ちゃんと返してね”って」
私は言葉を失った。
“あの人”。それは、誰?
けれど、妹はそれ以上何も言わなかった。
私たちは歩道橋を降りて、家路へ向かう。
妹はずっと、手袋を握りしめたまま、言葉ひとつ発さなかった。
そして、その日から――妹の様子は、少しずつおかしくなっていった。
次の日の朝。
妹は、なぜか白い手袋をして登校した。
私が止めようとしたけれど、彼女は「なくすとダメだから」とだけ言って、ランドセルを背負って家を出ていった。
その日、私の学校では期末テストが始まっていたけれど、朝から気がそぞろだった。
妹の言葉がずっと頭の中を渦巻いていて、「返さなきゃいけない」「渡された」といった意味深なセリフが離れなかった。
放課後。家に帰ると、妹はすでに帰宅していた。
ただ、玄関に置かれた靴が、左右逆だった。
いつも几帳面な妹にしては珍しい。
リビングに入ると、妹は静かにソファに座ってテレビを見ていた。
けれど、その視線はどこか空っぽだった。画面を見ていない。むしろ、じっと“映り込み”のようなものを気にしているように。
「ただいま。……手袋、持ってる?」
そう聞くと、妹はふっと笑った。
「うん。……でも、今は片方だけ」
「えっ、片方?」
「だって、ひとつ返したから」
私は背筋に嫌な汗をかいた。
「どこに?」
「橋の上。昨日と同じ場所。さっき、返してきたの」
「……あんた、ひとりで? それって……」
「ううん、ひとりじゃないよ。ちゃんと、待ってたから」
妹はそう言って、窓の外をちらりと見た。
私は反射的に、レースカーテンをさっと引いた。視線の先に、何かがいる気がして。
その夜、妹は寝言を言った。
「こっち、こっち……」と、小さな声で繰り返していた。
私は同じ部屋の布団の中で聞いていたが、身体を動かすことも、声をかけることもできなかった。
翌朝、妹の枕元には、もう片方の手袋が置いてあった。
妹はそれを見ても驚かなかった。
それどころか、笑った。
「やっぱり……戻ってきた」
「どういう意味?」
「ちゃんと返せなかったんだよ。返す場所、間違えちゃったんだって」
その時、私は思い出した。
――妹が初めて“その話”を聞いたのは、塾の玄関先だった。
そして、彼女は言っていた。“返す場所を間違えると、もっとひどいことになる”と。
「だから、どうすればいいの?」
「うーん……今度は、もっとうまく返すって、その子が言ってた」
私はゾッとした。
妹の言葉は、まるで他人の言葉のようだった。
自分の意志でしゃべっていない。あの子に“教わった通り”を繰り返しているように聞こえた。
数日が過ぎるごとに、妹の様子はどんどん変わっていった。
寝る時間が早くなり、朝も目を覚まさなくなってきた。
声が小さくなり、食事の量も減った。
何よりも――影が、少しずつ長くなっていた。
学校から帰ってきて部屋に入ると、床に伸びる影が異様に濃い。
夕方だからと自分に言い聞かせようとしても、何かがおかしい。
妹の影は、日によって長さが違う。それも、時間帯に関係なく。
ある夜。私はついに、妹の影を踏んだ。
その瞬間、妹がびくりと身体を震わせ、目を見開いた。
「ダメ、それ、踏んじゃ……」
私は思わず足を離した。
「ねぇ、お姉ちゃん。“あの子”が言ってたよ。影はその人の“形”なんだって。ほんとの形。“元の姿”に戻っちゃうんだって」
「……誰の?」
「持ち主の」
私はもう、妹がただの妹じゃない気がしていた。
“何か”が入り込んでいる。あるいは、連れてきてしまった。
あの白い手袋を拾ったあの日から。
私は、妹が学校に行っている間に、もう一度、歩道橋へ行くことにした。
午後三時。人気のない歩道橋は、あの日と同じように風が吹いていた。
歩道の脇には、誰が置いたのか、白い手袋が再び落ちていた。しかも両方。
「……返す、ってこういうこと?」
私は無意識にそうつぶやいた。
そのとき、歩道橋の反対側に、誰かの姿があった。
黒いズボン、上着はグレーのパーカー。風に髪がなびいている。
遠目でしか見えなかったけれど、彼女は確かに私を見ていた。
「ねぇ、知ってる?」
声は聞こえなかった。でも、唇がそう動いたのを私は確かに見た。
その子は、ゆっくりと後ろを向き、歩道橋を降りていった。
まるで、“返し方を、見せた”かのように。
私は何も言わず、手袋を橋の中央に置いた。
そこは、妹が最初に拾った場所だった。
その夜、妹は深く眠り、寝言も言わなかった。
朝になると、手袋は姿を消していた。
けれど、それで終わりだったわけじゃない。
リビングの窓ガラスに、ある日、手形がついていた。小さな手。冷たい窓を何度もなぞったような、曇った跡。
そして、それが内側についていたことに気づいたのは、ずっとあとになってからだった。
手袋を歩道橋の中央に戻してから、数日は何事も起こらなかった。
妹は少しずつ元の調子を取り戻してきて、食事も、声のトーンも、日常らしさを取り戻していた。
私も心のどこかで思っていた。
(あれは、ただの偶然だったのかもしれない)と。
きっと不気味な噂と疲れが重なって、私自身が敏感になっていただけだ――と。
でも、それは「日常のかたちをした、よくできた錯覚」だった。
それが壊れたのは、あの日の放課後だった。
妹が学校から帰ってこなかった。
夕方六時を過ぎても、電話にも出ず、LINEも既読にならない。
塾にも寄っていないと連絡が入り、母は少し怒り気味に「またどこかで遊んでるんじゃないの」と言った。
でも、私は違うと確信していた。
妹は、手袋を返し損ねたんだ。
私は制服のまま家を飛び出した。
向かったのは、例の歩道橋。
夕暮れがすでに深くなり、街灯が灯り始めていた。
橋の上に人影はない。冷たい風が吹きつけるだけで、あの日と同じように、空気がどこか湿っていた。
だけど、遠くから見えた。
――橋の中央に、小さな影。
妹だった。
橋の欄干のそばに立ち、手すりをじっと見つめていた。
白い手袋を両手にはめている。それが、はっきりとわかった。
私は声をかけようとした。でも、そのとき気づいてしまった。
妹の影が、ふたつあることに。
ひとつは、妹自身の影。
もうひとつは、それより少し背が高く、形がぼやけたもうひとつの人影。
風も吹いていないのに、そいつは、ぴたりと妹の背中に重なっていた。
私は叫んだ。
「やめて! 離れて!」
けれど妹は、ぴくりと動いただけで、私の方を見なかった。
その影は、ゆっくりと妹の上にのしかかるようにして、彼女の形に吸い込まれていく。
まるで、最初から“そこに戻る”のが当たり前だったみたいに。
「――返すの、わたしじゃなきゃダメなんだって」
妹が、小さな声でそう言った。
私が駆け寄ったとき、妹はふらりとその場に座り込んだ。
手袋は落ちていて、両方ともまるで最初から人の形じゃなかったみたいに、ぐにゃりと歪んでいた。
「ねえ、お姉ちゃん」
妹が、ゆっくりとこちらを見た。
その瞳の奥が、どこか空洞のように見えた。まるで、中に何かが“まだ”残っているような。
「……“持ち主”ってさ、もしかしたら最初から、“私”だったのかな」
私は答えられなかった。
その問いは、私に向けられていない気がした。
家に帰ったあと、妹はすぐに寝た。
熱もない。外傷もない。ただ、妙に静かだった。
寝顔を見ていると、今でもわからなくなることがある。
あの日、橋の上にいた妹は、本当に“私の妹”だったのか。
それとも、何か別のものが、妹の形を借りていたのか。
数日後、私は学校で“ある子”に話しかけられた。
「ねぇ、知ってる?」
黒いボブカット。制服ではなく、白いパーカーにジーンズ。
塾でも、橋の上でも見た“あの子”だった。
けれど、どこか違う気もした。背丈も、雰囲気も、記憶の中より淡い。
「手袋の持ち主って、最後に返す場所を間違えると、ね……“戻れなくなる”んだって」
私が黙っていると、その子はにこっと笑った。
「でも大丈夫。ちゃんと返せたみたい。……今のところはね」
そう言って、歩いていった。
その背中が、妙に遠く感じた。私が何も言わなくても、全部知っていたみたいに。
ふと、足元に目をやると――
そこに、小さな白い糸くずのようなものが落ちていた。
私はそれをそっと拾い上げ、ポケットにしまった。
なぜか、それが“落としちゃいけないもの”のような気がして。
妹は、以前の妹に戻ったように見えた。
食欲も戻り、朝も自分で起きて、ランドセルの中身をきちんと整理する。
学校であった出来事をぽつぽつと話し、私の話にもちゃんと笑う。
家族はみんな、「風邪でも引いてたのかな」と笑っていた。
けれど、私は違う。
私だけが、知っている。
**“どこかが違う”**と。
たとえば――妹の影。
今はもう異様に長くなることはない。でも、どこか左右非対称になっている。
陽の差し込む角度のせいかと何度も思ったけれど、何度見ても、違和感が消えない。
たとえば――笑い方。
あの日から、妹の笑い方は少しだけ“他人っぽく”なった。
前より柔らかくなったとも言える。でも、どこか空気のようにふわふわしていて、感情の温度が感じられないときがある。
そして――あの手袋。
返したはずのそれは、今、妹の机の引き出しの中にある。
ある日、妹がいない隙に、私は引き出しを開けた。
中に置かれていたのは、きちんとたたまれた白い手袋。新品のようにきれいで、タグまでついていた。
けれどタグの文字は、まるで擦れて読めない。
ブランド名も、素材も、製造国も。そこに印字されていたはずの文字がすべて――初めから存在しなかったように。
妹に問いただしたことがある。
「あの手袋、まだ持ってるよね?」
妹は、しばらく黙っていた。そしてこう答えた。
「持ってるっていうより……“返されてきた”の。……だから、今度はわたしが、返す番なんだって」
その言い回しが、どうしようもなく、“あの子”の口調だった。
私はそれ以上、何も聞けなかった。
春が近づき、歩道橋の上にランドセルの忘れ物が置かれていたという話が、町内放送で流れた。
私は背筋が凍ったが、誰にも言えなかった。
白いものじゃなかった。ただの赤いランドセル。けれど、なぜか“それ”も、拾っちゃいけない気がした。
そして、ある夜。
ふと目を覚ますと、部屋の隅に妹が立っていた。
真っ暗な部屋の中で、妹はカーテンの向こうを見つめていた。
「どうしたの?」と声をかけると、妹は少しだけ首をかしげて言った。
「さっきね、窓の外に、わたしがいたの」
「……なに?」
「でも、顔がなかったの。手袋だけ、してた」
妹はそれだけ言って、布団に戻っていった。
私も布団をかぶったけど、眠れるはずがなかった。
心臓の音が、自分のものじゃないように聞こえた。
次の朝。妹はけろっとしていた。
「夢を見た気がするけど、忘れちゃった」と言って、食パンをかじりながら笑った。
でも私は、夢じゃないことを知っている。
なぜなら、窓ガラスの外側に、白い手形がひとつ、くっきり残っていたから。
あれから、私は毎日、歩道橋の上を見上げるようになった。
誰かが何かを落としていないか。白い手袋が、また置かれていないか。
拾わない。決して触らない。
ただ、目を離さない。
だって、“あの子”がまた、誰かに語る日が来るかもしれないから。
ねぇ、知ってる?
橋の上で、白いものを拾うと――
あなたの影は、自分じゃない誰かの形になるんだって。




