『放課後のチャイムは、三回鳴る』
霞ノ第二中学校の図書室は、北校舎の二階にある。
西陽が差し込む時間帯になると、本棚の影が床にゆらゆらと長く伸びて、まるで誰かがうずくまっているみたいに見える。
でも、それが怖いと感じるのは、きっと慣れていない人だけ。私はもう慣れていた。図書室当番を三ヶ月も続ければ、むしろこの静けさが落ち着くとさえ思うようになる。
名前は伏せるけど、私はごく普通の中学二年生。どちらかといえば目立たないタイプだし、本が好きというよりは、当番中に誰にも話しかけられずにいられる時間が好きだった。
今日も図書室にはほとんど誰も来なかった。ノートパソコンの画面には、貸出カードのデータベース。返却本は二冊だけ。棚に戻して、室内を一巡。何も問題はない。
ふと、窓の外に目をやると、校庭の部活生たちが走っている姿が見えた。陽はすっかり傾き、グラウンドの端がオレンジ色に染まっていた。
(そろそろ閉室だな)
椅子から立ち上がろうとした、そのときだった。
――チャイムが鳴った。
ぴんぽんぱんぽーん。
ああ、もうそんな時間か、と時計を見上げる。午後五時。図書室の閉室チャイムだった。
「……さて、帰るか」
呟いてパソコンをシャットダウンしようとした、そのとき。
――チャイムが、また鳴った。
ぴんぽんぱんぽーん。
おかしい。さっきとまったく同じ音だったけど、間隔が短すぎる。しかも今度は校内放送が入らない。ただ音だけが、空間を震わせるように響いてきた。
(機械の誤作動かな……?)
そう思って立ち上がりかけたとき、図書室のドアがすうっと開いた。
そこにいたのは、見覚えのない女の子だった。
セーラー服の上に薄いカーディガン。長めの黒髪をボブに揃え、表情のない顔でこちらをじっと見ていた。見た目は同じくらいの年齢に見える。けれど、制服のリボンの色が違う。……一年生でも三年生でもない。そもそも、この学校の制服じゃない気がした。
「……ごめん、図書室はもう閉めるんだけど」
そう言いかけた私に、女の子はすっと口を開いた。
「ねぇ、知ってる?」
その声は、どこか空気の中に混ざって消えていきそうなほど、静かで淡かった。
でも、その一言は確かに聞こえた。まるで決まり文句のように、間を置いて、続ける。
「チャイムって、ふつう一回だけど……三回鳴ったときって、誰かがまだいるってことなんだって。呼ばれてるんだって」
私が言葉に詰まると、彼女は一歩、図書室の中へ足を踏み入れた。
「二回目までは、間違い。三回目で、確定」
そして――三度目のチャイムが、鳴った。
ぴんぽんぱんぽーん。
あの子は、そこでふっと笑ったように見えた。でも次の瞬間には、そこに誰もいなかった。
気がつけば、図書室のドアも閉まっていて、私はひとりだった。
ただ、背中が汗ばんでいるのを感じた。窓の外では、もう夕陽は沈みかけていた。
あの子がいなくなったあとも、私はしばらく動けずにいた。
夢を見ていたような感覚だった。でも夢にしては手触りがはっきりしていて、まだ耳の奥でチャイムの残響がかすかに鳴っている気がする。
「……誰?」
呟いてみても返事はない。あんな制服、見たことがない。そもそも、あんな風に人が立っていたら、すぐ気づくはずだ。なのに、あの子は音もなく現れて、同じように姿を消した。
(あれは……)
けれど、答えを出す前に、図書室の空気がひんやりと変わった。
もうエアコンは切ってあるはずなのに、なぜか肌に冷気がまとわりつく。音のない静けさが部屋の隅々まで満ちていて、私は不意に、自分が“閉じ込められている”ような感覚に襲われた。
あわててパソコンを落とし、カバンをつかんで立ち上がる。
ドアへ向かおうとした瞬間――廊下の向こうから、きしむような足音が聞こえた。
ギィ……ギィ……ギィ……
誰かが、ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
私は固まった。音の主が見えないのが、余計に怖かった。
図書室のガラス窓に背中を押しつけながら、細く開けたドアの隙間から廊下を覗く。
……誰もいない。廊下の蛍光灯は半分以上切れていて、ぽつぽつと点いた灯りが薄暗い床を照らしているだけだった。
(誰か、いるの?)
心の中で問うても、返事はない。足音も、もう聞こえない。
やっぱり、全部気のせいだったのかもしれない――そう思いかけたとき。
突然、図書室のスピーカーが「ガッ」と音を立てた。
雑音混じりのノイズ。放送室から何かが流れている?
耳を澄ますと、どこかで聞いたことのある音楽が混じっていた。……それは、いつも帰りの放送で流れていた曲。でも、テンポが妙に遅く、音程が微妙にずれている。
それがかえって不気味だった。
私は思わず、図書室を出た。
廊下に出た瞬間、空気が変わった。湿っていて、どこかカビ臭い。誰もいないはずなのに、誰かの生活臭が漂っていた。
夕方の明るさはほとんど残っておらず、校舎内はすでに夜の顔を見せていた。
北校舎は本館とは別棟で、夜は立ち入り禁止のはずだった。けれど私は、今、そこにいる。
(帰らなきゃ……)そう思ったとき、階段の下のほうで、再び足音が鳴った。
ギィ……ギィ……ギィ……
今度ははっきりと聞こえた。誰かが、階段をのぼってくる音。
私は階段を見下ろした。
……何もいない。でも、足音は確かに近づいてくる。ひとつ、またひとつ、段差を這い上がるように。
怖さが限界に達して、私は振り返り、図書室の前を駆け抜けて本館へ向かおうとした。
そのときだった。北校舎と本館をつなぐ渡り廊下の扉が、閉まっていた。
がちゃん、と金属音が響く。まるで、誰かが外から鍵をかけたかのように。
私は扉を強く叩いた。
「誰かいますか! 開けてください……!」
叫びながら叩いても、返事はない。外はもう真っ暗だった。校舎の灯りの外に出れば、きっと何も見えなくなる。
廊下の後ろから、また――ギィ……ギィ……ギィ……と、重く軋む音が聞こえてきた。
――チャイムが、また鳴った。
四度目。
ぴんぽんぱんぽーん。
でも、今度の音は、なぜか歪んでいた。まるでテープがよれているような、ぎこちないメロディ。
私は目を閉じて、深呼吸した。こんなことでパニックになってたまるか。
それに……こんなとき、“あの子”なら、どうするだろう?
なぜか、そんなことを思った。
「……あの子」
もういないはずの彼女のことが、頭から離れなかった。
「チャイムが三回鳴ったら、呼ばれてるんだよ」
そう言った彼女は、一体なにを知っていたんだろう。
私は思い切って、もう一度図書室へと戻った。
まだ何か、手がかりがあるような気がした。
図書室に戻ると、空気が一段と冷たくなっていた。
床に伸びる本棚の影がさっきより濃く、長くなっている。まるで部屋の隅で何かが息を潜めているようだった。
入口のガラス戸はぴたりと閉じている。ドアの留め具には鍵がかかっていない。
けれど、何かが「閉じ込めようとしている」のは、間違いないと感じた。
私はカバンを抱きしめるようにして、恐る恐る部屋の奥へ歩いた。
誰もいない。声も、物音もない。ただ、本の並ぶ棚が静かに立っているだけ。けれど、そこには“異物”がひとつだけあった。
――一冊だけ、棚からわずかに飛び出している本。
私は引き寄せられるように、その背表紙を見た。
『霞ノ第二中学校 年次報告書 平成十三年度』
分厚い冊子だった。貸出用ではなく、資料室にあるようなものだ。こんなものが、なんで……?
私はそっと開いてみた。
最初の数ページは生徒数や授業計画のような、つまらない内容だった。けれど、中ほどに差し掛かったとき、私は手を止めた。
【特記事項:旧館での「チャイム誤作動」による報告】
古い、タイプライターで打ったような文字で、こう記されていた。
4月16日(火)17時過ぎ、北校舎にてチャイムが三度鳴るという現象が発生。
通常、17時の一度のみ作動する設定のため、誤作動の可能性を調査中。
同日、図書室当番の生徒が「制服ではない女子生徒に話しかけられた」と証言。
担任教師の確認では該当生徒は存在せず、空耳または幻視の可能性あり。
学校医との面談を実施、異常なし。
教職員会議にて、北校舎の夜間使用を原則禁止と決定。
平成十三年――今からちょうど、十五年前。
今とまったく同じ出来事が、すでに起きていた。
その瞬間、私の脳裏に浮かんだのは、“あの子”の顔だった。
制服じゃなかった。あのリボンの色も、見たことがないカーディガンも。
もしかして、あの子は――
考えがそこで途切れた。背後で、何かが「かたん」と倒れる音がした。
私はびくっと肩を跳ねさせ、振り返った。
図書室の隅。さっきまで整っていた本の山の中に、ひとつ、床に落ちた本がある。
――誰かが、動いている。
私は動けなかった。背筋が凍るという言葉の意味を、初めて実感した。
体中の感覚が、ただ一点――“見てはいけない”という直感に集中する。
でも、音は止まない。ページをめくるような、紙のこすれる音。すぐそこに誰かがいて、何かを探しているような音。
「ねぇ、知ってる?」
その声は、ささやきだった。耳元に近いわけじゃない。でも、頭の中に直接響いた。
「チャイムが三回鳴ったら、そこに“いる”んだって」
「……なにが、“いる”の?」
私は無意識に答えていた。誰に話しかけているのかもわからないのに。
「迎えにくるんだよ」
静かな、少しだけ微笑むような声だった。
振り返れば、また“あの子”が立っていた。けれど今度は、本棚の影の奥、暗がりの中に、はっきりとは見えない輪郭で。
「……私を?」
問いかけると、彼女は首を横に振った。
「ちがう。きみは、“まだ”」
“まだ”という言葉が、心の奥にひっかかった。まるで、私の番が“いずれ”来るかのような響き。
私は恐怖と困惑の中で一歩下がり、すぐに振り返って図書室のドアへと向かった。
ドアは、開いていた。
さっきまで閉じられていた扉が、何事もなかったかのように。
私はもう振り返らず、廊下を駆け抜けた。
そして、校舎の外へ――
北校舎を抜けた先の昇降口は、既に薄暗く、校舎の灯りだけがかろうじて世界の輪郭を保っていた。
私は足音をできるだけ立てないように歩き、靴を履き替える間も惜しむように、そのまま外へ出た。
もうグラウンドには誰もいない。校庭のフェンスの先、校門の外に見える住宅街も、灯りがぽつぽつと灯るばかりで、人の姿はない。
けれど、今の私にはそれが、どこまでも優しく思えた。
遠くから、夜の風が吹き抜けていく。
汗ばんだ制服が冷たくなり、肌に張りついた。
――生きてるんだ。そう思った。
誰もいない公園を通り、団地の角を曲がって、ようやく自分の家の明かりが見えたとき、私はようやく息を吐き出した。
家の玄関を開けると、母の「おかえり」の声が聞こえた。
それは、どんなチャイムの音よりも安心できるものだった。
その夜、私はなかなか眠れなかった。
部屋の灯りを消すのが怖くて、スマホでずっと音楽を流していた。
けれど、夜中の二時を過ぎた頃、通知のない着信音が一度だけ鳴った。
画面には何も表示されていない。発信者も番号もない。ただ、音だけが鳴った。
私は手を伸ばしかけて、やめた。
もしかして、それを取ったら、また“あの子”が現れる気がした。
いや、“あの子”というより、“あれ”としか言いようがないものが――
朝になっても、あの出来事が夢だったとは思えなかった。
私の中ではっきりと形を残していて、それどころか、もっと昔から何かがおかしかったような気さえしてきた。
翌日。
学校では、誰も“あのチャイム”のことを話していなかった。
私は少しだけ安心したけれど、同時に、不自然な気もした。
図書室はいつも通り開いていた。
北校舎は依然として立ち入り禁止区域のまま。けれど、その制限を破っても誰も怒らなかった。まるで、何もなかったように。
放課後、廊下ですれ違った男子が、ぽつりとつぶやいた。
「なあ、昨日のチャイム、三回鳴ったよな?」
私の足が止まる。
「……聞こえたの?」
「うん。でも、誰も言ってないから、気のせいかと思ってた」
彼は首を傾げたあと、苦笑するように続けた。
「なあ、知ってる? あれって、なんかのサインらしいぜ。昔からあるってさ。……“呼ばれたやつ”が行っちまうんだって」
私が何も答えられずにいると、彼は気まずそうに笑いながら去っていった。
――"呼ばれたやつ"。
“まだ”と、あの子は言っていた。
じゃあ、私の番はいつなんだろう。
図書室の窓から、傾いた夕日が差し込んでいた。
西陽の光に染まった床に、いくつもの影がのびている。
その中に――私以外の影が、ひとつ多くあることに気づいたのは、帰る間際だった。
チャイムが、一度、鳴った。
私は、その音を、黙って聞いていた。