8.グッドバイナイストゥーミーチュー
夜が明け、渦を巻いて青空が広がると共に過不足のない街が下に構築される。球の中に閉じ込められていた世界が熱を上げて膨張し、その中核である太陽が完成した街を照らし始める。熱が徐々に底部分で滞留すると、球の形をしていた世界を円錐形へと変えてしまう。街は底に沈殿し、波状に連なる建物が春のふくよかな陽光に包み込まれ、はるか上空を超えた先の、円錐形の頂点部分で側面が重なり合ってできた暗闇が、この世界における歴史の開始地点として振る舞っている。世界はたった今構築された。時間が歴史を遡れと人々の頭上を示している。見上げれば清々しい空が広がり、きっと今日も昨日までと何も変わらない。今日起こったことがまた明日の常識となって、この円錐形は体積を変えないまま密度を高めていく。いつか迎える破裂の日に備え、外部へ向かって微振動を発していた。
朝、男はぼやぼやしている。こみ上げてくる無気力が全身に回って身じろぎするだけのことが億劫に思える。いずれ生活も不可能になる。幻想だけが頼みの綱となって瞼の裏、虹色のカーテンがひらひらしている。
女も男ほどじゃないにしても朝には弱かった。二度寝に耽り、一度目覚めてから三度寝へ移行する間にやっと昼を過ぎていることに気が付いて上体を起こす。実際に何をする訳でもないが、何かをしたい衝動にだけは駆られていた。
円錐形の中腹から底面へ向かって一筋のエネルギーが接近して来ている。過去からいくつもの歴史を踏み越えて、しかし沈殿物に住む人々にそれを感知する能力はない。そこの人々には日常を過ごす能力があるだけだった。その能力を失った者から順に社会から弾かれ、それでやっと外から円錐を眺めることができる眼が手に入る。あの男なら、もうかなり近いのかもしれない。だがまだだった。弾かれてしまうまでにはまだ少し早かった。夕方になると男はやっと身体を起こした。女は歩いて家に帰っている途中だった。
今日がダメだったというより常にダメだという日常の靄と、今すぐ死んでやるというより早く死なないかなというため息の反響とに包まれて、一定のペースを保ち続ける彼女の足取りはどこまでも自動的だった。差し込まれた西日に目を細め、だが意識が垣間見えるのはここまで。うんざりするにも見飽きた帰りの景色に、向こうから歩いて来る一人の男が目に留まった。つまらなそうな顔つき。それを見ると逆に自分を律されるような気持ちになる。男の目は力ないまま、ずっと遠くの方を見つめていた。減衰した気力を何万回と紡ぎながら進むロケット鉛筆のようだった。そして夕暮れの空が、雷鳴もなしに点滅を数度繰り返すと円錐の底、過去からのエネルギーが降り注いで沈殿の街を掠める。一瞬の出来事だった。さっきまでの男の姿が黄色いバイクに置き換わり、エンジンを吹かして女に向かって走り出した。落ち込んでいた女も焦ってよけようとするが、間に合わない。女はバイクの勢いに連れ去られ、その先に待ち構えていた傾斜45度の見えない発射台、黄色いバイクはその女を乗せて宇宙へ飛び出していった。青い星がすでに遠く、その背後に燃え滾る巨大な太陽の真の姿を見た。女は特別な考えもなしに両手でハンドルを握り込むと、バイクの運転を知らないなりに力強く、回転する方向へ両の手首を引き付ける。黄色いバイクはそれに応じて、時速700キロを繰り出して暗い無重力空間を走り明かす。ずっと遠くに新しい光が灯ると、惑星と分かるだけの大きさを持ったあの星から、かすかにだが音楽が聞こえてきた。原始的な太鼓から成るグルーヴ、甘い歌声と弦楽器の中間を射抜く誘惑のメロディ。女は改めてハンドルにしがみつくと、音のする方へ向かいエンジンを轟かせた。