学園編・第六章
「いいか、生徒たち!」
訓練場に響き渡る教師の声が、あらゆる会話をかき消した。俺たちは一列に並び、指示を待つ。
「まずは30分間走る。その後、剣を手に取り、上から下へ振る。そして最後に、いつも通り好きな相手と組んで模擬戦を行う。」
……ああ。ついに、この日が来たのか。俺はゆっくりと空を見上げ、何かしらの神聖なサインを探した。
『精霊たちよ…俺を救ってくれ…』
心の中で静かに祈る。しかし、返事はない。なぜなら、今日はそういう日なのだ。俺の苦しみが避けられない日。模擬戦の時間には、確実に疲れ果てている未来しか見えない。俺の体力は最悪だ。階段を登った後の老人よりもひどいかもしれない。
もし、魔力を回復させる魔法の本でも読んでいれば… いや、授業が終わった後に探しに行くべきか?
「位置につけ!」
俺たちは地面に描かれた白線の上に並んだ。教師の合図とともに――全員が走り出した。そして、当然のことながら……俺は置いていかれた。これは避けようがない。俺はこのクラスで最も運動能力が低い生徒だ。当然、最下位になるのは当たり前のことだろう。
もし魔法が使えたら、どれほど楽になるか。だが、ここは魔法なしで鍛える授業だ。魔力を使えば、身体能力を強化し、筋肉を強くし、持久力を上げることができる…… だが、一つ大きな問題がある。俺は、それができない。
魔力を体内に流せることは知っている。剣士たちはそれを使い、攻撃力や耐久力を向上させている。けれど、俺がいくら試しても、それを発動させることができない。しかも、今のところ剣士たちは誰も魔力を使っていない。全員が、純粋に体を鍛えることを目的に走っている。それは彼らにとっては良いことだろう。だが、俺にとっては――最悪の状況だった。
周囲の生徒がペースを維持して走る中、俺の呼吸はすでに荒く、脚が痛み始めていた。……30分もこれを続けるのか?俺は死ぬかもしれない。
その時、レインが俺の横を通り過ぎていった。表情はまるで何事もないかのように落ち着いている。まるで、走ることが当たり前の行為であるかのように。そのすぐ後ろでは、他の生徒たちが彼女を追いかけるように走っていた。
もう一周目か……くそっ。最低でも、俺は五周走って自己記録を超えなければならない。そう、自分の目標はそれだ。
五周。数字だけ見れば小さく思えるが……今の俺にとっては、途方もない試練のように感じた。
必死に前へ進もうとする中、再びレインの姿が目に入った。
――は!?
たった数秒前に通り過ぎたばかりのはずだろ!? なのに、もう二周目だと!? ……どうして、彼女は全く疲れていないんだ?
周りの生徒たちも、息を切らしながらも安定したペースで走り続けている。それに比べて、俺は……俺はもう、自分の人生すべてを見直し始めていた。
なんでこの学院に入ったんだ? なんでパン屋にでもならなかったんだ? なんで俺はドラゴンの脚を持って生まれてこなかったんだ!?
歯を食いしばり、無理やり足を動かす。俺だけが途中で諦めるわけにはいかない。だが、足は重く、膝は焼けるように痛む。呼吸は荒れ、喉が締めつけられるようだ。一歩ごとにスピードが落ち、今にも地面に倒れ込みそうだった。
そしてその時、周囲の息遣いや足音の中に、ふと頭をよぎる言葉があった。
――火の魔法の本に書かれていた、あの老人の言葉。
「炎は、自らの意志で止まることはない。消える時は、何かに遮られた時だけだ。しかし、燃えるための燃料がある限り――それは燃え続ける。」
……そうだ。体が痛む。息が切れる。だが、まだ動ける。今ここで止まるとしたら、それは俺の体が限界だからではない。俺自身が、諦めると決めた時だけだ。
それだけは――絶対に許さない。俺は歯を食いしばり、前へ進み続けた。
エネルギーがある限り……俺は進み続ける。
…….
「違う! そうじゃない!」
「ちゃんと剣を握れ。」
「やり方が間違ってるぞ。」
教師の言葉が次々と耳に飛び込んでくる。見えない衝撃となって、俺の士気を容赦なく打ち砕いた。
分かってる、分かってる。でも、うまく握れないんだ。
それは単に俺の技術が未熟だからではない。汗が額から滴り落ち、腕は震え、剣は本来の重さ以上に感じられる。体は完全に限界を迎えていた。
呼吸は乱れ、全身が悲鳴を上げている。誰が見ても明らかだった。
俺は――これに向いていない。
剣を振り続けて十数分、俺の腕はすでに言うことを聞かなくなっていた。最初は持ち上げられていた剣が、今では巨大な岩のように重く感じる。
もう一度だけ振ろうとした。しかし――体が拒否した。
足が崩れ、力が抜ける。
そして、避けようもなく……俺は地面に倒れた。
衝撃はそこまで強くなかったが、この状態の俺には、まるで戦い抜いた後に崩れ落ちたような感覚だった。
息は荒れ、汗はシャツをびっしょりと濡らしていた。
俺は震える手で、剣を見つめる。
焼けるように痛む筋肉の感覚とともに。
……これ、普通じゃないよな?
なんで俺だけこんな状態なんだ? 俺はこのクラスにいる資格があるのか?
そんな考えが頭をよぎる。体は重く、気力はすでに底をついていた。
周囲を見渡すと、他の生徒たちも疲れているようだった。しかし、彼らはまだ立っている。剣を振り続けている。
それに比べて、俺は……地面に崩れ落ち、筋肉の悲鳴に耐えながら微動だにできずにいる。
教師が俺をじっと見下ろしていた。その表情は決して好意的なものではなく、まるで「こいつに声をかける価値はあるのか?」と判断しているかのようだった。
「休憩を取れ。最後の演習に備えろ。」
それは提案というより、まるで最後通告のように聞こえた。
俺は何も答えず、ただじっと横になったまま、体を動かせるようになるのを待った。
数分後、震える足を無理やり動かし、どうにか立ち上がる。
まずは水を飲む。冷たい液体が喉を通るたびに、わずかに意識がはっきりする。
だが――はっきりしていることがひとつある。
まだ、地獄は終わっていない。
これから俺は、レインとの模擬戦をしなければならない。
クラスで最強の剣士。
彼女の身体能力は、初日からすでに群を抜いていた。教師ですら「本当にクラスAで合っているのか? Sクラスではないのか?」と疑ったほどだった。
だが、レインは俺たちと同じクラスにいた。そして、それはつまり――模擬戦のたびに、俺の対戦相手になるということだった。
誰もが彼女の強さを知っているのに、誰ひとりとして彼女に挑もうとしない。
周囲の視線から、ある感情が伝わってきた。
――嫉妬。
だが、それでも誰一人として彼女に戦いを挑もうとはしない。
そして、「友人」としての俺に、その役目が回ってくる。
クラスで最弱の俺に。
毎回負ける俺に。
未だに剣の握り方すらまともにできない俺に。
深く息を吐いた。
20分後、模擬戦が始まった。
俺はその場に立ち、戦いの様子を静かに見つめる。剣の扱いに長けた生徒も多く、互いに正確な一撃を繰り出し、計算された防御を見せ、素早い動きで戦っていた。プロの試合というわけではないが、決して見苦しいものではなかった。
素早く終わる試合もあれば、拮抗した戦いもあった。剣を交えるたびに、技術と経験の差が浮き彫りになっていく。
明らかに実力がある者。
戦いながら成長していく者。
そして――俺のような者。
俺が負けることは分かりきっている。
みんな知っている。
教師ですら、結果を疑っていないだろう。
それでも、形式的に過ぎないその声が、訓練場に響いた。
「レイン、アラシ。前へ出て、試合を始めろ。」
……クソッ。
周囲の生徒たちの視線が俺に突き刺さる。
好奇の目。
哀れみの目。
そして、楽しげな目。
……まあ、当然か。
この戦いは、公平な勝負なんかじゃない。ただの"見世物"だ。
結果は誰もが分かっている。
俺は深く息を吐き、余計なことを考えないようにした。
ゆっくりとした、諦めにも似た足取りで、訓練場の中心へ向かう。
目の前には、すでに構えを整えたレインがいた。揺るぎない自信に満ちた姿。静かで、澄み切った表情。まるで、ただの"いつもの訓練"でしかないかのように。
「――始め!」
教師の号令が響いた。
その瞬間、俺の運命は決まった。
レインは、一切の迷いなく踏み込んできた。
まるで、さっきまで一時間も訓練していたことが嘘のような速さで。
――なんでまだそんなに動けるんだ!?
俺は咄嗟に剣を持ち上げ、どうにか最初の一撃を受け止めた。
衝撃が腕全体を貫いた。
骨が軋むような感覚。筋肉が悲鳴を上げる。
思わず、小さく声を漏らしてしまった。
「……チッ…!」
痛みは瞬時に広がり、肩から指先まで鋭い熱が走る。
それでも、俺は剣を離さなかった。
手は震え、足は後退しそうになる。それでも、俺は必死に踏みとどまる。
どれだけ痛かろうと、まだ動ける。
だから、次の一撃を待った。
――そして、それはすぐに飛んできた。
レインは迷いなく動いた。手首を滑らかにひねり、左から斜めに斬りかかる。狙いは俺の脇腹。
反応が遅れた。だが、本能だけで剣を持ち上げ、どうにか防ごうとした。
カンッ!
剣と剣が激しくぶつかり合い、鋭い音が響く。衝撃は凄まじく、俺の握りが緩みかけた。レインの力に押し負け、剣が弾き飛ばされそうになる。それでも、俺は離さなかった。歯を食いしばり、なんとか耐える。
反撃も、回避もできない。ただ――耐えることしかできなかった。
目が滲む。涙なんか、流したくない。でも、痛みが限界を超えている。
一撃ごとに骨に響く衝撃。腕を突き抜ける鋭い痛み。どうやって勝てというんだ? そもそも剣を握ることすらままならないのに。
それでもレインは止まらない。間髪入れずに、今度は胸元へ突きを放ってきた。俺は必死に体を動かし、反応しようとする。後ろに下がる。しかし、もう足が言うことを聞かない。バランスを崩し、嫌な感覚が背筋を走る。
――分かってしまった。
もう、俺の負けだ。
動く間もなく、レインの剣が正確に俺の脇腹を打ち抜いた。鋭く、速く、無駄のない一撃。
衝撃が全身を駆け巡る。痛みが肋骨から背中に広がり、肺から空気が押し出される。息が詰まり、苦しげな喘ぎが漏れた。
足が崩れた。地面が一気に近づく。
必死に踏みとどまろうとするが、もはや体は言うことを聞かなかった。
剣が、俺の手から滑り落ちる。
鈍い音を立てて、地面に転がる。
すべてが遠のいていく。
視界がぼやけ、耳に入る声もどこか遠く響く。誰かが動いているのが見えた。何かを言っている。でも、意味が分からない。
まばたきが重くなる。視界が闇に溶けていく。
そして――すべてが、消えた。