第37話 夢を叶える殺し屋
ルディの屋敷の地下室で行われた誓約の解除。
激痛を越えた激痛が俺の全身を貫く。
全身の骨は折れ、内臓は傷つき、髪は抜け落ち、爪は剥がれ、食いしばった歯はない。
一瞬でも死を望めば、すぐに一線を越せる。
「お、おれは……。いきる……。ゆめを……かなえ……る……のだ」
俺の人生は地獄だった。
三十五年間、何一つとして良いことはない。
あまりに壮絶な人生で、常に死を望んでいた。
だが夢を持ってから、エルザに出会ってから、俺の望みは生きることに変わっていた。
どれだけ時間が経ったのか分からない。
たった一つの夢を願うことで、辛うじて意識を繋ぎ止めていた。
「ぐ……うう……」
だが……。
完全に動けず、床に倒れ、息をすることもできない。
どうやらここまでのようだ。
「しぬ……か」
諦めてはいない。
しかし、現実的に無理だと悟った。
極限まで血と体液が流れ、俺の体は干からびている。
「すまな……い。エ……ルザ」
(ベルベスト……。生きて……。この世の全ての幸運を持った私のベルベスト)
女の声が聞こえたような気がした瞬間、俺の全身が光に包まれ、そのまま意識が途切れた。
――
「こ、ここは?」
厚い絨毯が敷き詰められた部屋の中心で、俺は倒れていた。
「裸?」
自分の体に視線を向けると、何もまとわず裸だった。
「そうだ! 誓約の解除だ!」
俺は全てを思い出した。
ルディに依頼した誓約の解除。
どうやら終わったようだ。
俺は生き残った。
「か、体が! 戻ってる!」
暗殺者ギルドの拷問訓練で傷つけられた傷が消えており、切られた生殖器も戻っていた。
しかも肌質が良く、体が軽い。
「ど、どういうことだ?」
状況が把握できない。
ひとまず俺は裸のまま部屋を出た。
「おお! おおおお! ヴァン様! ヴァン様! 生きて! 生き抜いてくださった! ありがとうございます! ありがとうございます!」
部屋の前で正座していたルディが立ち上がった。
涙を流し俺の両腕を掴む。
どうやら部屋の外でずっと待っていたようだ。
「こ、このお姿! まさに! まさにマリアーナ様のお姿に瓜二つ」
「本当の母親か」
「左様でございます。左様でございます」
ルディは大粒の涙を流している。
そして、用意していたローブを取り出した。
「こちらをどうぞ」
俺はローブの袖に腕を通す。
「このルディ。ヴァン様に命を捧げます」
「いらん」
「いえ、私の人生はヴァン様のものです」
面倒だが、言っても聞かなそうだ。
「分かった。考えておく」
「ありがとうございます」
ルディに案内され、別の部屋に入った。
「ヴァン様、お姿を……」
姿見を用意したルディ。
鏡に映っていたものは、子供の頃の俺だった。
「な! こ、これが俺か?」
「はい。誓約の解除で、時間の返還が行われました。これでもうヴァン様を縛るものは何もございません」
「その結果がこれか?」
「左様でございます。十八年の返還です」
「ということは十七歳か……」
体の傷が一切消え、若返っていた俺の体。
ローブの前を広げると、間違いなく戻っている生殖器。
「これが俺の本来の姿なのか」
俺の隣に立つルディが、深く頭を下げた。
「ヴァン様。恐れ入りますが、ヴァン様は生まれ変わったと言っても過言ではありません。これで暗殺者ギルドから狙われることはございません」
「そうだろうな。別人だ」
「私の全財産をお譲りします。この国で自由を満喫してください」
「エルザを呼べ」
「エルフリーゼですか?」
「そうだ。フェルリートもだ」
「フェルリートとは、エルザのお付きの?」
「そうだ。すぐに呼べ」
「か、かしこまりました」
ルディが部屋を出た。
「自由か……」
ルディの財産なんて不要だ。
俺は人生の全てに決着をつけ、戻った人生を静かに過ごすつもりだった。
だがその前に夢を叶える。
たった一つの俺の夢。
◇◇◇
部屋を出たルディは執事を呼び、要件を伝える。
すぐにエルザとフェルリートがルディの元に駆けつけた。
「ルディ様。お呼びでしょうか?」
「そうじゃ。知人がお主たちに会いたがっての」
「ルディ様の知人の方ですか?」
「う、うむ。応接の間にいらっしゃる。高貴な方じゃ。粗相のないように」
「か、かしこまりました」
応接の間へ移動するエルザとフェルリート。
「失礼します。エルフリーゼと申します」
「フェルリートと申します」
そこに立っていたのは一人の若い男性。
エルザもフェルリートも、その神々しくもある高貴な姿に見惚れていた。
◇◇◇
部屋に入ってきたエルザとフェルリート。
二人とも緊張した面持ちだ。
「来たか。約束を果たせ」
「約束? あの……お会いしたことは……」
「何を言うか。貴様と契約しただろう」
「契約? え? え?」
「そうだ。契約だ」
「も、もしかして、ヴァ、ヴァン?」
「当たり前だ。俺以外に誰がいる」
「ヴァン!」
叫ぶと同時に、エルザが俺に飛びついてきた。
「ヴァン! ヴァン! 本当にヴァンなのね!」
「そうだ」
「もう! 心配してたのよ!」
ルディの話によると一ヶ月もの間、誓約の解除が行われていたそうだ。
「でもどうして? 見た目が……」
「儂が説明する。よろしいですか? ヴァン様」
俺に対しルディが深く一礼した。
「構わん。全て話せ」
ルディが全ての事情を説明した。
声が出ないほど驚く二人。
「エルザ、約束を果たせ」
「や、約束って?」
「お前の料理を食わせろ」
「え?」
「美味い料理だ」
「料理?」
「味覚が戻ったら、お前の料理を食べると決めていた」
「あ、あ……」
「どうした。約束を忘れたのか?」
「も、もちろん覚えてるわよ! 待ってなさい!」
エルザは瞳に涙を溜めながら、フェルリートに視線を向けた。
「うんと美味しい料理を作るんだから! フェルリート、行くわよ!」
「うん!」
走って部屋を出た二人。
部屋の扉を閉めることも忘れている。
「騒々しさは変わらんな」
「も、申し訳ございません」
「構わん。あれがエルザだ」
俺は開いたままの扉を眺めていた。
――
テーブルに並ぶ料理の数々。
「これは二人が作ったのか?」
「そうよ。フェルリートと一緒に作ったのよ」
フェルリートが俺の肩にそっと手を置いた。
「ヴァン。まずはこのスープを飲んで。これはエルザが一人で作ったの。ヴァンが食べる最初の料理はエルザのスープだよ」
「エルザのスープか。分かった」
俺はスプーンを手に取り、スープを口に運んだ。
「あ、熱い!」
「だから、冷まして食べなさいって言ったでしょう?」
「そ、そうか」
拷問訓練で口の中の感覚がなくなっていたが、それも戻っているようだ。
口の中で熱さを感じることに驚きながら、以前エルザに教えてもらったように、息を吹きかけ少し冷ましたスープを口に運ぶ。
「こ、これが……」
自然と涙がこぼれる。
「これが……美味さなのか……」
スプーンの動きが止まらない。
俺はスープを何度も口に運ぶ。
音を立てようが関係ない。
ひたすらスープを飲む。
「ふふふ、汚いわね。ゆっくり食べなさいよ。まだたくさんあるわよ」
「これが……。これが……」
涙が止まらない。
こんな感覚は初めてだ。
「ねえヴァン。美味しいでしょう?」
「わ、分からない。だが、手が止まらないんだ」
「ふふふ。それが美味しいってことよ」
俺はスープを飲み干した。
「これが美味いってことなのか。そうか。これが美味いってことか」
空になった皿を見つめる。
俺は感動していた。
感動という感覚も初めてだが、きっと感動なのだろう。
涙が止まらない。
地獄のような三十五年を生きてきて、初めて経験した美味いという感覚。
そして感動。
「ヴァン! 私のオムレツも食べて欲しい!」
「もちろんだ、フェルリート」
俺はエルザとフェルリートの料理をひたすら食べた。
「これが幸せというやつか。こんなこと……初めてだ」
「ふふふ。本当に良かったわね」
「ヴァン。これからもずっと美味しい料理を食べさせてあげるね」
エルザとフェルリートが俺の両脇で、何度もおかわりをよそってくれた。
俺は一旦手を止め、正面に立つルディの姿を見つめる。
「ルディ。感謝する」
「め、滅相もございません!」
俺の食事を眺めていたルディは、信じられないほど号泣していた。
「ああ、マリアーナ様。マリアーナ様。ベルベスト様のお姿が見えますか。この高貴なお姿が」
両手の指を組み天を仰ぐルディ。
「ふっ。大げさだな。皆で食事をしよう」
俺はエルザ、フェルリート、ルディと本当の意味で初めての食事を楽しんだ。




