バックハグ
カップケーキのモンブランクリームを口元につけたまんま、彼はのんびりとこんなことを言い出した。
「ねえ、あすなろ抱きされたときに、耳元でなんてささやいてほしい?」
私は突然の発言に動揺し、手に持っていたアイスコーヒーをこぼしてしまった。
あすなろ抱きって言葉が古くさいだとか、そんなこといきなり聞かないでくれだとか、いろいろ言いたいことはあったが、口から出そうなそれらをぐっと飲み込む。
私の心境に気づいているか否かは分からないが、なんともいえぬゆっくりとした動きで彼は慌てる。幸い外だったこともあり、こぼれたコーヒーは芝生に隠れ、氷が1つ、日光に当たってキラキラと光っていた。
私は答えずに服のシミを点検しながら木陰のある場所を探す。湖沿いにある一本の樹木のそばにベンチがあったのでそこに腰掛けることにした。淡い水色のロングスカートを整え、ベンチに落ちている小さなゴミを払いのけて座る。彼も慌てて私の隣に座った。
彼は私の目線を合わせようと深く頭を垂れ、ごめんねだとか、大丈夫?だとか反省の色を示しているのだが、実際内心は私の反応を見てほくそ笑んでいるのだろう。
やがて何の返しもせずにアイスコーヒーをすすりだした私の様子に、なんだか泣きそうな大きな瞳を震わせて私を見つめた。
……どうしても私はその表情に弱い。
「服にかかってなかったから今回は許そう。で? なんてささやいて欲しいって話だっけ?」
重い口を開けた瞬間、彼は周りに花が咲いたような明るい笑顔を私に向けた。
「うん!そうそう!!」
彼は背筋をピシンと伸ばし、モンブランを口に運ぶ。子供みたいにニコニコとしていた。
「ほら、後ろから抱きしめられて、耳元でささやかれるとか女の子の夢であり理想なんじゃないの?」
一体どこで得た情報なのだろう。私はつい顔をゆがませてしまった。ついでに『オエー』とわざとらしくつぶやく。
「別に知らないし興味ない」
「そんなこと言って実は憧れてるんでしょ?」
私の気持ちを勝手に決めつけるな。
「ほら例えばさ、喧嘩中にもう知らないっ!! ってぷいって俺の目をそらすじゃん?そのときに俺が後ろから抱きしめてさ、『そんな怒るなって、悪かったな』って頭ぽんぽんってするの、憧れない?」
「オプション1つついてるけど? あと私は憧れない」
どこの少女漫画だろうか。彼が考えたであろう台詞も全然響かない。精一杯のキメ顔で言ったつもりだったのだろうが、少し恥が入って中途半端な出来だった。
「ほかにもなんか付け足す? チューするとか、抱き上げるとか。あ、お尻揉むってオプションつけていい?」
「すべて却下」
「シチュエーションを変えるのもありだよ? 夜の車の中でーっとか、一生懸命にアクセサリー選んでいる時だとか」
結局は自分がしたいだけなのだろう。立派に下心が満載だ。私はまた、軽蔑の意味でため息をついた。
「どうどう?面白そうじゃない?たまには恋人同士みたいなことしてみたいじゃん?」
1人で勝手に盛り上がる彼をよそに、苦くてさっぱりしたコーヒーを飲みながらなんとなく想像してみた。
彼が自然にやるのだったらきっと、自分のドジをやらかしたあとに機嫌取りとして行うのだろう。今彼は私の好みを探ってるかもしれない。
今の関係で十分満足しているから私は変化を求めないが、彼はマンネリを感じているようだ。
ささやかれてみたい言葉。一体何だろう?
「ねー、聞いてる?」
「聞いてない」
ぼーっと広く整えられた広場を眺め、鳥や草木のささやかな音が耳をくすぐる。
ふっと、言葉が出てきた。ただ、それは余りにもシンプルで恥ずかしい言葉なので、少し喉がつかえた。
「……ちゃんときいてるじゃん?」
彼は私の小さな仕草を見逃さない。期待感の持った瞳で私を見つめる。これは逃げられない。
しばらく間を置いてから、私はためらいつつなんとか重い口を開いた。
「……大好きだよ、ずっと一緒にいよう」
彼は味を占めたとばかりに立ち上がって私の後ろに回り、後ろからなでるように腕を回す。
肌が近い。ぬくもりが近い。繊細な力加減で私を離さず、吐息が耳にかかる。
私はくすぐったくてつい眼をつむる。息を吸う音が聞こえたとき、もう来る合図と察した。だが……。
「んんんんんんにゃあ~お」
なんとも気の抜ける猫の鳴き真似が耳に響いた。
「ちょ、ちょっと」
私はつい後ろを振り向くと、少しかがんだ彼と眼が合う。ふんわりとやわらかな笑顔で彼は朗らかにこう言った。
「大好きだよ、ずっと一緒にいよう」
いつもの彼は、私の頭を優しくなで、いつものように目をまっすぐ見た。
「やっぱりこう言うのは面と向かって言わないとね?」
そういって照れるように、また私を抱きしめた。




