空白⑥
柳瀬さんの浮気疑惑を晴らすには、まず安西さんが見た証拠写真について調べる必要がある。本人に問いただすから写真を貸してくれなんて安西さんには言えない、写っていたという女の人をどうやって知ればいいだろう。
事務所のドアが開き大柄の中年男性が入って来た。
「どうも、上川です」
野太い声に皆が目をやった。部長は勢いよく立ち上がり手に貼り付いた書類をデスクに投げ落とした。
「上川さん、お待ちしてました。こんな暑いなかお越しいただいて恐縮です」
上川という人は初めて見た。部長の態度からして得意先の人だ。部長はその人を応接室に案内すると私にお茶を淹れるよう指示した。
給湯室で準備をしていると、後ろから耳障りな声がした。
「あなた、さっきのお客様が誰なのか知ってる?」
横山さんが不機嫌そうな顔でシンクに手を掛けた。
「見かけたのは初めてです」
「あのね、上川さんは特別なお客様なの。麦茶を出すなんて失礼よ」
「そうなんですか、知りませんでした。暑いから麦茶の方がいいかと思って」
「煎茶を出して」
「わかりました」
横山さんは溜め息を漏らした。
「ほんっと常識ないんだから」
知らずに麦茶を出そうとした自分が全く悪くないとは思っていない。それでも捲し立てて言う程の事でもないじゃないかと腹が立つ。
「安西さんそんな事も教えてない訳?引き継ぎもどこまでちゃんとしてるか心配だわ」
「あの、私が勝手にしてる事なので安西さんは悪くありません」
「悪いとか悪くないとかそういう事言ってるんじゃないの」
「・・・」
「私が出しに行くからあなたは戻って。恥ずかしい事して欲しくないの」
「わかりました。お願いします」
給湯室から出ると柳瀬さんが立っていた。冷蔵庫に用があったのか、入るのを留まっていたようだ。柳瀬さんが一瞬目を向けた先には安西さんがいる。給湯室でのやり取りが聞こえていたのかもしれない。
席に戻ると安西さんは手を止めて考え事をしているようだった。経理の山下さんが咳払いをして安西さんは身を縮めた。
「お先に失礼します」
1人、2人と事務所を出ていき安西さんと私、そして部長が残った。柳瀬さんは外回りからまだ戻っていない。
「安西君、ちょっと」
部長が手招きをした。疲れた感じを丸出しにしている。
「はい」
「今日横山君から聞いたけど、引き継ぎがちゃんと出来てないんだって?」
「引き継ぎは順次しています、私に至らない所があるせいでご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありません」
安西さんの背中を見て私は唇を噛んだ。
「この間のミスといい、気を抜いてるとは言わんがもう少し慎重にやってもらわないとな。君は辞めたら終いだが会社はずっと運営していくんだ」
「すみません、退職まで十分に注意します」
横山さんが部長に何と言って報告したか想像できる。
「戻りました~」
柳瀬さんが帰ってきた。部長と安西さんが話しているのを見て場の空気を察したようだ。パソコンに向かうと鞄から書類を出して何かを打ち込み始めた。暫くして給湯室に入り挨拶をして退勤して行った。
部長は安西さんに散々説教をしてやっと帰った。いつもなら早くに帰るくせに。
「橋詰さん、私のせいで色々言われちゃってごめんなさい」
「そんな、むしろ私が原因であんなふうに言われて申し訳ないです」
「ううん、橋詰さんは悪くないよ」
安西さんはふらふらと席に座った。
「今日って冷蔵庫の期限切れ廃棄する日ですよね?私やっておくので安西さん先に帰って下さい」
「ありがとう、でもまだする事があって」
「手伝いましょうか?」
「大したことないの。最近忘れっぽいから小さな事でもメモを取るようにしてて、それを整理するだけなの」
「それで今朝ノート取りにロッカーに戻ったんですね」
安西さんは恥ずかしそうに頷いた。もう他に誰もいないからか、昼間とは違って少し穏やかな表情に見えた。
食品会社であるうちの工場で包装や印字が上手くできなかったものは冷蔵庫に入れられ、従業員が食べて良いようになっている。事務所内でのみ許可があるため時々消費期限切れのものがないかチェックして廃棄するのも事務所の業務のひとつだ。
冷蔵庫を開けると手前に栄養ドリンクの瓶が2つ並んでいた、その横にはコンビニで売ってあるカットされたロールケーキが2つ置いてある。メモが添えてあり、あまり綺麗とは言えない字で“最後まで残っている人へ。差し入れです”と書いてある。
「安西さん!」
私は思わず叫んだ。




