封筒⑧
彼の横には開いたままの傘が転がっている。それ以外に彼の持ち物といえばジーンズのポケットから取り出したキーケースだけだった。何を聞いても答えを持ち合わせていない彼は、私の勧めで神社に来る途中にあった交番を訪ねる事になった。向かう途中、まるで外国人が初めて日本にやってきたときのように辺りを見渡す彼の目を見て“記憶喪失”がリアルさを増した。
交番には2人の警察官がいた。表で傘を畳んでいるとこちらに気付いてドアを開けてくれた。
「どうかしましたか」
「ちょっと相談があって」
彼は開いたままの傘を地面に置いて、表面を手で満遍なく触っている。何をしているのか聞いてみると、どうやってさっきみたいにするのかと言ってきた。どうも傘を畳む方法を聞いているらしい。益々この状況が分からない。傘を代わりに畳んで傘立てに挿した。
「この人、記憶がないみたいなんです」
「記憶がない?」
思った通りの反応だった。もう1人の警察官が私を疑うように見張っている。
「あなたは知り合い?」
「知り合いじゃありません。そこの神社で倒れてるのを見つけて声を掛けたんです、そしたら質問に何も答えられなくて、記憶喪失なんじゃないかって思って…」
警察官は彼に質問した。
「君自身はどうなの?」
「… わからないんです、どうしたらいいのか」
白いシャツの左側は倒れていた時に着いた泥が残っている。
「鞄は持ってなくて、キーケースだけがポケットに入ってたんです」
私は彼にキーケースを取り出すよう目で合図した。
「これだけじゃ身元は分からないけどね」
警察官はキャメル色をした革のキーケースを受け取ると中を確認した。家の鍵、自転車の鍵、ロッカー用に見える鍵が付いている、ヒントになりそうな車の鍵は付いていない。
後ろでデスクに座っている警察官が尋ねた。
「本当に何にも思い出せないの?自分の名前すら?」
「はい」
警察官は怪訝な顔をした。
「う~ん、一旦ここでしばらく様子を見よう。少し休んだら思い出すかもしれない」
「もしすぐに思い出せなかったら、この人はそれから先どうなるんですか?」
「まずは病院だね。色々と検査やカウンセリングを受けてもらって、記憶が戻らないか経過観察するだろうな。
ああ、大丈夫。あなたは帰っても問題ないよ。一応何か聞きたい事がある時には連絡させてもらうから電話番号から教えてくれるかな」
携帯電話の番号と名前、住所を伝えて私は帰る雰囲気となった。話している間、彼は隣の椅子に座ったまま宙を見つめていた。じゃあこれで、と話しかけると悲しい顔をして私を見るので申し訳ない気持ちになった。
「ご協力有難うございました」
警察官は面倒な事に付き合って気の毒に、という顔をして見せた。
「宜しくお願いします」
変な時間を過ごしたと振り返りながら、元は柳瀬さんの浮気疑惑について考えていた事を思い出した。記憶がない彼の今後がどうなるのか、そっちの心配が頭から離れず止まない雨のなか駅へ向かった。




