疑問的quantityと積み重なるamountの和訳はどちらも「量」だけど文脈的には全然違うのです。
浮気した。
彼女にばれた。
正座した。
この情況のミソはやっぱり土下座じゃなくて正座ってことなんだろうな。
正座と土下座、どっちがましなのかってのは意見が分かれるところだと思うけど、個人的には土下座派。
視界がブラックアウトけど、非難と糾弾とその他色々が混ざり過ぎて純度100%の真っ黒になってる視線に刺されずに済むし。真っ黒とブラックなら真っ黒の方がどろどろ感があるのは何でだろうな。
まあ、回りが何にも見えなくて手のひらがフローリングのちょっとねばついたつるつるにはりついててじんわりとかびみたいな臭いがのぼってきちゃってせき込みそうになるのは、精神衛生という理念の点からもやっぱり良くはないしそれこそ19時のCMでエプロンした女優のおばさんが笑顔で土下座なんかしたら、画面の前の家族団らんっていうハートウォーミングな時間はめちゃくちゃ凍りつくだろし。
でも今現在、とっくに空気は氷河期を迎えているしそのわりにマンモスとかサーベルタイガーとかやばい大型動物はこの部屋にはいないからそこは安心。彼女だって、俺が土下座で魅せる、まああえてここは魅せるが正解、この筋肉質なうなじに鉈とか鎌とかクワとか振り下ろそうとはしないだろう。
そういう意味では信頼は万全。まさに保証度100%。
「あのさ……」
「何?」
「させてくれない?」
「?」
「土下座」
泡立てた生クリームに卵黄を少しだけ混ぜたような色のソファーの背もたれにスーツの後ろどころか襟ぐりまでの全部をつけた彼女は右足を左足の上にのせているものだから、太ももの先のすねとか足首とかの肌のスキンケア具合が完璧過ぎてまぶしい。
しかも「?」の時に首ではなく足首だけを曲げるので、この動作が疑問を表すとわかるのは、彼女との3年間の付き合いで俺が獲得した数少ない成果だと断言できる。
恋人の間のコミュニケーションというものは独特なほど良い。
「土下座したらあたしが許すとか?」
小奇麗につんととがった彼女の鼻先は天井に向いて微動だにしない。それは浮気の判明直後から。つるりとした白いおでこもやっぱり上を向いていて日光を受ける花みたいに同心円の照明を受けとめている。つやのある黒の前髪はそのおでこの真ん中から左右の耳に、つまりソファーの背もたれに向かって真っすぐに垂れていて、黒曜石の滝があったらこんな感じだろうな、と俺は正座しながら思う。
ピシッとノリのきいたスーツも胸元のふくらみも素敵だけど、彼女の目だけがとにかく厳しい。見下ろす形で俺を射抜いてくる。
視線は許すという選択肢が彼女の内面どころか地球全体から消失したみたいな勢いであり、俺は、あーとかうーとか自分でもよく分からない声を出すことしかできない。でも、そもそも論として……。
あれは浮気だったのだろうか?
浮気。浮ついた気持ちでやっちゃうこと。それは読んで字がごとく。
そういう意味ではあの時の俺は全く浮ついていなかったし、そもそも何が何だか訳がわからなかった。真夏の真昼の繁華街の信号待ちで、赤から緑への切り替わりを待っていたら震度6クラス超えの大地震が起きてそれは横揺れで体が後方に吹っ飛んで、そんな俺を受け止めたのがドラッグストアの特売のワゴンで背骨が受ける衝撃に悶絶した瞬間にはらはらと柔らかくて薄い雪が降ってくるくらい、訳がわからなかった。
浮気かどうかとてもあいまいなあの行為の相手であるあの人との出会いは、そっくりそのままそんな感じだった。もちろんそんな大地震は直近の日本では起きてないし、だから繁華街に混乱は起きなかったが、俺はパンデミックのゾンビの街にほおりこまれた田舎の中学生よりも、あわててうろたえた。
それは、あの人が横断歩道の向こうに立っているだけで。
けれどこの体は後ろに吹き飛ばず、魂だけが、もし魂のありかが心臓にあるとするならば心臓ごと、えぐり抜かれた。
膝は力を喪ったが、アスファルトのざらざらとした黒に崩れ落ちなかったのは、膝ごと全身が麻痺していたからだと思う。
まぶたもしびれたみたいに動かなくて、しかもまばたきという行為そのものが俺から消失して、代わりに目は、2つの視神経系統とそれらの奥の脳そのものが、赤のままの横断歩道をにこやかな顔をして渡ってくるあの人に向かうような気がした。外国製の有名掃除機の中で起こるサイクロン。音も気流も起きなかったけれど、でも俺を襲った感覚はあれだった。
車の行き来は絶え間なかったのに、ひかれもせずに悠然と渡ってきたあの人は、買って3日の新品だけど安物のTシャツの俺の胸板のすぐ下からこちらを見上げてきて、それからそっと俺にしなだれかかった。
しだれ桜よりも自然なしなだれ方で、桜の花びらとか薄い雪が舞うような、そんな自然で、でも無性に切なくなってしまうような、もたれ方だった。
そしてあの人は俺に体重を感じさせる前に、膝からアスファルトに崩れた。
夏だし晴れていたし日光は痛いくらいに直射だったから、熱中症だったのかもしれない。分からないが、俺は不動大明王像みたいにまったく動けない俺自身を恥じた。
路地の灼熱に崩れたあの人の姿が、ひどく痛々しかったからだ。腕で支えるとか何とかできただろうに。
「大丈夫ですか?」
倒れたままのあの人の前にジーンズの膝をつき、俺はきいた。
こたえる代わりにあの人は俺の手を、杯をいただくみたいに両手で取り、手首の脈に白い歯をたてた。
※※※
「許してもらえるとはさ。思わないけどさ。でもさ」
「でも何?」
「浮気って言えば浮気だけど、ちょっと違うんだよ。献血みたいなもんでさ」
そうだ。あれは献血だ。あの人にあったのは今日で3回目だけど、言葉も交わしていない。
俺はただ畏怖するだけで、あの人は一方的に俺の手首から、血を吸う。
うん。それだけの関係。もちろん渇望はある。とにかくあの人に会いたい。人ごみを歩いている時に特に期待してしまう。現れないかな。天気雨みたいに。それは真夏に雪が舞うみたいな奇跡だけど。
「……楽しんでたくせに」
「え?」
3年付き合った末の浮気にとても怒っている、どす黒い感情を視線にこめてくる、俺の彼女の目の色が変わった。その変化は表情や気配が緊迫したとかそんな生やさしく現実的なそれではなく……。
目の縁が赤くなり、涙ぐむようにも見えた次の瞬間、白目に細かい血が走った。その鮮やかな赤は塗り重ねるみたいに深くなり、深紅は黒になる。
狼男の映画でこんなシーンがあった気がする。吸血鬼かもしれない。
どちらにせよ、こちらに身を乗り出してきた彼女の虹彩に、俺は映画の登場人物、主に犠牲者たち、の気持ちが分かった。シンプルに蛙インフロントオブ蛇である。
なんせ、2つの丸い虹彩の中で、鳥肌みたいなぶつぶつとした泡が立っているのだ。泡は虹色の形をしていて、ビーズクッションを裂いたみたいにぎっしりと、瞳孔の周囲を埋め尽くしてはぷつぷつと揚げ物みたいにやけに気味の良い音を立てる。恐怖に似た快楽。いや、快楽に似た恐怖か。俺は分からない。
「3回会ったわよね」
「うん」
「1回目はあたしも悪いの。あなたをあの子に自慢したのはあたしだし。積み重ねた時間は絆だから。大丈夫だと思ってたの。快楽に魅了されるけれどでも心の芯はあたしにあると。揺るがない。信じてたから許可したのよ」
「何…を……」
「あなたを味見すること。とりこにならなかったら、色々なことに協力してくれるって約束した。あの子は偉い人の娘だから。都合が良かった。でも、まさか、肝心のあなたが……!!!! それも2回もあの子を望んだ……!!!!」
俺の目の前で、彼女の顔面が歪んだ。肉感的で上品な唇の端が避けめくれ巨大な真珠を加工したみたいな綺麗でつるりとした八重歯が現れてとても先がとがっていた。
そのとがりの表面が帯びるてらてらとした潤いが、俺にあの人を連想させた。
そんな俺に彼女は1回震えてから、両手に顔を埋めて、泣き始めた。
「しん、じ、られない」
「……」
嗚咽する彼女に俺は何も言うことができない。出来事全てが俺の許容量を超えている。
そんな俺にかまわずに彼女は嗚咽を続け、それは12歳とかそこらの少女のような幼稚な響きを帯びるようになり、室内に音声は悲哀として充満し、そうして……。
スーツが端から、その輪郭ごとさらさらと、崩れるようにして消えていった。
一緒に使っていたベッドとか、シーツのしわとか。
記念日に2人で選んで買った皿とか。
俺より4cmサイズの小さい黒のパンプスとか。
歯ブラシとかコスメとか化粧台とか毎晩貼っていた白いパックとか。
あらゆるこん跡を残しながら、彼女が消えてから、早3か月。
俺は普段と驚くほど変わらない生活を送っている。バイトに行くし、友人と飲みにもいく。
ダーツを始めたし、実家の親とも電話をする。妹が結婚するらしくて、それにからめてぴんとこない小言を言われる。
過不足のない生活。満足も快楽もない。そもそも俺の中の何かが消えてしまった。消えたものを無理やり言葉にすると、あの人への渇望。何で俺は呪いみたいに気持ちを縛られていたのか。
分からない。だからか、それとも彼女との賭けの約束だったからか、あの人はもう現れない。
正直、あの人と彼女がどれだけ特別で異常な存在だったとしても、俺は興味はない。ただ、彼女に対する、どうしようもない罪悪だけがある。
あの夜、彼女は俺を恐怖させた。特異。怪異。生理的な恐怖。
でも恐怖以上に、俺はあの人を想ってしまった。
積み重ねた時間は絆と、彼女は言った。それはそのとおりだと思う。そして、あの2度とごめんなあの時間、目の前の彼女という恐怖よりも、あの人を想ってしまったというその事実は、裏切り以上の裏切りだったんだろうな。それは、俺たちの絆に対する。
「もし、戻ってきてくれたら、さ」
夜中。照明を切ってからただしく1人分のベッドにもぐって、俺は1人ごとを言う。
「首でも手首でも、噛ませてやるよ」
返事はなく、ただ、ちょっと笑った時の彼女の顔だけが、薄闇をうつす俺の網膜に浮かぶ。