第八話 欲しがってはいけないもの
窓から薄明かりが差し込むとデニスはキングサイズのベットからむくりと身を起こす。ずり落ちかけていたタオルケットを丸めると、サイドテーブルに置かれていた水差しから直接水を飲んでいる。
薄暗い室内。デニスは瞳を凝らして床に転がしたサンダルを探す。
あらぬ方向を向いていたサンダルへと精いっぱいに足を伸ばし、無造作に引っ掛けると、大口を開けてあくびをしながらクローゼットの前へと移動した。寝癖のつかない柔らかな髪を手櫛で整えながら、ジャージ(と言ったら竜でできた素材の運動着はジャージじゃないと友人には怒られた)に着替えて、壁に立てかけてあった魔法剣を掴む。そばに揃えて置いてあった運動靴にするか迷っていたようだが…どうやら履き替えるのが面倒になったようだ。サンダルのまま、室内を横切り、音を立てぬようにドアノブをひねる。
三階建てのデニスの実家。
デニスの部屋は二階。階段の真横で向かいには両親が眠る部屋がある。
長兄夫妻の寝室と子供部屋は三階で、祖父母と次兄夫妻の寝室は一階である。それでもまだ部屋が余っていると言えば、ブライヤーズ家の本邸の大きさが窺えるだろう。
眠りの浅い父親を起こさぬよう、滑るように移動するデニス。猫のような抜き足差し足で階段を降りると、もう目の前は玄関だ。
腰の高さにある透明な鍵魔石に手をかざす。軋むような音がして扉が開いた。
ほんのりと明るくなった空には、雨を含んでいなそうな薄いちぢれ雲が浮かんでいた。この様子だと今日一日晴れそうだ。
今日は王宮で「夏を祝うパーティー」が開かれるのだが、雨だと女性陣の機嫌が悪くなる。空も空気を読んだようだ。
早朝の涼やかな風がデニスの頬を撫でていく。過ごしやすい朝だった。
ブライヤーズ家の本邸は、王宮から移動プレートで十五分ほど走らせた小高い丘の上にある。
白いレンガを積み上げた塀に囲まれた敷地内には当初、とにかく何もなかった。入り口から敷かれた道に沿ってポプラが植えられ、他は芝生が延々と広がっているだけだったそうだ。
変化をもたらしたのは、剣一筋のブライヤーズ家にしては異端とも言える派手好きだった四代前の当主。彼は当時の第二王女と婚姻し王族入りしたのだが、その際に随分とブライヤーズ家の本邸は作り替えられた。
飾り気のない石造の外壁を王宮と同じ白亜のタイルで着飾らせ、無愛想だった鋼板の屋根板を醒めるような青色に塗り替えた。
放し飼いのペガサスと筋肉ダルマが走り回る以外に利用されていなかった庭にも、四代前の趣味なのか、所々に噴水とか、温室とか、プールとか…誰が使うんだ見たいな施設が点在している。
管理が大変だから無くしてしまえばいい気がしないでもないが、騎士団にどっぷりで全然家に寄り付かないマスキラに代わって、嫁いできたフィメルが管理を請け負ってくれているようだ。
デニスは大体池のある場所で鍛錬をする。
木に隠されて本邸からは見えない池の周りには、放し飼いにされたペガサスがたちが水浴びをしていた。
おはよう、とばかりに魔素を瞬かせてくるペガサスたちにデニスが口元を緩めているとーーー頭上から燃え上がりそうな赤い魔力が降ってきて、デニスは後ろに飛び退っている。
「びっくりした…赤飛竜、また来てんのか?」
呆れと非難を含んだ声色で炎の発生源を見上げると、楽しそうに足をばたつかせる赤飛竜がいた。
この赤飛竜は国王ジョシュアのペットだ。
ライラと一緒になって遊んでいるうちに、なぜだか知らないがデニスになついてブライヤーズ家によく遊びに来ている。
デニスに遊んで欲しいのか、じゃれつくみたいに突進してくる赤飛竜をデニスは避けたり、反撃したり、どうにか受け止めたり…気を抜くと致命傷を負いそうなやりとりなのだが、ライラのお気に入りである飛竜をデニスが邪険にするはずがない。自分の髪の毛が多少燃えようが、腕が熱で赤くなろうが、魔法剣を一切抜かずに素手で相手をしてやっているあたり愛情が伺える。
興が乗ってきたらしい赤飛竜が一際大きな魔力球を練り上げていた時ーーー軽やかな足音を拾ったデニスの右耳がピクリと動いた。腰に下げっぱなしだった魔法剣に手をかけるデニス。
風を吹き上げながら飛んできた赤魔力の塊を抜刀と共に一閃。
不満げに鼻を鳴らして近寄ってきた赤飛竜の首元を「時間切れだわ、またな」と優しく叩いている。
遠くで小枝を折るような音が聞こえ、赤飛竜も近寄ってくる者の正体に気がついた様子。
仕方ないわねと言わんばかりに首を振る仕草は人間のよう。
聞き分けよく飛び立っていった赤飛竜に代わり、弾むような足音は徐々に大きくなった。首にかけたタオルで汗を拭うデニスの横で、ペガサスたちも水浴びをやめて茂みを見ている。
青緑の草陰からひょっこりと赤い頭が顔を出した。
マシュマロみたいに柔らかそうな頬を真っ赤に染め上げた五歳の子供。
デニスの甥っ子に当たるトビーだ。長兄の第一子である彼は、デニスを呼びにこの場所まで走ってきたらしい。
「デニスくんーーー!ごはんだよ!」
勢いよく走り込んできた甥っ子の腰を掴んでひょいと持ち上げてやれば、急に高くなった視界に甥っ子は歓声をあげる。
デニスの肩の上で前後に体を揺らしながら、デニスくん、デニスくん!と名前を連呼してくる小さなモンスター。デニスは堪えきれずに笑ってしまう。
「トビー、落っこちるから暴れんな。あと、俺のことはおじさんって呼べよ。デニスくんって…友達じゃねえんだから」
デニスはいつもこれを言ってるのだが、トビーに言わせると、幼稚舎のみーちゃんもちいちゃんもデニスのことをおじさんと呼ぶと怒るらしい。
「デニスくんはかっこいいからおじさんじゃないんだって、トビーにはよくわかんないけど」
よくわかんないのかよ、とデニスが目を細めるとトビーも輝かんばかりの笑顔になった。
「みんなでデニスくんと結婚しよって言ってるの」
「いや、それはダメだろ。なんでそうなんだよ」
トビーはブライヤーズ家の直系なので、確実にマスキラ化する。
「初恋の相手」によって決まるはずの性分化先が、ブライヤーズ家の呪いのせいでマスキラ一択であるこの甥っ子の将来が心配になった。
叔父と結婚したいとか笑顔で言うんじゃない、俺が兄に怒られるわ。
本邸に戻るとバターを溶かしたような甘い匂いがしていた。
頭にしがみついたままのトビーをくっつけたまま、デニスは一階の奥にあるキッチンへと向かう。
広々とした厨房では、デニスの母親と兄たちの嫁二人が仲良く肩を並べていた。
おしゃべりしながらも狐色のパンケーキを量産しているトビーの母親…オーガスタにデニスは近寄っていく。
「オーガスタさん、トビーに危ないから来んなって言っておいてよ、さっきなんて飛竜が来てたし」
デニスの猫っ毛を鷲掴みにしたままのトビーをデニスが困ったように指さす。
名前を呼ばれたオーガスタは、フライパンから目を離さずに言った。
「竜が来ようがデニスくんならトビーに怪我させないでしょ?…あたしが言っても聞かないのよ。大好きなデニスくんがたまに帰ってくるのをいっつも心待ちにしてんの。相手してやって」
トビーが母親の言葉に目を輝かせた。
デニスはずり落ちそうになった甥っ子を肩から下ろし、右手で抱え直す。
「…俺はいいけど、ジュリアンが悲しまねえ?」
今もデニスは気づいている。キッチンの隙間からうらめしげにデニスを睨んでいる長兄、ジュリアンの存在に。
…陛下にしょっちゅう呼び出されるデニスに代わって、三番隊の隊長として山ほどある仕事を片付けているジュリアンにデニスは頭が上がらない。
だからトビーよ、父親にもうちょっと懐いてやれ。名前を呼ばれて無視するんじゃなくてさ。
「トビー…デニスのこと好きすぎないか?パパよりもぶっちゃけ懐いてるよね?泣いていい?」
キッチンを出てダイニングへと向かう三人。
デニスの横には嘘泣きをするジュリアン。ひっつき虫のトビー。
…なんでこんなに懐かれたのかはデニスにはわからない。デニスは友人宅に押しかけたり、ちょっと子供の前で言うのは憚られることをしたりーーーしょっちゅう遊び歩いているので本邸に帰るのは週に半分くらいなのだが。
デニスは十人くらい座れる大きなテーブルをぐるりと周り、部屋の隅に置かれているクリーム色の椅子を引き寄せた。踏み台付きのこの椅子はトビー用だ。
降りたくないとデニスの毛根を殺さんばかりの勢いでしがみついてくるトビーをなんとか引き剥がして子供用の椅子に座らせたデニス。ポケットに手を突っ込みーーー
「ーーーあ、魔力通話部屋に置きっぱだわ」
踵を返したデニスをトビーの小さな手が捕まえた。
「デニスくんはここに座ってて!」
「絶対僕の隣だよ?」と自分の横の席を指さす。
念推した後でトビーが「僕がデニスくんの魔力通話とってくる!」と駆け出してしまった。…ブライヤーズ家の遺伝子をついでいるだけあって、五歳とは思えない速さだ。
五歳のトビーの方が紬より身体強化がうまそうだと思ったのは秘密だ。
「お、ま、え…まじで、トビーのことたぶらかさないでね?え、おねがいだよ?」
唇を戦慄かせるジュリアンには悪いが、デニスはこの件に関しては無罪だ。家にはできるだけ寄り付かないようにしているくらいで。
「だいたい、ブライヤーズ家の呪いからしてマスキラの俺に惚れるとかねえだろ」
デニスのつぶやきは飛び込んできたトビーのはしゃぎ声でかき消された。
家の中を全力疾走したらしいトビー。白い頬を桃色に染め、褒めてと言わんばかりに駆け寄ってくる。
自ら志願しただけあり、お遣いも完璧だった。
デニスの黒い鞄を笑顔で差し出してきたので、頭をわしゃわしゃとなぜてやった。
「ジュリアーン、ブランドン起きてる?」
キッチンから次兄の嫁の声がした。…言われてみれば、ブランドンの姿がない。
「あいつは起きる気がねえだろ…」
首をふりながらジュリアンが次兄を起こしにいった。
ーーーこの時にはトビーは知らん顔だった。デニスの魔力通話を興味津々で覗き込んでいる。父親には目もくれないが…反抗期には早くないか?
「デニスくん。このお姉さん誰?」
デニスの待ち受けは変顔をした三人の写真。高等部の入学時に撮影したものだった。
デニスが真ん中で、右隣が口を窄めたミシェーラ。彼女はよく遊びにくるので、トビーも見覚えがあったのだろう。一番左に映る銀髪の人物を指さしてトビーが首を傾げる。
デニスはメッセージボックスをタップしながら「俺の好きな人」と答えている。
デニスくんの好きな人!?と目を輝かせたトビー。
「ぼく見た事ないね」
写真に釘付けのトビーにデニスが苦笑いした。
「ちょっとイメチェンしちゃったからね。トビーも会ったことはあるよ」
彼女は公的には亡くなったことになっているのだ。デニスの態度から勘の良い数名は気が付いているとはいえ…五歳の子供に黒竜の儀のトップシークレットを告げるわけにはいかない。
あと十年ほどしたらブライヤーズ家の子供として知ることにはなるだろうが…。
「会ったことあるの?騎士団の人?」
トビーの疑問にデニスは目を細めて「今は秘密」と目を細めた。
トビーは膨れっ面だが、デニスは気にせずメッセージを打ち返している。
「デニスくんは今日はおうちにいる?」
トビーの問いかけにデニスは画面から顔を上げて眉を寄せる。
「今日は仕事…というか、パーティーに出ないといけないの」
デニスの表情がいまいち晴れないことに気づいたトビー。
「行きたくないの?」と心配そうに聞いてくる。
「行きたくない…トビー代わりに行って…」
デニスが項垂れていると、トビーが小さな手で頭を撫でてくれた。
デニスが甥っ子に癒されていると、ちょうどダイニングに兄たちが入ってきた。
「お前、なんでトビーに慰められてるんだ」
普通逆だろと笑うジュリアン。ジュリアンに首根っこを掴まれている次兄のブランドンはまだ寝巻きだし、髪も跳ねているし、なんだったら夢の中だ。
寝ぼけているくせにデニスに覆い被さってくる兄を引っ張って椅子に座らせつつ…デニスは斜め前の椅子を引くジュリアン愚痴をこぼす。
「ジュリアンが紬姫のエスコートを請け負ってくれれば、俺は騎士団として行けたのに」
「紬様自ら『知ってる人の方がいい』ってお前を指名したんだろ?諦めて行け。そして普段の行いを存分に責められてこい」
デニスは憂鬱そうに頬杖をついた。
今更陰口やら悪口やらを言われるのは構わない。城の重鎮には心底嫌われてるし、文官からも女絡みで恨みを勝っている自信はある。兄の言う通り身から出た錆だ。
ただ、最近明るくなってきた紬に大人の澱んだ世界を見せつけるようで、なんとか回避したかっただけなのだ。
「なになに?デニスはブルーなの?」
キッチンからトングを持ったデニスの母親が顔を出した。
五十を過ぎても社交界で薔薇に例えられる彼女は、艶やかな緋色の髪を後ろで緩く縛り、薄く化粧をしている。
「おかあさま、後ろ通りますね〜」
ひょいと傍によけたデニスの母親の横を兄嫁たちが通る。
ぐらぐらと揺れるほどに積み上げらえたパンケーキ。
こんがりと焼き目のついたウインナーの大皿。
トマトときゅうりにモッツァレラチーズを添え、オリーブオイルを回しかけたサラダ。
ドンっと重みのある音を立てて置かれた大皿を見て、朝から大変だっただろうなあとデニスが感心していると、とりわけ用の小ぶりな皿を持った母親が近寄ってきた。
椅子を引いてやろうかと手を伸ばすも、どうやらそうではないらしい。
いたずらっ子のように口元を上げた彼女が、これでもかというほどにウインナーやらパンケーキやらを積み上げている。
山盛りになった皿が自分の前に置かれたことで、デニスが怪訝な顔になった。
「母様?ーーーこれはトビーの分?」
トビーの方へと皿を押し出そうとしたデニスに母親はピシャリと言いつけた。
「デニスのぶんよ。ーーー兄さんたちに遠慮して家には帰ってこない、食事にも満足に手をつけない可愛い末っ子のために私が取り分けました。…騎士は身体が資本でしょう。きちんと食べないでどうします」
見透かすような強い瞳にデニスはたじろぐ。
聡い母親にデニスが家を開けがちな原因はバレている…とは思っていたが、口にされたのは始めてだった。
完敗ですとばかりに肩をすくめたデニスをトビーが心配そうに覗きこんだ。
ーーートビーよ、優しさは嬉しいが父親の心配もしてやってくれ。ずっと捨て犬みたいな顔でトビーを見てるぞ。
料理が揃い、示し合わせたようなタイミングで奥の洗面所の扉が開く。
一部の隙もなく騎士団服を着込んだ父親が姿を見せ、一番奥の席についた。水を注いだり、調味料を配ったりと忙しそうにしていた女性陣もようやく腰を落ち着ける。
皆がデニスの父親を仰ぎ見た。
家長が食事を挨拶をするのがブライヤーズ家の決まりだった。
「始祖竜様のお恵みに感謝して、全ての命をいただきます」
「「「「「「「いただきます」」」」」」
口を開く者はいない。食器の小さな接触音だけがダイニングには響く。
トビーでさえもきちんとカトラリーを使ってウインナーを切り分けているのだからブライヤーズ家のマナー教育は相当なものだ。
中央の大皿に皆がトングを伸ばす中…母親の特盛愛情プレートに文句をつけることもなく、デニスは機械のようにナイフとフォークを動かしている。
みるみる減っていくウインナーの山を感心したようにジュリアンが眺め、ブランドンは眠そうに目を擦りながらゆったりと口を動かしている。
ーーーデニスは実家を一度出た身だが、10キロも痩せたせいで、最近になって母親命令で独身寮から呼び戻されたのだ。
成人したマスキラに何をと思わなくもないが、元騎士団長である父親にまで「トップが体調管理をおろそかにしてどうする…部屋は余ってるぞ」と言われてしまえば選択肢などないようなものだっだ。
魔法学園は全寮制だっだこともあり、実家暮らしなど7、8年ぶりだったのだが…戻ってみれば、案外居心地はよかった。
甥っ子は可愛いし、兄の嫁たちもデニスを実の弟のように接してくれる。
それでも家に帰るのが気まずいなんて完全なるデニスのわがままだろう。
自分の手にできない幸せから目を逸らすなんて…。
ーーー騎士団長にまでしてもらって、大好きな人の側にいられて、やんちゃしても受け入れてくれる家族がいる。これ以上、何を望む?
デニスが最後のパンケーキを口に入れて、カトラリーを置いた。
ナプキンで口元を拭いながら周囲を見回すと、両親とジュリアン夫婦はすでに食事を終えていたようで静かに笑い合っている。トビーは未だにウインナーと格闘中のようだ。肉汁が溢れ出るほどにジューシーだったので皿の上で滑るのだろう。
ブランドンの嫁は、のんびりと咀嚼を続けるブランドンの皿へと残っていたサラダとウインナーを取り分けている。…たしかにまだ食べそうだな。遅いけど量は食うし。
デニスの母親がそろそろコーヒーでも入れようかと立ち上がった時ーーー机に置かれていたデニスの魔力通話が一瞬震えた。
皆の視線が集まる。
デニスはすかさず画面に触れ、表示された名前を見て苦笑。
半分ほど残っていたグラスの水を煽ると…
「ごちそうさまでした。母様ごめん、俺コーヒー飲めないや」
慌ただしく立ち上がった弟を次兄のブランドンが不思議そうに見上げた。
「ーーーデニスは今日シフトないよね。パーティーは夕方からだし」
デニスは「パーティーはそうだよ」と頷いた。
「ジョシュア様に呼び出された。黒竜団と騎士団で今度合同訓練をするからその打ち合わせだって」
「随分と朝が早いな?」と首を傾げつつも長兄は一応納得の表情になった。ブランドンだけが「デニスっていつ休んでるの」といかにも不満げだ。
「夜は休んでるよ?ーーーじゃあ、父様、兄さん会場でね」
デニスは今日のパーティーの出席者なので警備が担当できない。
代わりに騎士団の管理は一番隊の隊長である父親に一任してあった。
手を振る女性陣に会釈しながら、ダイニングからあっという間にいなくなったデニス。
残されたブライヤーズ家の面々は顔を見合わせた。
「夜は休んでるって…え?」ーーージュリアンの言葉に、八つ当たりするみたいにウインナーを刺したブランドンが吐き捨てる。
「デニスは行動基準が陛下だから。ーーー陛下は睡眠を必要とされてないって聞くし、そこと比べてるんだと思う」
再びウインナーを串刺しにして「食べ物にあたるな」と父親から注意されるブランドン。
「ワーカーホリックって感じね、デニスくんって」
オーガスタの言葉にデニスの母親は「ブライヤーズ家の男はみんなそうよ」と非難するように旦那を見た。
視線を受けたデニスの父親は「騎士団長は訓練以外の雑用も多いから」と自分の時を思い出すように顎を撫でる。
「特にデニスは何でもこなせてしまうから陛下も頼るんだろうなあ。ーーー流石にプロイセン王からも頼られてると聞いた時は我が息子ながら耳を疑ったが…」
重めかしい低音に反して目を細める彼は随分と誇らしげだ。末息子の活躍が嬉しくて仕方ない様子。
トビーだけが会話に加わらず、寂しそうにデニスのいなくなった扉を眺めていた。
私服へと着替え、ブライヤーズ邸からプレートに乗ってジョシュアが待つケンジントン宮殿へと向かうデニス。
顔パスで裏門を通過すると、防御の魔法陣の影響でぐんと魔力の密度が上がる。
デニスが若干プレートの速度を緩めると、黒のお仕着せに身を包んだ使用人が忙しなく行き来しているのが目に留まった。
頭上を追加するデニスに気付いた使用人たちが会釈をしてくれるが、皆が書類を持っていたり、荷物を運んでいたりと余裕のなさそうな顔をしている。
王宮では年中パーティーをやっているが、中でも今日の「夏を祝うパーティー」は非常に大規模なものに分類される。国王陛下夫妻や他国の留学生も出席するしテレビ中継なんかも予定されているのだ。
騎士団の担当は警備だけなのでデニスは当日のシフトを組めばそれ以上の役目はないが、会場の準備する文官や使用人らは蜂の巣をつついたような忙しさになる。
顔見知りに呼び止められたりしながら、のんびりと運転したせいかーーー到着が少し遅かったらしい。
ケンジントン宮殿の前に腕を組んだジョシュアが立っていた。
デニスは慌ててプレートを降りる。
ジョシュアの側近たちがすかさず集まってきてデニスのプレートを預かってくれた。
「ジョシュア様、遅くなりましたーーーなんで外にいるんです?」
無表情のジョシュアだが、付き合いが長くなってきたデニスは別に怒っている訳ではないとわかっているので平然と話しかけている。
ちょっと陛下は表情筋が休みがちなのだ。
根は非常に大らかな人なので、少し待たされたくらいでは頓着しないのである。
青空の下、ジョシュアは長いまつ毛を伏せた。
ひりつく夏の日差しの元でも汗ひとつかかかない彼はーーー
「宮殿内の居心地が悪かった」
ーーーと3ミリくらい口を歪ませた。
デニスが怪訝な顔になると、ジョシュアは少しだけ声を尖らせて言う。
「ライラを着飾らせるためにたくさん使用人が入るだろう?ーーー私の魔力に怯えるのだ。かわいそうになって出てきてしまった」
デニスは真面目な顔で頷こうとしたがーーーついに我慢できずに吹き出した。
…変だと思ったのだ。黒竜団との打ち合わせなんてほぼ済んでいる。こんなバタバタとした日に呼び出すような用事ではない。
一人じゃ寂しいから来てくれってところか?…国王なんだから堂々としてればいいものを。
ジョシュアは自分の魔力の強さを誰よりも理解している。
腕には魔力を封じる腕輪を三つもつけているし、本人もかなり気を遣って魔力を抑え込んでいるはずだ。
それでも、人間の本能というやつだろうか。
ジョシュアの前に立った人間は、自然と膝をついてしまう。
デニスはだいぶ慣れてきたがーーー正直飛竜よりも強い圧を感じることは否定できない。騎士団長であるデニスでさえそうなのだから、魔法使いとしては下っ端もいいところの使用人など震えて動けなくなってしまう者も出るのだろう。
デニスがさてどうしようかと腕を組んでいると、ジョシュアが「行きたいところがあるんだ」と言い出した。
珍しいと思ってデニスが黙っていると、
「下町のちゅろすがライラは食べたいらしい。ーーーあの子はパーティーが嫌いだろう?朝から元気がないから買ってきてやろうと思うんだ」
「だからついてこい」と言われてデニスは半笑いになった。
「街へのお供なんて側近の方でいいじゃないですか。なんで俺なんですか」
なんでお前の嫁のプレゼント選びに、よりにもよってデニスを呼ぶんだと。
声にしなくてもデニスの瞳は雄弁だっただろうにーーージョシュアは平然と「ライラのことを一番よく知ってるのはデニスだろう?」などとうそぶく。
現夫に言われても嫌味にしか聞こえない。
不貞腐れるデニスだが、お構いなしにデニスの腕を引きずるジョシュア。
助け舟を出したのはジョシュアの古くからの使用人であるオズモンドだ。
「デニス様、付き合ってあげてください…学生時代に食べた店がいいけど名前を忘れたと言われてしまって我々ではお手上げなのです」
デニスはそこまで言われてーーー何か思い出したらしい。
泣き笑いのような表情になった。
「ずっりいな〜あいつは絶対そう言えば俺が断れないってわかってんだろ」
彼女がまだ銀色の髪をしていた頃。
病弱だった彼女は薬ばっかり飲んでしょっちゅう食事を残していた。
痩せていく彼女が心配だったデニスは色んなものを買い与えていた。
食べやすそうなゼリーだとか。見た目の可愛らしいケーキだとか。
でも、やっぱりデニスの好きなその人は変わり者で。
普通のフィメルやニュートが好みそうなキラキラとしたものよりもーーー真っ赤に染まった激辛のチュロスがえらくお気に召したようなのだ。
食べると口の中が火傷したみたいに熱くなる。
だからデニスは冗談で買ってきたのにーーーライラがあんまり気にいるからデニスは困り果てた。
多分、ライラはデニスが辛いものが好きなんだって勘違いしていた。
見当違いもいいところだったけどーーー半分食べる?って聞かれるのが好きで何度も買ってしまったっけ。
「『一本はいらないから半分よこせ』だそうだ。ーーー私もパーシヴァルとわけたいから二本買おう」
相変わらずの弟バカっぷりを発揮するジョシュアにデニスは苦笑い。
ライラ離れできないデニスが言えたことではないがーーーパーシヴァルはもうすぐ既婚者になるのに。
王城の黒竜門を抜けるとすぐに中央広場に出る。
二人とも私服だったのだが、オーラが違う。一応の変装のためにつけていたサングラスなど無意味だったようで「国王陛下」だとか「騎士団長」と言った囁き声が耳に入ってくる。
デニスは周囲の反応など意に介さず、香ばしい匂いを発している屋台の一つにジョシュアを連れて行った。
顔見知りの店主にデニスが片手をあげた。
店主は王宮前で店を出して長いらしい。ジョシュアを見ても大らかに「あんなに小さかったのに、ご立派になられましたねぇ」と笑っていた。
「デニス、いつものでいいか?」
「おう、二個ちょうだい」
激辛パウダーおまけしてやるよ、などと言ってくる店主を必死に止めた。
ジョシュアが「おまけ…?」と食いついてしまったので話がややこしくなった。どう見ても甘党なパーシヴァルに何を食べさせようとするんだと言い聞かせる。ジョシュアはおまけに心惹かれていそうだったが、普通で十分刺激的なのでおまけは余計だ。劇物になってしまう。
「400ポンな」
デニスが財布を出そうとすると、意外にもジョシュアが四枚の硬貨をとりだし、ぴったりと代金を支払っていた。
デニスが驚いたようにチュロスを受け取るジョシュアを見つめている。
「ジョシュア様、小銭とか使えるんですね…」
正直、カードとか魔石とか出しちゃうかと思ってましたとデニス。
ジョシュアは無言でデニスの頭を叩いた。
「私は留学もしていた、一般常識くらいある」
帰りはジョシュアの亜空間魔法でケンジントン宮殿まで飛んだ。
チュロスが冷めないようにだとのことだ。非常に一般的な常識ある行動だと思った。
…行き歩いたのはライラが着替え終わるまでの時間稼ぎのつもりだったらしい。
デニスは激辛チュロスに目を輝かせたライラの顔を一眼見ただけで騎士団寮へと引き返さなければいけなかった。
気づけば昼を回っていたのだ。
出席者として身支度を整え、紬を迎えに行かなければいけない。
「会場でね」
笑顔で手を振る王族の面々にデニスは静かに会釈した。
ーーー学生時代に一緒に笑い合った彼ら。気づけば、友人たちはみんな王族だ。
いつの間にか距離が空いてしまったような気がして、デニスはふるりと首を振った。
何のために騎士団長になった?彼らに並び立つ権利を手に入れるためだろう。