第十九話 だいじょうぶ、俺は元々そんなにきれいじゃない
※微グロ注意
赤魔力が全身をみなぎって五感が研ぎ澄まされると、宮殿内にが邪魔者がいるのがわかった。いや、ジョシュア様が近くにいるのはわかってたけどね?あの人の魔力は飛竜より存在感がうるさいから。
「ところで、王妃さまーーー招待客を増やしたのですか?」
ライラに探りを入れるとーーー彼女は目元をきゅっと下げて、酷薄な笑みを浮かべた。
「お隣のファビュラスなお客様はねーーー招待状を持参して来たの。よりによって、今日、この時間がいいなんて、とても良い趣味だと思わない?さすが、我が国の伝統を重んじる保守派の方々だわ」
はーい、整理しよう。
ファビュラスはワーストで間違いないな。最悪なタイミングで招かれざる客が来たらしい。招待状を持参してきた、というのも嫌味増し増し表現だろうな。この宮殿に入っていいのは王妃が自ら招いた人間のみなはずだ。
保守派…最近名前をよく聞くし、陛下夫妻の周りをやたらとかぎまわっている気がする。
ジョシュア様はハエを見た時とおんなじような反応だったけどーーーライラは苦手そうなんだよな。
ライラの長いまつ毛が伏せられる。
思わず「追い払って来ましょうか?」って申し出たら、思いのほか強い口調で言われた。
「絶対にダメです。あなたはわたくしの騎士でしょう。ここにいなさい」
…「わたくしの騎士」に浮かれたいけど、違和感の方が気になった。
まるで、俺を保守派のやつに会わせたくない、みたいな。
まさか、保守派って、あいつじゃないだろうな。
ライラのカップに足された紅茶が冷め切ってしまう時間が過ぎてもジョシュア様が戻ってこない。
面会開始時間の5分前になった。
窓からかすかに歓声が聞こえた。
あの夫婦が来たらしい、流石の人気っぷりである。
一応この建物防音なのに、入り口からここまで聞こえるって…。
外の野次馬はどんな規模になってるんだ…?
婚約の発表後、生きる宝石を見るべく世界中のメディアが押し寄せたせいで、三カ国語で計十回の会見を開いた二人はどうやらお堅い宮廷人も骨抜きにしてしまうらしい。
頬を染めた使用人たちを引き連れて、入ってきたパーシヴァル様とミシェーラちゃん。
腕を組んで微笑み合う二人は童話の中から飛び出してきたくらいにお似合いだがーーー大体ああいう顔をしているときは、ロクでもないことを考えている。
ライラが立ち上がって二人を出迎える。
お、珍しくパーシヴァル様がハグをした。耳元に顔を寄せて何事か囁く。
ライラが硬直した。
ミシェーラちゃんが一瞬俺の方をみて、申し訳なさそうな顔をした。
んーーー。聴覚強化、得意なんだよなぁ。
「レイシスト」「デニス」「客人と護衛どっちを取るのか」
十分すぎるほどよく聞こえた。
ーーーどうやら、この会談は俺にとっても戦いになるようだ。
◯
「 」
表情が抜け落ちた顔で告げられた命令。
そんな顔をしないで。
俺も悲しいけどさ、今日のこと結構楽しみにしてたし。
「わたしも久々にお話ししたいと思っていたところなのです。ーーー王族の皆様が指名されていなくて幸いでしたね。和国を軽んじているととられたら大変だ」
ワクワクを顔に出せ。
大丈夫、俺のマジックイングリッシュは芝居がかってるらしいから。
俺の演技にライラがちょっと笑った。
雪の中でたんぽぽを見つけたみたい。
よかった、今日のことずっと楽しみにしてたでしょ?
仕上げに跪いて手の甲にキスをした。
ウインクもしちゃうぞ。
「主命とあらば喜んでーーーユアマジェスティ」
ライラの表情が「王妃」に戻ったところで、ちょうど入り口のドアがノックされた。
「お入りになって」
ライラの声で扉が開かれる。
紬様はウェイティングルームに待ち受ける豪華な面々を見てーーー卒倒しそうな顔になった。というか、ちょっとかしいだところを使用人に支えられてた。
おいおい、大丈夫か?
まだ、ラスボスきてないぞ?
なんとか持ち直した紬様は長い裾を持った侍女たちとともにしずしずとライラ、パーシヴァル様、ミシェーラちゃんが腰掛けているソファの横へ進み出た。
ライラの後ろ立っていた俺と目が合う。
一瞬、太陽光をみたときのように顔をしかめられた。
相変わらずあたりが強いなと思いつつも、がんばれという意味を込めて目を細めたのにーーー余計に青ざめたのはなんでだ?
和国の使用人の手で紬様の前に変わった模様のマットが敷かれた。
紬様と後ろに扇形に控える総勢十名が這いつくばった。
対等ではないのだ。
竜大国の地位は高い。たとえ王族同士であろうとも、笑い合って握手をすることすら許されていない。
「この度はお招きいただきありがとうございます。ーーー」
何十回も練習したんだろうなとわかる流れるような挨拶の文言。紬様のマジックイングリッシュは想像以上にネイティブだった。ちょっと安心する。招かれざる客に言語面でいちゃもんをつけられることはなさそうだ。
しかし、当然のように彼女の表情は隠され、後頭部しか見えない。
へりくだった態度、挨拶の文言にライラの唇がむぐむぐと動く。
…そうだよな、打ち合わせではもっとフランクに対応しようって決めてたもんな。
いつなんどきジョシュア様と招かれざる客が戻ってくるかわからなくて。
気安いことが言えないのだ。
だって、この態度が紬様を守ることに繋がるのだから。
馬鹿げていると思う。でも、保守派の連中は和国の人間とブリテンの王族が対等に話していたらーーーきっと怒り狂う。
紬様がいるこの場で罵詈雑言を撒き散らすだろう。
人種差別撤廃条約が出されて久しい。でも、建て前は必ずしも真実ではない。
肌の色や瞳の色で、他者を見下す人間は確かに存在する。
挨拶が終わる。
ライラが薔薇のように微笑んで、紬様が見惚れていた。
わかる、今のはやばかった。
プリザーブドフラワーみたいな、生き物から綺麗なとこだけを抜き取ってラメをはたいたみたいな可憐さがあった。
「私はライラです。見ての通り、王妃で黒竜ですわ。そしてこちらがーーー」
パーシヴァル様は挨拶の間、つまらなそうに足を組んで虚空を見つめていた。
紬様が会釈してもよろしくの一言もない。
アンニュイな雰囲気に紬様がびびっているが、騙されるな。あれは「クッキーまだかな」の顔だ。集中しろよ。
対照的にミシェーラは満面の笑みだ。
「素敵なお召し物ね、とてもよくお似合いだわ」と微笑んで紬様を恐縮させているがーーーきっと、あとで「デザイナーの連絡先教えてくださる?」などと言って違う意味で相手を混乱の渦に叩き込むのだろう。
ーーーがんばれ紬様。ミシェーラちゃんにロックオンされたら逃げられないぞ。
挨拶に続いて、出されたお茶菓子にーーー甘党王子と前世記憶持ち女王の顔がパアアアアと華やいだ。
「お口に合うとよろしいのですが」
ソファにあさく、とても浅く腰掛けた紬様が持ち込んだらしい菓子はとても繊細な造形だった。花がモチーフだろうか。見たことがない種類だけど、全員違う種類が配られているようだ。
パーシヴァル様がミシェーラ様の分を欲しがって呆れられている。
ライラははしっこを一口食べて頬を緩ませたあとーーーおいしい、というよりは懐かしい、の顔に見えた。ーーー残りを全てパーシヴァル様にあげていた。
パーシヴァル様も当然の顔で受け取る。ミシェーラちゃんの分はすでに確保済みだ。だから自重しろよ、シリアスが仕事しなくなるだろ。
にしてもライラ…懐かしい味だろうに、やっぱり甘いものはそこまで好きじゃないんだなあ。
自分の持ち込んだ菓子を毒味のためにいち早く口に入れた紬様が顔を上げたまま固まっている。…そりゃあそうだ。なぜかパーシヴァル様が三人分食べているのだから驚くに決まっている。
あれぇぇ?礼儀正しく気品あふれるモードはどこかなぁ?
しばらくみんなでパーシヴァル様が美味しそうに菓子を食らうのを眺める。
三つの菓子をぺろりと平らげた王子は、小さなフォークを置くと、満足げに頷いた。
時間が動き出す。
ライラが首をほんのわずかに傾げて「ミソトショウユハ?」と言った。
呪文にしか聞こえない。
怪訝な顔をした俺とパーシヴァルペアだったが、どうやら紬様にはわかったらしい。
ライラに向けて重々しく頷いた。
「つつがなく、使用人にお渡ししました。後ほどご覧いただけるかと」
この辺のやり取りで俺はようやく呪文の正体に思い至った。
「ミソモショウユモ」の伝言関連だろう。音が似てる。
つまり、「庶民の食べ物」と紬様を困惑させていた品だろう。
ライラはどうやら待ちきれなかったらしい。
使用人の方に向けて合図を送った。
程なくしてライラの空間魔法の袋が運ばれてきた。「腐りやすい食べ物用」に渡したやつだ。空間魔法に加えて冷凍機能まであるって知って和国の人たちを青ざめさせてたんだよな。
ライラは中を開けてーーー三秒ほど見つめた後で、それはそれは可愛らしく笑った。もう、この笑顔だけで和国の面々は悟っただろう。この会談は成功に終わると。
女王の仮面を被り直したライラが空間魔法の袋を下げさせた。
ライラを見る紬様の顔から緊張が抜けていた。ーーーそうだよね、今の見せられたらね。
隣の部屋の魔力の動く気配がした。
…名残惜しいけど、ジョシュア様の頑張りのおかげでスタートは守られた。
選手交代だ。
扉に向けて歩き出す。
ライラが心配そうにこちらを見ているが気にするなという意味を込めて肩をすくめておいた。
扉があいた。
ジョシュア様と目が合う。
小さく頷く。
ジョシュア様は「あとは頼む」と短く告げた。
「イエス」
品のない笑みを浮かべたマスキラがジョシュア様の後ろから顔を出した。
品定めするように室内を見てーーー黄ばんだ歯を見せて何か言おうとしたので、よろけたふりをして肩に頭を乗せた。
ふふ、どんなよろけ方だよ。
仮にも騎士団長がさ。
内心大笑いしている俺だがーーー体を起こして、そっとマスキラの背を押す。
ライラと同じ部屋に入るんじゃねぇよ。
俺目当てなんだろ?趣味がよすぎる。
わかってて自分を売りにいく俺もエクセレントだ。
どいつもこいつも、反吐が出る。
「女王への面会状」を持っているくせに抵抗なく「騎士」に連れ出されたマスキラ。デニス=ブライヤーズの熱狂的な信者として有名なマスキラ。
パタンと背中でドアが閉まった。
耳障りの良いジョシュア様の低音が聞こえなくなる。
かわりにーーー鳥肌が立つような猫撫で声で名前を呼ばれた。
「デニスくん、きょうも綺麗だね」
「邪魔者がいるのが嫌だったの?ーーーもうかわいいなあ」
蛇が這い回ってるみたいに、肉付きのいい五本の指が俺の騎士団服を滑っている。
「アジア人を格式高いウィンザー宮殿に入れるとは何事か。これだから、爬虫類の親戚は困る…おっと、失礼。護衛騎士どの」
悪気はなかったのです。なんてわざとらしい笑みを浮かべなくても、お前が自分を心底正しいって思ってるのはよくわかる。
ライラが爬虫類ならお前は生ゴミだろ。腐る未来しかないやつが生命体を語るなよ。
怒りっていうのは突き抜けると無になるんだ。
肌の色で、国籍で、なぜ優劣をつけようとするのか。
気高く、可憐な黒竜を貶めようとするのか。
理解ができなすぎて気味が悪い。
ーーーほんとうに狂った人間に対して「なぜ」は役に立たない。
彼らは彼らのルールに従っていて、そのルールは不変なのだ。
こういう手合いはサクッと排除するに限るのだが…心底厄介なことに、こいつは保守派の重要人物で、法務省をバックに抱えてるからそう簡単に《《お仕置き》》できない人種だ。
…と、ライラが言っていたので、俺は殴り飛ばそうとする右手をかすかな理性で押さえつけている。個人的には今すぐにでもうるさい口を二度と聞けないようにしてやりたい。
しゃべる生ゴミは俺のボディラインをスキャニングしながら出てこないドラッグを探してる。ーーー首元をかいだってマリファナの匂いなんてしないだろ?
「黒髪に近い茶色の娘でしたね…物珍しさが気に入ったのか。ずいぶん話し込んでいた様子…異国人を愛でる暇があったら子供の一人や二人作って欲しいものだ」
「…そうでしょうか」
「ええ、そう思うでしょう?ーーーああ、いけない。勘違いしないで。私は黒竜様を心底敬愛しておりますよ。ミーティアウィークから我々を守ってくれる魔力として、心から尊敬しています」
「はあ、なるほど」
「それにしてもデニスくんの魔力は澄んでいてきれいだねえ、やっぱり純真なブリテンの騎士家は素晴らしい」
世界が薄いガラス一枚隔たれたみたいにぼやけて見える。
俺、今しんどいのかな。
全部画面越しの出来事みたい。
ずんぐりとしたブルーの背広がやけに近い。
それでも俺の優秀な仮面は笑ってるんだろう。
かたわらのマスキラはそれはもう得意げに口を動かしてるし、俺だって「ありがとうございます」なんて唇が動いて、頭を上下したりしている。
二の腕をさするみたいに触んないでくれないかなあ。
ううん、いいよ。きっとライラに同じことをしたら俺は殺しちゃうもん。
腰に手を当てないでほしいなあ。そこは感覚が敏感になってるから、芋虫がはい回ってるみたいで、色々と限界なんだけど。
ううん、全然気にしてない。ライラの身代わりになれてるんだと思えば、なんてことない…
なんてこと、ないと思ったのに。
俺は自分が思ってるより弱かったみたい。
白髪混じりのマスキラが満足げにウィンザー宮殿から出ていくのを見送ってーーー丁寧さと性急さのギリギリくらいのタイミングでクローズを押して、ドアが閉まるのも見届けずに、俺は、グリーンの絨毯の上を、走った。
途中で何故かシャロンらしき人とすれ違ったし、声もかけられた気がするんだけどーーー俺は、胃からせり上がってきたモノで今いるライラのきれいな宮殿を汚さないようにってだけで精一杯だった。
玄関ホールの真ん中の扉を乱暴に開けて、突き当たりまで一直線に走った俺は、「トイレット」の表示に駆け込んだ。
白い無機質のドアを蹴破る勢いで駆け込んだ俺を、天使ーーー3つ並んだ陶器の洗面台が出迎える。
ここが、天国に思えた。
天使の手を取るにはいささか乱暴に、一番近い蛇口をひねる。透明できれいな水が流れてーーーハグするように洗面台に覆い被さった。
「う゛…ボエエエエエ…」
昼ごはん、ろくに食べてなくてよかったかも。
洗面台にキスするみたいになってた俺の後ろで、扉が乱暴に開かれた。
「デニス!?ーーーデニス…」
振り向けないけど、声でわかるよ。
様子のおかしいことを心配したシャロンが追いかけてきたようだ。
まだ顔を上げられない俺の優しく背中をさすってくれるシャロン。
俺はシャロンのこういうところが好きだ。
だいじょうぶ?って聞かないところ。
秒針が五周くらいしてーーーようやく顔を上げた俺をシャロンは憂い顔で見つめてきた。
ありがとうとか、心配かけてごめんとか、そういう言葉の前にーーー俺の口から出てきたのは、
「お願いだから、ライラと、ジョシュア様には、言わないで」
夕焼けみたいな色味を持ったシャロンの顔に絶望が走る。
ああ、ごめんねシャロン。
なんでお前が泣きそうなんだよ。
知ってるだろ?俺はこういうマスキラなんだ。
自分のことより何よりあいつが大事なんだよ。
言いたいことを五十個くらい飲み込んだ顔をしながらシャロンはうめくようにつぶやいた。
オネエの仮面が剥がれかけてる。おもしろいな、おもしろくないかな。わかんないや。
「ーーーライラが、デニスがこうやって知らないところで苦しんでるって知ったら、もう、《《ああいうこと》》を頼まなくなるから?」
シュアって短く答えた俺をシャロンは羽布団をかけるみたいに抱きしめてくれた。咄嗟にバンザイの姿勢を取ったら、不思議そうな顔をされた。
シャロンは、きたなくないから、触らないようにさせてあげないと。
壊れ物みたいに背中に手を回されると、自分も人間だったんだって思い出せる。
いくらシャロンだって馬鹿なやつだって思ってるよね。自己犠牲の精神なんて今風じゃないって。
ーーーでも、嫌なんだ。ライラが悲しそうな顔をするって、予感がしただけで俺の体は動いてる。
シャロンの声は震えてる。多分泣いてる、俺の代わりに。
「デニスは、ちょっと、護衛としての出来が良すぎるわ…汚いところばっかり、溜め込んで…普通ならね、バレるのよ。言わないでって口で言ったって、知ってほしいって心の底で思ってるから、態度に出る。ーーーでも、デニスは、本気で知られたくないから、憎らしいくらいいつも通りに振る舞うんでしょ?私がここに来なかったら、一人で苦しんで、生ゴミを飲み込んだみたいな苦しさを隠して、太陽みたいに爽やかな顔で面会部屋に戻るんでしょう?」
伏し目がちなシャロンはどこまでも真剣な様子だけどーーー
爽やかで、太陽みたい…か。
ハハ、笑っちゃうな。ーーー俺、そんな理想の王子様みたいなやつじゃないけど。
「だいじょうぶ、俺は元々そんなにきれいじゃないよ」
言って、すぐに後悔する種類のセリフって、ある。
シャロンが腕がもがれたみたいな顔をした。
失敗した、もう口を開くのをやめよう。
目の前のガラスはまだ晴れてない。
戻ろっか、って笑ったら、シャロンは泣きながら治癒魔法をかけてくれた。
日向ぼっこしてるみたいに柔らかいオレンジの光が俺を包んで、「ありがとう」ってこれまた笑ったらーーー洗面所の紙ふきで乱暴に目を拭いながら、シャロンが憎らしげにつぶやいた。
「この状況でパーフェクトな笑顔を作れるって知っちゃうとーーーあんたのこと、信用できなくなりそう」
「笑わなくていい、の別の言い方かな?ーーーありがとう、でも、『ライラのために行動できて幸せだ』って言い聞かせてないとーーー」
また、洗面台を抱きしめちゃいそう。
念のため、持ち歩いている香水を自分に吹きかけながら、語尾を転がして、冗談めかして言ったのに、シャロンは怒った顔になった。
…まずいな、本当に、今の自分が何を言ったら不味くて、冗談に聞こえなくてーーーそういうラインに霞が、かかってる。
「何を言っても、戻るって聞かないだろうからーーーそれもどうせ、あんまり長く席を外すとライラが不振がるからでしょうけどーーー口を開くのはやめなさい。心の悲鳴とあんたの脳が、噛み合ってない」
何気ない様子でシャロンが俺の右腕に手を添えようとしたので、避けた。
不振がられたから、真顔で「そこは汚いから触らない方がいいよ」って言ったらーーーちぎれそうな勢いで、両腕を取られた。
「あんたは、どこも、きたなくない」
ドスが聞いた声で、俺は笑ってしまった。
ちっともおかしい場面じゃないってキレられたけど、笑いのスイッチが入っちゃったんだからしょうがない。
「あはは、オネエ様、ボロ出まくってますよ」
そっと右腕を外して…左腕を掴まれたまま、シャロンを化粧室から連れ出す。
「戻るな」と言いたげに重しになったシャロンを引っ張るようにして廊下を歩いていたらーーーちょうど、紬様が側近に囲まれてウェイティングルームから出てきた。お帰りになるところみたいだ。
白い頬は薔薇色に染まっていて、瞳はいまだに興奮の余韻で輝いている。
ーーーよかった、面会は成功したみたい。レイシストとアジアンプリンセスの戦いを未然に防いだ俺の頑張りもちょっとは役に立ったかな。
シャロンの言いつけを守って、無言で微笑んだまま会釈したけど、紬様は何も疑ってない無垢な笑顔で、嬉しそうに頷いてくれた。
「デニス様、また明後日離宮でお待ちしております」
歌うようなアクセントで告げられる。
…俺の擬態は完璧みたい。ついさっきまでトイレで吐いていたマスキラは、優雅なマジックイングリッシュで「光栄です」って告げている。
別に悲しくはない。
みんな、そんなもんだ。
見えているものだけを信じて、その実、ほとんどのことを理解していない。
ーーーそれで、いいと思う。少なくとも俺は、外国のお姫様に、この国の負の部分を見せる趣味はない。
紬様と入れ替わるようにしてウェイティングルームの扉をくぐる。
中は静かだった。
場を賑やかせていたカップルは先に帰ったようだ。
使用人たちに見守られながら、国王夫妻が向かい合って座り、紅茶を飲んでいた。
ジョシュア様の耳障りの良い低温が聞こえ、時折ライラが鈴を転がすように笑う。
扉の開閉音に気がついたジョシュア様が、こっちを見た。
遅れてライラの金色の瞳も俺と、シャロンを捉える。
二人の元へ向かう前にシャロンともう一度アイコンタクトーーーわかってる、と言わんばかりに片眉を上げられた。ありがたい。
ゆったりとした足取りを心がけて、シャロンと並んで二人の元へと向かう。
ライラが「招待状のない客人はお帰りになったの?」ときれいな微笑みのまま言った。セリフと表情が合ってない感じ、なかなか王族が板についてきたね。
無言で頷いて、退出の許可を求める。
ライラは、少し間をとって、俺と同じく黙って頷いた。
全てを見透かしてしまいそうなカナリーイエローの瞳に浮かぶかすかな不信。
塗りつぶすように微笑みかける。
大丈夫。
お前がいるだけで、おれはだいじょうぶだよ。
「ジョシュア様、ライラの警護、事前に決めていた時間より少し早いですがお任せしても?」
ジョシュア様が頷いて、黒髪がサラリと流れた。
俺は、できるだけ、不自然じゃないように別れの挨拶をして、立ち去った。
何かを訝しんでいる様子のライラは、俺の顔を真顔で見つめていたけど、ジョシュア様にまた何か尋ねられて、視線を逸らした。
ーーーふう、危ない。ジョシュア様に感謝だな、あと、5秒も見つめあったらボロが出てた気がする。
俺の愛する彼女は、とても鋭い。
自分が誰より傷ついてきた彼女は、人の痛みに敏感だ。
ずっと何か引っかかった顔をしてた。
ーーー付き合いの長いシャロンでさえも「わからない」と称した俺の嘘も簡単に暴いてしまいそうな君のことを、やっぱり、好きだと思う。
だからこそ、何がなんでも隠し通すんだけどさ。
いますぐ寮に帰って全身真っ赤になるまで洗い流したいだとか。
全部どうでも良くなるくらい、きれいな蝶を愛でたいだとか。
心配でついてこようとするシャロンを言いくるめて、寮で長い時間をかけてシャワーを浴びてーーー
このまま泡と一緒に消えればいいのに。