第十一話 ブチギレブライヤーズ
フランク王国から来た少年はあまりに迂闊だった。
ひょうきん者として認識されている彼はやってしまった。
周りが血相を変えて「王妃様に魔力を向けてはいけない」と言い聞かせるのに耳を貸していれば。
「だーいじょうぶだって、あのすました顔をちょっと驚かせてやろうってだけ」
「俺らは止めたからな?」と蒼白な顔で言った友人をせせら笑った少年。
国王夫妻の前に立つと、よせばいいのに、得意げな顔で魔力を練り上げクラッカーのように弾けさせてしまったのだ。
少年の思惑は達成された。
魔力の破片が飛んでいった王妃は大きな瞳をまん丸にしていたから。
愚かな少年はご満悦だった。得意げに胸を逸らせ、今度こそ正式に挨拶をしようと膝を折ったところでーーー息が、できなくなった。
ジョシュアが立ち上がっていた。
パリンと砕ける音がした。ジョシュアの魔封じの枷が一つ飛んだ音だった。
人並み以上に魔力があると自負していた少年は瞬時に悟った。
自分は竜の尾を踏んだのだと。
重力が何十倍にもなった気がした。
何かが上から彼を抑えつけた。潰れるみたいにして毛足の長い絨毯の上に顎をつけた少年。
息が吸えなかった。腕が動かせなかった。
苦しくて仕方ないのに干上がったミミズのように地面をのたうちまわるしかできなかった。
ジョシュアの魔力は彼の生命活動を否定していた。
「ーーージョシュア、ダメだよ。魔力を抑えないと」
ライラが咎めるようにジョシュアの右腕を強めに引いた。
ジョシュアはライラに逆らうことなく元いた椅子に腰掛けた。
「ーーーそいつを下がらせろ」
ジョシュアが唸るように命じた。
這いつくばる少年から無理矢理視線を逸らす。
黒の魔力が霧散し、張り詰めていた空気が緩む。
命令を受けた周りの側近や護衛騎士が慌てたように地面で震えている少年を回収していった。
救護室に運ばれながら、掠れ声で「怖かった」と呟く少年。
肩を貸してやっている騎士たちが顔を見合わせた。ーーーホッとしている彼には気の毒だが…教えてあげるのが親切というものだろう。
「あんたみたいな馬鹿のことあたしは嫌いじゃないけど…もうちょっと周り見た方がいいよ。タイミングが悪すぎる」
キョトンとした少年。
騎士たちは口々に言った。
「赤髪が来たら全力で逃げた方がいい」
「魔法で迎え撃とうとか考えずにとりあえずダッシュだ」
「鍵を閉めて防衛魔法を何重にも貼っておきな」
「いっそのこと回復薬を飲んでおけば?」
眉をハの字にして「何を言ってるんですか」と不信がる彼の肩を騎士たちは慰めるように叩いた。
「夜がくればわかるよ」
少年の目に怯えの色が浮かぶ。
遅い、遅すぎる。その危機意識がもう少し前に働いていれば。
ーーーだって、デニス=ブライヤーズの目の届く範囲で黒竜にちょっかいを出すなんて…グレイト=ブリテンの魔法使いなら絶対にやらない。
一度痛い目を見た少年は、今度は騎士の声に耳を傾けた。
防衛魔法をせっせと貼って、逃げ出せるよう靴も寝台のすぐ脇に並べたし、意味がわからなかったが回復薬も枕元に置いた。
パーティー疲れでいつもより早く布団に潜り込み、学園の寮のベットで安穏と寝ているところ。
窓から現れた侵入者は蚊でも払うように少年のシールドを破壊した。
防御魔法なんてかけらも役に立たなかった。
自分の魔力が消える感覚に、寝ぼけ眼で身体を起こした少年は…不自然に照らされた室内と、窓枠に足をかける人物を見て息を呑んだ。
デニスの発する赤い魔力が部屋を飲み込んで、室内が真紅に染まっていた。
烈火の如く怒るデニスは呆けている少年の襟首を掴むと、グッと顔を近づけてきた。
「ライラに魔力を向けたのはお前だな?」
少年はパニックになった。
涙声でそんな奴知らないと肩を振るわせる。
「知らないわけないだろう。ーーー王妃に魔力を向けてジョシュア様を怒らせたと言えばわかるか?」
ライラが意味するのが王妃であると理解しーーー少年の顔が青ざめた。
騎士の忠告が今更ながら思い出される。赤髪から全力で逃げろとはそういうことか。
デニスは少年が罪を認めたのを感じたのだろう。寝巻きの少年を寝台から蹴り落とすと、強すぎる力で腕を掴んだ。
引きずるようにして連れてきた裏庭。
腰が抜けたのか、地面に尻餅をついてガタガタと震える子供を冷たく見下ろす。
デニスの瞳孔の開き切った目に耐えられなかったのだろうかーーーどこまでも愚かな少年は言い訳を口にした。
「ちょっとした出来心だよ…もうしないからさ、そんなに怒らないでよ。友達にも責められたし、俺も反省してーーー」
デニスは一気に距離を詰めた。キスするみたいに少年へと顔を寄せーーー無常に言い渡す。
「出来心ーーー魔法使いは自分の行動に責任を持てと学校で教わらなかったか?反省しましたで許されるわけないだろう」
デニスだって悲愴な顔つきで鼻水を垂らす年下の子供が可哀想だと思わないわけではない。
でも、王妃の前で魔力を破裂させるような輩がーーーそれを、軽い冗談で済まそうとする魔法使いが他に出てきては困るのだ。
魔法使いは白の人とは違う。いつだっておのずの手から魔力の銃弾を打ち出せる。
「反省し、万謝しろ」
怒れる騎士に少年は場違いにも見入った。眉間にシワを寄せる目の前の男は、壮絶な悲哀を纏っていた。
しなやかに伸びたデニスの足が少年の柔らかな腹を打った。
空気が抜けたような呻き声をあげる。
「や、やめて…」
無力に震えるだけの少年を見下ろすデニスは自分が悪人の顔をしている自信があった。
普通だったら、子供には手をあげないし。
普通だったら、相手に反省の意思があれば温情を与えるだろうし。
普通だったら、騎士団長は私怨を晴らしに夜襲を仕掛けたりしない。
道徳心とか、常識とか、捨ててはいけないものがデニスからは抜け落ちている。
でも、デニスは知ってしまっている。
多くの人が大事に抱えて生きているものたちは、デニスのかけがえのないものを何一つだって守ってはくれなかった。
攻撃が目的じゃないかった?偶然だったらライラが傷ついてもいいというのか。
七年ほど前、プロイセンのいざこざのために彼女は殺されかけた。フェルヴィエロ=ルーニーという魔獣がいなければ、彼女は間違いなく死んでいた。
黒竜復活のヒントにジョシュアが気付くタイミングがあと少しでも遅くてもダメだった。日に日に歩けなくなっていった彼女を背負って学園に通ったのは他でもないデニスなのだ。
今、この世界にいてくれるのが奇跡みたいな彼女のことをデニスは何があっても守ると決めた。
彼女のためだったら、デニスは悪魔にだってなれる。
くの字に体を曲げ、口から血を吐いている少年の上に、仄暗い顔でデニスが足を振り下ろす。
うめき声はとうに聞こえなくなった。
うずくまる少年に無慈悲にも制裁を加えていたデニスだったがーーー彼はここに来る前にパーシヴァルの離宮に寄ったことを失念していた。
パーシヴァルの救援要請を受けたシャロンとめざとく騒ぎを聞きつけたライラ本人がーーー転移魔法で降り立ったのは、少年が気を失う直前だった。
「デニス!何やってるの!」
ライラに名前を呼ばれたデニスは、虚無だった顔に焦りの色を浮かべた。
プレートで接近する二人をチラリと見て、腹の上に置かれていた足をそろそろと退ける。
助けが来て気が抜けたようだ。少年は糸が切れたように気を失った。
かしいだ肩をうやうやしく支えたデニスは、わざとらしくすっとぼけだした。
「コイツドMなんだ、俺に蹴られたいっていうから」
泡を吹いている少年からの反論はない。
デニスが少年の頬をペチペチ…というよりバチバチと叩いている。痛みで再び覚醒を強いられた少年は何故か機嫌が良くなっているデニスを見て悲鳴を上げた。
ライラが「言い訳が最悪すぎる」と頭を抱え、シャロンは目を爛々と輝かせている。デニスのビンタを止めようするよりライラを軽く押し除け、鼻息荒くデニスへと詰め寄るシャロン。
「デニスついにドエスキャラでやっていくことにしたの?早く言ってよ、あたしもーーー「ややこしくなるからシャロンは黙っててくれるかな!?」
ライラはあと一撃が致命傷になりそうな少年を浮遊魔法で救い出してやる。
デニスはうすら笑いを浮かべながら、「今日は時間切れだな、もっといじめてやるから次は縄を持ってこいよ?」と少年に呼びかけた。全力で怯えられている。
ライラはデニスにじゃれついているシャロンを捕獲。
ボロ布のようになっているフランクの留学生の治療を命じる。
「えー、面倒だわ」
興醒めしたようにシャロンが頬杖をついた。
とはいえ、シャロンは折り紙付きの名医。
倒れ伏す少年に歩み寄ると、腕をかざした。柔らかなみかん色の魔力が少年を包み込む。
緩やかに傷が塞がり、打撲痕や痣跡が元に戻っていく。
長い時計の針が五周ほどした。
「こんなものかしらね?」
自分の腕を誇るでもなく、シャロンがつまらなそうに少年を護衛に引き渡している。
治療されたはずの少年の顔が痛々しく腫れ上がっているのを見て、ライラは思わず「なんで顔だけ残したの?」と尋ねてしまったのだがーーー
ライラの疑問に答えたのは後ろから覆い被さってきていたデニスだった。
「俺が制裁を加えたって証拠がいるからに決まってんだろ?ーーーお前は自分の人気を把握しとけよ。あいつは俺がやらなくても誰かに闇討ちされてたと思うぜ?」
ライラはデニスを押し除けながら大袈裟だなと笑いかけ…フランクの留学生を見下ろす騎士たちの目が憎しみに濁っているのを見て、デニスの言葉が決して大袈裟ではないことを悟った。
腕の中で困ったなという顔をするライラの頬をデニスはムニッと摘んだ。
黒竜の存在がどれほど尊く思われているのか。
自覚してもらわないと困るのだ、本当にこの人は。
マシュマロのような柔い感触を楽しんでいたデニスだがーーーふと、気になることがあった。
「なんでここがわかったの?」
デニスがいたのはアメリアイアハート魔法学園中等部の寮の裏庭だ。
王宮とは移動プレートで十分ほどの距離がある。
ライラは半目でデニスを見上げる。へんなかお。白い頬に長いまつげの影が落ちた。
「赤魔力の花火が上がってたもの。ーーーバレてないと思ってるのデニスだけだよ」
「え?」
少年の引き渡しを終えて戻ってきたシャロンが固まったデニスを見てやれやれと首を振る。
「誰かさんも、自分の魔力の派手さと人気を自覚した方がいいわ。ーーーライラの言う通り、王宮からでも見えたしネット上にも上がってたわ」
疑わしげな表情のデニスはすぐにポケットに手を突っ込んだ。
黒いカバーの魔力通話を取り出すと覗き込んでくる黒髪。
目の前にある形の良い頭を撫でつつ、画面を操作してSNSを開く。
タイミングよくタイムラインの一番上が友人の投稿だった。
見覚えがあるすぎる赤髪と炎のような赤魔法の画像。スクロールしてみればムービーまである。
それぞれの投稿の下にはーーー
「…タグなんてあんのかよ」
#デニス目撃情報#騎士団長目撃情報#デニス様を見守る会…
などなどーーー本人からすれば嬉しくもない文字の羅列。
怖いもの見たさで押してみればーーー
「ーーーげ、」
関連投稿のあまりの多さにうんざりしたらしい。
顔をしかめて画面を閉じようとしたデニス。
「私もっと見たい!!」
猫じゃらしに飛びつくようにして、ライラが端末を奪い取った。
デニスの腕からも抜け出し、ふわりと宙に浮かぶ。
「おい!」と焦った声をあげるデニスを綺麗に無視して、スイスイと指を滑らせている。
「わー!かっこよく写ってるじゃん!深夜なのに投稿数百件近いよ!さすが人気者!」
何故か自分のことのように喜んでいるライラを見てーーーデニスは澱んだ何かが浄化されていくのがわかった。
いい意味で、全部がどうでもよくなった。
そうだった。この子はいつでも能天気で、ご機嫌で、デニスを幸福にしてくれる。
次々に更新される投稿を浮き浮きと追いかけていたライラが「うえ」と嫌そうな声をあげた。
見て見てとライラが画面を突きつけてきたので、デニスはすかさず魔力通話を取り返す。
ライラはデニスが魔力通話をしまう横で項垂れている。
「姫の登場で騎士が怒りを鎮めたって…姫って嫌だわ。私そんなキャラじゃないし。確かに見た目からして王妃としての威厳とかはないだろうけど。にしても姫って…」
シャロンは肩を震わせている。
「気にするのそこなのね」と口元を綻ばせる彼にデニスも賛成だ。
「自分の行動が周りに筒抜けなことにもっと動揺しろよ。今も撮られてるってことだぞ?」
デニスが咎めるように言うとーーーライラは、何故かデニスのことをジトリと睨みつけてきた。
そんな顔をされる意味がわからなくてたじろぐデニス。
詰め寄るライラ。
「目立つのには慣れてきたの!だからどうでもいいの!それより!おかしいじゃん!」
涙目で地団駄を踏むライラかわいいなとデニスが和んでいる中で、ライラの訴えは続く。
「おかしいと思わない!?黒竜だよ?私これでも泣く子も黙る始祖竜だよ…なのに、どう見てもみんなジョシュアとデニスに怯えてんじゃん!私守られる子みたいになってるじゃん!」
デニスが宥めるようにライラの頭を撫でーーー「よしよしすんな!」と振り払われた。
行き場を失って宙に浮いた手を呆然と見つめるデニスは今日一ショックを受けている。
「だいたいさ、ジョシュアとデニスが過保護すぎるんだって最近気づいたね。ーーー私はガラス細工か!魔法の残骸くらい自分で対処できるわ!なんだったら飲み込めるわ!」
歯噛みして悔しがるライラ。
デニスは深刻な顔でーーー
「ライラ、撫でられるの嫌なの?」
と言った。
ライラは「話を聞けよ!」と怒っていたが、デニスがあまりに悲壮な顔つきだったので仕方なく撫でられていた。シャロンが「そういうとこよ…」と呆れている。
過保護すぎると怒り心頭な彼女をきっちりジョシュアの元まで送り届けるデニス。
ライラはデニスに抱っこされて運ばれながらずっと「姫じゃないし」と口を尖らせていたし、離宮についてからは「一人で飛び出さないでシャロンを連れて行ってえらいぞ」とジョシュアに褒められて膨れていた。
デニスは怒った顔も頬袋膨らませたハムスターみたいでかわいいなと思った。
ライラの要望は聞き入れられそうもない。過保護は治らなそうである。
◯
思いがけずライラと過ごせたことで、パーティーの憂鬱さなど欠片も残っていなかったデニス。
翌朝、いつも通り紬の離宮へと赴きーーー出迎えた側近長に向けて晴れ上がった空のように快活に挨拶した。
「おはようございます!紬様はまだお休みですか?」
側近長はどことなく気まずそうだった。
「まだ…お休みになっております」
何かを言い倦むように口を開け閉めする老女。
穏やかな表情で側近長を見下ろしていたデニスだがーーーふと、思いついたように鞄から飴玉を取り出した。
しわしわな側近長の掌を包み込むようにして赤い包みを乗せたデニス。
「今日のところは引き上げますねーーー御用でしたら連絡をください」
紬は自分に嫌気がさしたのかもしれない、とデニスはなんとなく思った。
デニスのことを呼び止めたそうな紬の側近に背を向ける。
昨日のパーティーの終わりだって怒っていた。ーーー言い返せって叱られた気がする。
一晩寝てデニスは忘れていたがーーー昨夜の下衆野郎はとても気持ちが悪かった。
紬の純粋無垢な心に染みをつけたかもしれない。
「悪いことしたなあ」
デニスは急に生まれた自由時間を持て余してしまった。
いつもみたいに離宮の周りをうろうろしてもいいのだが、無駄に思えた。
というのも、この日はジョシュアとライラが魔法の特訓をする日だったのだ。最強の魔法使いと始祖竜の目と鼻の先でうろつく不審者がいるだろうか。
いたとしたらとんでもない馬鹿だし、もし仮に現れてもジョシュアがライラが気付く前に消し去るだろう。
デニスは魔力通話を取り出した。
蝶たちからいじらしいメッセージが届いていたがーーーそれらを開くことはせず、デニスは魔力通話を閉じてしまった。
無造作に鞄に端末を放り込み、くわりと大口を開けてあくび。
ーーーパーティーの翌日。流石のデニスにも疲労が溜まっているようだ。
よし、帰って二度寝しよう。
デニスはそう決めると、騎士団の寮の方へと走り出した。
宮殿の勤め人が慌ただしく行き交うプラタナスの並木路を駆け抜けるデニス。
日差しに目を細める人々に混じって、ひぐらしの声が耳に入る。
もうすぐ秋だ。
夏の黄色の魔素に涼しげな青の魔素が混じり始めると、デニスはちょっと憂鬱になる。
何故かって?秋は仕事が増えるからに決まっている。
王宮は来るべきミーティアウィークの準備のために鍋をひっくり返したみたいに慌ただしくなる。騎士団長であるデニスも当然例外ではなく、茜色に色づいたカエデに風情を感じる暇などない。
ミーティアウィークの始まりである十月一日からどしどしと降ってくる魔石に備えて魔法陣を張らないといけないのだ。
いや、実際に魔法陣を貼るのは黒の魔法が使える王族なのだが、想像以上に周辺準備が多いのだ。王族の貼った魔法陣の中でぬくぬくと学生生活を送っていた頃は知らなかった事実だ。大人になるのは面倒だとデニスはいつもこの時期痛感する。
デニスは日差しの眩しさに眉を寄せていたがーーー騎士団寮が目に入ってくると、徐々に速度を落としていった。
止まり方が移動プレートっぽいと言ったのはデニスの友人だ。デニスの速度で急停止すると慣性の力がすごいのだ。内臓が出てきそうになるのさえ気にしなければ、急停止できなくはないのだが。
デニスは緩やかに停まると取り出したタオルで汗を拭った。
「あら、デニスさんじゃないの。今日も暑いわねえ」
入り口を掃き掃除していた寮監がにこやかに喋りかけてくるのはいつものこと。いつもレモンや自家製チーズを勧めてくるフィメルにデニスは愛想笑いを作りつつも、入り口の魔法陣に魔力を通す。
滑らかに扉が開いた。眩しさが一気に無くなり、目がチカチカする。
暑さでほてった体には室内の冷やされた空気が気持ちがいい。
歩くデニスに気づいて会釈してくる騎士団員にひらりと片手を上げ、そのまま目の前にある薄暗い階段を駆け上がった。
デニスの部屋は四階の角部屋だ。
早足で廊下を抜け、自室のドアノブに手をかけたデニス。
室内の魔力反応に僅かな違和感を覚え、不自然に固まった。
まるでーーー息を殺してデニスの帰りを待っているような。
「最悪…寝ようと思ったのに」
うんざりと吐き捨て、今度は躊躇いなくドアを開いた。
すかさずドアの影に身を隠したデニスの立っていた場所を、ナイフが三本通過する。
「っち!外したか!」
足音なく走り出てきた人影。
油断なく当たりを見渡しーーー死角から振り下ろされた踵によって撃沈された。
「いったああ!」
ドア陰に身を隠していたデニスが回し蹴りを決めたようだ。
悶絶する侵入者をデニスが冷たく見下ろしている。
「コラ、暗殺者。なに不法侵入してんだ」
デニスの声色は不機嫌ではあるものの少しも動揺が見られない。
それもそのはずーーーこの桃色の髪をした侵入者、彼の副官なのである。
騎士団の休みがデニスと重なればこうして本業(?)に精を出すので、デニスも慣れてしまったのだ。
プロイセンからの刺客として送り込まれてきた彼女がなんでデニスの副官なのかはデニス自身も疑問なのだが、(ジョシュアがプロイセンに送り返すのを面倒くさがったのが最大の原因だ)なんだかんだ便利に使ってしまっている。
要はあれだ、殺されさえしなければ有能なのである。暗殺者なので。
今だってデニスの留守の間に家に忍び込むことができている。
ちゃんと持ち帰った仕事を片付けておいたりもしてくれる。
…殺傷能力の高い罠を仕掛けたりするあたり、注意が必要ではあるのだが。
入り口に巧妙に仕掛けられた罠に彼女を放り込みつつ、後ろから聞こえてきた悲鳴を無視してデニスは室内へと踏み入れる。
ずっと気になっていたのだ。
…かしゃかしゃと何かをかき混ぜるような音と、香ばしいバターを焼いているような匂いがすることに。
備え付けのキッチンを覗くとーーー予想通り、もう一人の侵入者がいた。
熊のような巨体にファンシーなウサギ柄のエプロンをつけたマスキラ。横目で焼き音を立てる生地の具合をチェックしつつ、手には泡立て器と大きめのボウルを抱えている。
どこからどう見てもデニスの次兄のブランドンだった。
頭を抱えたデニスに気づくと、泡立て器を振り上げて挨拶してくれた。
「ーーーおかえり、早かったな。でもちょうどよかった。朝ごはんの後、プーアがデニスのためにパンケーキの材料を持たせてくれたから」
焼き上がったホットケーキ並みにほんわかとした調子で言われ、デニスは思わず脱力した。
「ただいまーーーじゃなくて、なんでにいちゃん俺の部屋の中にいるの?」
デニスの問いにブランドンは「キッチンがここにしかないから」と答えになっていないようなことを呟いた。意識はホットケーキを丸く広げるのに向けられている。
シャロンといい、副官といい、兄といいーーーみんなしてデニスの許可なく自室に侵入してくるのだ。デニスは結構本気で施錠の魔法陣を描いているのだが、シャロンと副官は平気で掻い潜ってくる。…ブランドンは確信犯だ。副官が来るタイミングでいつも一緒に侵入してくる。暗殺者を鍵開け係か何かだと思っているに違いない。