第一話 探さないでください
お久しぶりです
または はじめまして!
白昼堂々悪事でも働くかのように。
薔薇陰を琥珀色の髪をしたフィメルは身を隠すように進んでいる。
このフィメル…ミシェーラ=ビリンガムは超有名人なのだ。それこそ目撃情報がメディアで拡散するレベルのスーパースター。
本来こんなところを人目を盗んで移動するような人ではない。
「なーんで私がデニスを捕まえにいかなきゃいけないのよ。こんな可憐な乙女なんだからデニスが追いかけてきなさいよ」
彼女は毎年四月三十日になると逃げ出すデニスを捕まえるミッションを担っていた。今年で三度目になるだろうか。
四月三十日は救国の魔獣である「フェルヴィエロ=ルーニー」が亡くなった日であり、そんな彼を偲んで国王陛下はこの日を国民の祝日に制定した。
ーーーここまではいい。救国の魔獣と知らぬ仲ではなかったミシェーラ。
魔獣として千年近く生きてきた彼の知識に救われたのは一度や二度ではない。
彼を思うと胸は痛むが、彼が亡くなって五年の月日が経った。
最近では、黒竜の復活祭として国中がお祭りムードになるこの日を楽しみにしてさえいる。
問題は友人とーーー国王陛下夫妻だ。
国王陛下夫妻は四月三十日は朝から休む間も無く働きづめだ。外国から来る国賓の出迎えに始まり国民への顔見せ、報道陣への対応。
黒竜の復活祭を前に、猫の手も借りたいほどに忙しい彼らの側近であるはずのデニスがーーーなぜかこの日だけ遁走するのだ。
いや、デニスの出奔理由など明確だろうとミシェーラは失笑する。
正常な反応だ。
何しろ彼はーーー世間の魔法使いたちから、王妃様の愛人などと悪様に言われているのだから。
ミシェーラとデニスは同級生で今年二十歳になった。
ついでに、毎年律儀にこのお願いをしてくる陛下は二十七歳。
みんないい大人なのだ。デニスが逃げようが隠れようが放っておいてやれよと言うのがミシェーラの素直な気持ちだ。
ーーー数年前のパーティーで陛下と王妃様を悲壮な顔で見ていた時よりは全然マシな選択だと思うけど?
ミシェーラは陛下のことが未だによくわからない。
グレイト=ブリテンの顔であり、魔力面でも中軸を担う彼はデニスを執拗なまでに手元に置きたがる。
悶々とするミシェーラの後ろには大名行列のように従者たちが続く。従者たちは彼女の言いつけに習って、薔薇に隠れるように腰をかがめて移動するものだから、偶然鉢合わせた貴婦人が怪訝な面持ちで一行を見た。
しかしミシェーラは気にもとめない。
つい最近王族入りしたこともあり、品行方正に振る舞うように心がけている彼女だが、元は商家の生まれ。平たく言うと平民だった。
元平民らしく、スカートの裾が翻るのにも構うことなく足を動かしていた。競歩みたいなものだ。
「訓練が始まってしまうわ」と気が急いたようにつぶやいた後はしかめっ面。
ミシェーラたちの一行はイングリッシュガーデンを抜け、プラタナスの並木道へと出た。
ここはいわばこの城のメインストリート。祭ともなればいくつもの屋台が軒を連ねる。
ブリテン産の香辛料をふんだんに使った地元の屋台の店員が安さを保証してくれるがーーーミシェーラはそれどころではないのだ。
値下げ交渉をする買い物客を避け、見回りのために巡回している警備兵に会釈し…
「ああ!移動プレートが使えないと訓練場ってこんなに遠いのね!」
ずれかけた大振りのサングラスを押し上げーーーチラリと腕時計を見ると…落胆の表情。
どうやら間に合わなかったようだ。
一転して緩慢な動作でとぼとぼと歩き始めたミシェーラ。
巨大な灰色の四角い箱ーーー騎士訓練場に着いたときには十五時を回っていた。
道中パパラッチに見つかって散々追い回された彼女には、目の前の無機質な錆色の壁さえ素晴らしい物に見えた。
「やっと到着…」
感極まったように呟くミシェーラ。
彼女の護衛の手によって観音開きの扉が動きーーーミシェーラの目に魔力を身にまといながら剣を振り上げる騎士たちの姿が飛び込んでくる。
「いつ終わるかしらねえ。クーガンは知ってる?」
ミシェーラの問いかけにクーガンと呼ばれた使用人は「十六時です」と応えた。
終了時間まで小一時間ある。
仕方なくミシェーラたちは二階の観客席へと移動することにした。
騎士たちの怒号に混じり、魔法がぶつかる大きく鋭い衝撃音が絶えず響いている。流れ弾が今にも彼女に届きそうだったのだ。
訓練場へと通じる二重構造のガラス扉に張り付いて眺める熱心なファンを横目に、「観客席」と書かれた掲示に沿って、二階の観客席へと上がった一行。
普段は騎士団のファンや子供たちで賑わう観客席も、その日はほぼ貸切状態だった。
ちょうど王宮のバルコニーで国王陛下夫妻が国民への祝辞を述べている時間だったし、王宮近くに人が集まっているのだろう。
ミシェーラは観客席のクッション性のある座席に腰を下ろして冷たい果実水で喉を潤した。
彼女の後ろでは腹ごしらえするらしい護衛たちが、屋台で買ったサンドウィッチのテイクアウト容器を開けている。
自身もセロファン紙で包まれた小分けのブラウニーを口に運びつつ、ミシェーラはようやく訓練場へと目を向けた。
「さーて、デニスはどこに…」
デニスは探すまでもなかった。
華があるとはきっと彼のような人のことを指すのだと思う。
春陽に照らされ、紅炎のように揺らぐ赤髪。
団長のみが身につけることを許される黒のマントには竜の紋様が浮かび上がる。
くっきりとした二重の瞳。すらり通った鼻筋に形の良い眉。
どこぞのアイドルかと言いたくなるような綺麗な顔をした騎士だった。
長身痩躯の彼だが、歴戦の騎士も多い集団の中ではかなり若い部類に入るであろう。
「ここ数年ですっかり痩せちゃって…せっかくつけた筋肉も落ちてるみたいだし心配だわ」
ミシェーラが小さくこぼした。
次の瞬間、デニスがチラリとミシェーラのいる観客席を見た。
ミシェーラたち一行の姿を捉え、不自然に硬直するデニス。
ミシェーラは愉悦の色を目に浮かべた。当惑している幼馴染にわざとらしく手などふってみたりしている。
デニスは今度ははっきりと苦悶の表情になった。
逃げるように背を向けたデニスを見て、相変わらず素直で面白いとミシェーラは忍び笑う。
気安いやりとりからも伺えるが、学生時代のほとんどを同じ教室で過ごした二人。しかしーーー青い春は過ぎたわけで。
卒業後、数年の間にミシェーラは王族入りを果たしたし、デニスは最年少の騎士団長になった。
元から有名人だったミシェーラだけでなく、デニスもずいぶん名が売れた。
今では他国からも恐れられる天才剣士だ。
魔力に身を包んだ他の騎士が必死の形相で剣を振る中で、ロングソードを肩に担いだデニスは、時折足を止め目についた騎士に声などかけている様子。
幼馴染の目で見ても、弾ける魔力の中を散歩でもするように歩く姿は、青と白の騎士団服の中で異彩を放っていた。
「次の訓練はフォームターク!」
彼の指示で騎士たちが一斉に動き出す。
「フォームターク」なるものは二人一組で行うようだ。
他の騎士たちが向かい合う中でーーーここでもデニスは目立っていた。
なんと自分の周りに集まってきた十名ほどの騎士たちを同時に相手にするようなのだ。
「団長から今日こそは一本とります!」
若い騎士が叫ぶと、僅かにデニスが微笑んだ。
「やれるもんならどーぞ」そう言いたげな顔である。
程なくして、打ち合わせでもしたように一斉に切りかかった騎士たちを見てーーーミシェーラが思わず身を乗り出した。
しかし、彼女の心配を他所に、次々と吹っ飛んでいくのは周りの騎士の方だったのだ。
ーーーデニス、いくら何でも強すぎない?
少し見ないうちにますます化け物じみてきた友人の姿にミシェーラは困惑した。
多数相手にもデニスの表情は余裕そのもの。背後から飛んできた斬撃を受け止めながらーーー
「ーーージョン、相手にフラットを向けるな!切先は正面」
「はい団長!」
燃えるような赤い髪とは対照的な沈着な声が訓練場に響く。
やがて自分の周りにいた十名ほどがへばってしまうと、何事もなかったかのように魔法剣を収めたデニスを見てーーーミシェーラは天を仰いだ。
ーーーこれは流石に聞いてない。陛下の秘密兵器を持ってしても…デニスの捕獲は私の手に余るわ。
最後の一人を落としたときーーーミシェーラの目には彼がどこか残念そうにも見えた。もっと戦いたかったのかもしれない。
休むこともなく、団員たちが向かい合って剣を撃ち合う間を、デニスがひどく真剣な顔で歩き始める。
制服の上に一人だけ身につけた黒は飾りではない。
実力で団長と呼ばれる彼は、苦戦していそうな隊員を見つけては短く指示を飛ばす。
ジョシュアの命令を無視して王宮へ帰ろうか本気で逡巡していたミシェーラだが、ふと、ひと組のペアが目に止まった。
ーーーあの人たちサボってるわ。正義を司る騎士でもやっぱりいるのねえ。
明らかに手を抜いている騎士たちがいた。
二人は同じような白髪混じりの青い髪。
ベテランにも見える彼らだが、いかにも気怠げに剣をぶつけ合う。
ミシェーラが興味深そうになまける騎士を見つめる中、少し離れた場所で指導を行っていたデニスも二人の様子に気がついたようだ。
デニスの紅蓮の瞳が二人組を捉えた。
霞のように彼が消える。
ミシェーラは驚嘆の眼差しでデニスを見た。
だって、急に現れたように見えた。
サボっていた二人の間に体を滑り込ませたデニス。
降りかかってくる二つの剣を事もなげに受け止めーーー間抜けな顔をしている二人を交互に見た。
そして一喝。
「剣を舐めんな」
ものすごい剣幕だった。
デニスの放った威圧で息が詰まる。
競技場が死んだような静寂に包まれた。
ミシェーラは目を丸くしてデニスを見ている。
ーーーずいぶん荒れてるわね?鬱憤でも溜まってるのかしら。
激昂する騎士の前で固まっている二人の騎士の顔色が騎士団服と同じくらい白くなった頃。
場違いなほどに、のんびりとした静止が入った。
「デニス団長、怒りすぎですよ〜」
薄紅色の髪を後ろで一つに束ねた彼女。
デニスほどではないが長身で、スレンダーな美人だった。
無言で部下を睨みつけているデニスの腕にそっと寄り添うと、宥めるように撫でる。
「本当に剣バカだな〜団長は」
からかうように笑う彼女に毒気を抜かれたのかーーーフッとデニスの威圧が消えた。
デニスは未だに震えている部下二人から視線を逸らすと、「離せ」と短く言って桃色の髪の部下を振り払う。
時折ミシェーラの方に視線を向けるのがおかしかった。
そんなに心配しなくても告げ口したりしないのに。
ミシェーラたちの間で行われていた水面下のやりとりには気づかず、そっけないデニスの態度に拗ねたように唇を尖らす彼女。
「団長ってば、せっかく仲裁に入った副官に冷たすぎますよ」
デニスは彼女の方を見る事もなく「ん」と言った。
ーーーどうやらこれがデニスの通常運転のようだ。
「全くも〜」と文句を言いつつも元の場所に戻っていく副官。
ミシェーラは少し残念そうな顔。あの美女とデニスが恋仲なのかと勘ぐったのだ。
むくれる部下には目もくれずーーーデニスは気まずそうに髪を掻きむしった。
そしてややためらいがちにーーー先ほどから直立不動で立ち尽くしている二人に言う。
「すみません、あなた方の剣はもっと良くなるっていつも思ってたから。ーーー剣のことになるとすぐアツくなるの悪い癖っすね」
デニスはきっと見ていなかっただろう。
すぐに踵を返し、訓練を終了させていたから。
でも、上から見ていたミシェーラにはよくわかった。
デニスに注意された二人がーーー少し嬉しそうな顔をしていたことも。照れたようにお互いを小突きあっていたことも。
「相変わらずたらし込んでるわね〜、あ、お出ましだわ」
ミシェーラは素早く一歩後ずさり、隣に立っていた護衛が頭上を見て小さな悲鳴を上げた。
一瞬影が差した。
空から現れ、音もなく着地した人物がいた。
…どうやら訓練場から身体強化で飛び上がってきたらしい。
音もなく着地したデニスは悲壮な顔でミシェーラを見た。
「ーーーまだ陛下は俺を追い回すの諦めてないの?」
ミシェーラは苦笑する。
「陛下もなかなか酷よね」
デニスはしばらく黙り込んでいたがーーー痛みを隠すように小さく笑った。
「流石に今日はさ、我慢しなきゃって思うんだ」
デニスは胸に手をやりかけーーー友人の前だったと何とか堪えた。
雑念を振り切るように首を振ると、デニスは真面目な顔を作った。
ミシェーラに向け簡潔に言い渡す。
「俺、戻らないよ。今日だけはね」
迷いないデニスの瞳を見てーーー自分の一連の行動が徒労に終わったことを察しミシェーラは嘆息した。
微苦笑を浮かべ肩をすくめる。彼女自身もその方がいいとは思っていた。
デニスが思い詰めたように東を見た。
ちょうど王宮のある方角だ。
ミシェーラは自分のメイドがデニスに見惚れていることに気がついた。
思いを焦がす彼の姿は周囲の者を魅了してやまないようだーーーたとえデニス本人が望まなくとも。
ミシェーラの口から溢れでた言葉。
デニスは仄暗い笑みを浮かべた。
「ーーー俺にそれができると思う?」
やりきれない思いがした。
皆が幸せになる道はないのか。
ミシェーラが口をつぐんだときーーーミシェーラの護衛が悲鳴を上げた。
頭上に再び差した影。
現れた騎士二人を見て、ミシェーラは額を手をやって頭を振る。
「ーーーお兄ちゃんたちまで跳んでくるなんて。ブライヤーズ家には階段がないの?」
両手をポケットに突っ込みながら軽薄そうに笑っているのがデニスの長兄であるジュリアン。
緩慢な動きでデニスに近寄っていたのが次兄のブランドン。
あ、ブランドンがデニスに抱きついた。
「今日もデニスは世界一可愛い」
三兄弟は全員騎士なわけで。
筋肉だるまに包まれたデニスが体を凍りつかせている。
「ちょっと、にいちゃん。離れて。きついよ、流石にこの光景は」
デニスが張り付いたブランドンを引き離そうと腕を叩くが、ブランドンはますますデニスにへばりついている。
こいつら仲良いな。
デニスはやがて諦めたようだ。(彼は基本兄たちに勝てない)
途方に暮れた顔をしながらブランドンにされるがままになっている。
ブランドンは気の向くままにデニスの腕をさすったり、胸板を叩いたりしながら「痩せちゃったね」と寂寥感たっぷりに言っていた。
じゃれあう弟たちなど視界に入ってないとばかりにミシェーラへと甘いマスクを向けてきたのはジュリアンだ。
「今日もミシェーラちゃんはオレーン(うさぎに似た愛玩魔獣)のように可愛らしいね」
流れるような賛辞に続いて頬へのキス。
久々の再会にミシェーラは顔を綻ばせた。
「ジュリアンお兄ちゃんも訓練素敵でしたよ」
幼い頃から妹のように可愛がっているミシェーラの言葉にジュリアンは得意げに胸を張る。
デニスの兄たちはデニスへの報告のために来たらしい。
「なんか去年に引き続きPAとIAが出てるんだよね」
祝いの日に相応しくない軍事コードにミシェーラが眉を顰める。
ブランドンを貼り付けたままのデニスも険しい表情だ。
「にいちゃんそれ誰情報?場所は?」
表情を引き締めたデニス。
ブランドンはかったるそうに「黒竜団長行ってるから平気だよ」と断じた。
デニスは腕を組んで目を閉じた。
葛藤している様子だ。
「王宮に近づきたくはないが騎士団長として襲撃者の確認に行くべきか」と言ったところか。
時間にしてものの数秒。
開かれた紅蓮の瞳が使命に燃えているのを見て、兄たち二人は呆れ顔になっている。
「シャロン黒竜団長が来てるから絶対放っておいて平気だって」
ごねるブランドンをそのままに、デニスは長兄へと顔を向けた。
「ミシェーラちゃんをよろしく。ーーー俺はコレとIAに対応してくる」
背中にへばりついたままだったブランドンをおんぶするようにして、走り去ったデニスをジュリアンが呆れ顔で見送っていた。
「ーーー放っておきゃあいいのに」
ミシェーラは目を細くする。
かけらでも彼女に危険が迫っていると知れば、動かずにはいられないのだろう。
「呆れるほどに真っ直ぐですよね」
◯
イタリア襲撃の一報を受けたデニスたちは王宮内にいた。
標的はすでに中心部に位置する黒竜教会まで潜り込んでいるらしい。
夜中行われるパーティーの招待客でごった返す王宮内。
デニスとブランドンは人並みを泳ぐようにして、早足で分厚い絨毯の上を移動した。
デニスの表情は硬い。襲撃者の位置が予想以上に陛下夫妻に近かった。
程なくして見えてきた白い建物。三角の屋根の下には大きな鐘がついている。
開かれた扉。聞こえてくる優しげなパイプオルガンの音色。
何列にも並ぶ艶のある木製の椅子はかなり埋まっていた。
司祭が黒竜様の素晴らしさについて説教しているが、連れてこられた子供たちはどうやら退屈しているらしい。抑えきれていない囁き声が聞こえる。
デニスたちは何食わぬ顔で最後列へと滑り込む。
仏頂面のブランドンがにゅっと差し出してきたのは聖書だ。
ーーーどうやらデニスが襲撃者を追いたがるのは予想通りだったようだ。
「お前の行動なんてお見通しなんだよ」
不貞腐れたように呟くブランドン。
デニスは面倒くさい人だなあと思いつつもありがたく聖書を受け取った。騎士団服というだけでも浮いているのに、手ぶらは目立ってしょうがない。
聖書へと視線を落としたまま気配を探るデニス。
一人だけ明らかに魔力が明るい老婆がいた。
ーーートン、トトトトトン。
デニスの送った信号にブランドンがわずかに頷いた。
同じ意見らしい。
デニスは一人で行くようだ。
ブランドンに「サポートは任せた」と言い残して走り出す。
「ーーーサポートなんていらねえだろ」
呆れ顔でデニスを見守るブランドン。
参列者に擬態するためだろう。杖をついて背中を丸めている刺客。
だが見た目通りの老婆なはずもなくーーー気配には敏感だった。
音もなく近づいてくるデニスを視界に捉えると、
「うわ、最悪。デニス=ブライヤーズ…」
放り出された杖が壁に当たってカタンと音を立てる。
金色の魔力を練ろうとした刺客。
しかしデニスの上段蹴りの方が疾かった。
垂直に振り下ろされる踵。
黄色の魔力が霧散した。
刺客は咄嗟に身体を仰け反らしたあと、短く舌打ち。
どうやら魔法を諦めたらしい。
袖口に隠し持っていたダガーを取り出した。
近接戦はデニスの得意分野。口元が綻ぶ。
刺客が上から全力の突き。
デニスは右肘で軽く打ち払った。
「遅すぎ」
よろめいた敵の隙を見逃す彼ではない。
デニスはうすら笑いを浮かべながら素早く身を翻し、手刀で刺客の後頭部を叩きつける。
魔法を使う隙さえ与えない一瞬の攻防。
崩れ落ちた小柄な襲撃者。
苦もなく他国の手練れを制圧したデニスだがーーー表情は晴れない。
つまらなそうな顔で床に転がった刺客を魔力で縛り上げると胸元から魔力通話を取り出した。
「ーーーIA制圧完了。教会に受け取り要請」
刺客を引きずるデニスの後にブランドンが続く。
讃美歌を歌い終える前に消えていった大柄の騎士二人を後方列の参列者がぽかんとした表情で見送った。
デニスたちは黒竜団長に身柄を引き渡すと、逃げるように王宮を後にした。
プロイセンの襲撃者は黒竜団長が制圧したらしい。もうデニスの心配事は無くなった。
移動プレートの法定速度を超越したスピードで王宮から離れる弟をブランドンが可笑しそうに見ている。
黒飛竜の毛皮でできたマントで全身すっぽり覆っているあたりがデニスの本気を表していた。
陛下はデニスの魔力の匂いを辿れるのだとか。黒飛竜の毛皮で誤魔化してようやく安心できるのだそうだ。
それ、下手したらストーカーでは?という言葉をブランドンはなんとか飲み込んだ。
「陛下はお前のことえらく気に入ってるよな」
随分と濁した兄の言葉だったが、デニスはしょっぱい顔になる。
それもそのはずーーー
「恋敵に気に入られるとか、ほんと最悪」
浮かない顔つきのデニス。
世界最強の魔法使いにこれだけ気に入られて本気で嫌そうな顔をするのなどデニスくらいであろう。
ブランドンは黙って弟を抱擁した。
耐え忍ぶ彼には温もりが必要だと思った。
されるがままのデニス。
ブランドンには弟が幸せになってほしいと願うことしかできない。
ーーーだって、彼もブライヤーズ。ブライヤーズ家の宿命は身をもって感じている。一度愛したら戻れないことくらい自分でよくわかっていた。
愛する人を守るためーーーそれだけを胸に鍛錬を続けたデニス。
気がつけば歳の離れた兄の才能を抜き、騎士団長だった父も抜き。
歴代最年少で父に代わって騎士団長になっていた。
彼はそれでも止まれないのだ。愛人と呼ばれようが、これ以上強くなってどうするのかと問われようがーーー哀しいまでにデニスは揺るがなかった。
「俺もひいじいちゃんみたいになるのかな」
デニスとブランドンの曽祖父は天才的な騎士だった。
それこそデニスによく似ている。
当時の最年少騎士団長になったのは彼だったし、生涯独り身を貫いた。
ブランドンは何も言えなかった。
デニスも答えを望んでいるわけではなかったのだろう。
郊外の森へとやってきた二人。
鬱憤を晴らすように大型魔獣を斬りつけていく弟を心配そうにブランドンが見ている。
五十体ほどいた巨大芋虫の群れを二人で殲滅した後、流石に疲れたのかデニスが倒れた木の幹に腰掛けた。
ブランドンは黙ってロングソードについた魔獣の体液を拭っていたがーーー煮え切らない様子で口を開いた。
「俺は認めてないんだけどさ、ジュリアンが言ってたんだ」
珍しくはっきりしないブランドンの様子にデニスが不思議そうな顔になった。
「にいちゃんが?何を言ってたの」
ブランドンはこの後に及んで言いあぐねていたがーーーデニスの真っ直ぐな視線を受け、決心したらしい。
居住まいを正した。
「デニスはさ、ひいじいちゃんがプロイセンの赤竜を退けたのは知ってる?」
曽祖父の有名な武勇伝だ。デニスは即座にうなずく。
百年ほど前になるだろうか。弱り始めた前代の黒竜を赤竜が「見に来た」らしい。
これだけ聞くと友人への訪問のようだが、火を吹きながら来られた当時の国民はたまったものじゃなかっただろう。
しかしーーーその話をなぜ、今するのか。
腑に落ちない様子のデニス。
「ジュリアンが言うにはひいじいちゃんは選ばれたんじゃなかって。…俺、なんだか怖くなったよ。ジュリアンってばうちの一族は呪われてるとか言い出すんだぜ」
ーーー徐々にデニスにもわかってきた。
知らない方が幸せだったかもしれない。
首筋にショートダガーを突きつけられたような感覚。
マスキラばかりのブライヤーズ家。
ーーー考えてみれば変だ。外から迎えたフィメル以外はみんなマスキラ。
生涯一人のフィメルしか愛せない。
この呪縛のせいで、稀に不幸になる者が現れる。
若くして最愛のフィメルを亡くした曽祖父だとか。王妃を愛してしまったデニスだとか。
考えうる対価といえば他を寄せ付けない強さだろうか。
騎士団長は代々ブライヤーズ家だが、魔法士団長にそんな法則はない。
ブライヤーズ家の呪いにーーー曽祖父は選ばれた。
じゃあ同じように孤独な俺は?
「俺はデニスは黒竜さま復活の役に立ったんだから、もうこれ以上苦労しなくていいと思ってる。…にいちゃんはまだ安心できないって言うけど」
デニスは霞がかった思考を振り切るようにわざと強い言葉を作った。
「黒竜を危険に晒すような真似は陛下が絶対にしない。ひいじいちゃんの時代と違って赤竜様だっていない。ーーーもうこの国はエンディングを迎えてんだよ」