前編
窓の外を、一匹の蛾が飛んで行った。おや珍しいと思わず目で追ってしまったのと、昼休みを告げるチャイムが鳴り響いたのはほぼ同時だった。
「それじゃあこれで4章は終わり。次回から5章に入ります。しっかり予習をしておくように」
教師山口の無機質な声がする。眼鏡をかけたこの女教師が若いにもかかわらずあまり人気が出ていないのはおそらくその無機質さへの恐れからではないだろうか。
「ねえちょっと」
そんなことを考える中で声をかけられ、朝陽は振り向く。声の主はクラスの中でも美人と評判で人気の天宮麻衣だった。
「これ、翔君に渡しといて」
そう言って天宮は一通の手紙を朝陽に渡すと教室を出て行ってしまった。
「おいおい、懲りずに2回目かよ。月野も災難だな」
松井をはじめクラスの何人かがはやし立ててきたが朝陽はそれを無視し、友人である月野翔に声をかける。
「昼飯行こっか」
購買部に足を運ぶ途中で、月野が朝陽に話しかけてきた。
「俺、確かにふったよな。天宮さんのこと」
「あきらめきれなかったんじゃないの」
クラスメート達がはやし立てたように、天宮は既に一度月野に告白している。それも教室の前、クラスメート達が皆が見守る中で堂々と。それに対する月野の答えはNOであった。
「クラス1のイケメンとクラス1の美女でお似合いだと皆言ってたんだけどな」
月野は文字通りのイケメンだ。おかげで告白されたのも天宮が最初ではない。それまでに何度も女子から告白されている。その度にゴメンと彼は断ってきていた。そんな月野と特に取り柄がある訳でもなく、見た目もパッとしない朝陽が仲良くするのを周囲は不思議がっていた。
「朝陽までそんなこと言うのか。ちょっとショックだな」
「だってあの天宮だもん」
クラスにおいてアイドル的存在として人気だった天宮が告白した際にはもしやと思ったのだが、彼女に対しても月野の態度は変わらなかった。天宮にとってはよっぽどショックだったらしい。月野に告白し、振られた日の翌日彼女は学校を休んでいたが、失恋が原因ではないかともっぱらな噂だった。
「正直彼女はなあ、ちょっと夢見がちな感じで……苦手だな」
月野が目をふせた。傍から見ていると、彼は笑顔でいる時より少し憂鬱な顔をしている時の方が、その美顔が映えた。
「ところでさ、放課後数学の5章の予習手伝ってくれない?この前見たんだけれど出来そうになくって」
話題を変えると月野の顔が一気に明るくなった。
「ああ良いよ。じゃあ放課後図書室でな」
この学校の図書室というのは、他の教室と比べてどうも暗い。それが何故なのか朝陽には分からなかったが、図書室に入るたびにそれが気になってしょうがなかった。
「だから指数っていうのは……」
先ほどから月野が解説してくれているが頭に入ってくれない。くるくるとペンを回しながら朝陽は思案に暮れる。
「聞いてる朝陽?」
月野の少し苛立った声に朝陽はゴメンゴメンと謝る。傍から見れば微笑ましいかもしれないその光景に冷たい声が押し入った。
「おい」
声の方を振り返ると、水無原颯が立っていた。
「ここは図書室だぞ。静かにしろ」
それほど大きい声出してないだろ、と月野が抗議すると、水無原はふん、と鼻をならしてその場を離れていった。
「あいつも困った奴だよな」
月野が肩をすくめる。月野は顔だけでなく、頭も良い。水無原も頭が良い。その為か、水無原はあきらかに月野をライバル視したような態度をとっていた。
外が暗くなってきた頃、朝陽があっと声を出した。
「そうだ俺新塚に呼び出しくらってたんだった。言ってくる。今日はありがとう。帰っといて」
新塚というのは朝陽や月野の担任教師のことである。
「別に。用事終わるまで待っとくよ。何の呼び出し?」
「良いから帰っといてよ。ちょっとした指導だってさ。こないだプリント提出しなかったからそのことかも。じゃあな」
月野を置いて朝陽は歩き出した。今日は制服にズボンを止めるサスペンダーを少しきつく締めてしまったか、少し肩が痛かった。
月野の趣味は、標本を作ることだった。月野の標本作りにたびたび朝陽は突き合わせられた。
「時々さ、言われるんだ酷いんじゃないかって」
「何が?」
「こうやって虫を殺すことだろう」
月野が笑った。
「でもおかしいと思わないか?普段から俺達は動物を殺して食べてるわけじゃないか。食べる為に殺すのは良くて、こうして趣味の為に殺すのは良くないのか?」
「お前は趣味の為でも殺して良いって言うのか」
「俺は良いと思うよ」
「本当に?」
「本当」
月野の目は真剣だった。彼は本気で言っているのだ。
翌朝、聞いていなかった全校集会が開かれた。
普段の恰幅から想像もつかないほど青ざめた様子の校長が口を開いた。
「今日、体育館の裏で2年5組の天宮さんの遺体が発見されました」