いきなりハーレム能力暴走
そして次の朝のことである。
ホレイントは、日の昇る前から物売りに身をやつし、城の門から出た。
夕べの唇の感触は、まだ覚えている。
だが、シーツのないベッドにいつ倒れ込んだのかは記憶になかった。
起きてから窓の下を探してもみた。
しかし、ハンカチ1枚さえも落ちてはいなかったのである。
霜の下りた門の外に立って、それとなく少女の姿を探してもみた。
もちろん、シーツ1枚をまとっただけの少女など見つかるわけがない。
城中の裏門に女の子が現れたときは心臓が高鳴ったが、見ればまだ幼かった。
朝採りの野菜か何かを背負っている。
出入りの商人の使いだろう。
門の前に立つ番兵に出す通行証を出そうというのか、懐をごそごそやっている。
ホレイントは、その前に立つなり、その目を見つめた。
「顔見知りの洗濯女がいたら、昼にこの門の前に来るよう伝えてくれ」
女の子は、じっと見つめ返してくる。
一か八かの賭けだった。疑われたら終わりである。
だが、金を掴ませようにも、懐には金貨しかない。子どもの小遣いには多すぎる。
かえって商人の不審を招き、宮殿に下手な問い合わせをされかねない。
困っていると、女の子は答えた。
「うん……分かったよ、お兄ちゃん」
子どもには似つかわしくない、潤んだ目が朝焼けの光に輝いていた。
門番に通行証を見せると、城中へと入っていく。
やがて道行く人も増え始めた頃、女の子が出てきた。
声をかけようとすると、ホレイントを見つけて駆け寄ってくる。
それで成否の見当はついたので、目をそらして足早に逃げた
しばらく歩いたところで、背後から夕べの少女の声が聞こえた。
「それでいいわ……」
振り向いたときには、朝日の光の中に行き交う人々の群れがあるばかりだった。
女の子は、もう追ってこなかった。
日が高くなってくると、王弟などというのは暇なものであった。
兄が、政治に興味を失ってでも入れば代理を買って出ることもできる。
だが、宮女を駆り集めるようになっても、兄は務めをきちんと果たしていた。
但し、全てはあの妃に伺いを立てないと進まない。
それが面白くなくて、狩りだの何だのと理屈をつけては外に出ていたのだ。
だが、この日ばかりは事情が違った。
日没までに、宮中の女の下着を全て調べなければならなかった。。
微行と理由をつけて護衛付きで外へ出ると、裏門の前に立っている女がある。
年のころは、ホレイントとそんなに変わらない。
護衛に足止めして近寄ると、目が合うが早いか、女はするすると近寄ってきた。
「洗濯女にございます」
聞かずとも、自分から名乗ってきた。
木綿の服を突き上げる胸が、くっきりとした谷間を見せている。
護衛の目もあるので、用件を手短に告げる。
「王弟ホレイントである。洗う下着に数字が刻まれていたら、日暮れにここで告げよ」
そこで金貨を与えようとすると、女はその前に答えた。
やはり、潤んだ目を向けながら。
「ひとつ残らず調べてまいります」
護衛が駆け寄ってくるよりも早く、女は裏門の向こうに消えた。
何があったか、護衛は真面目な顔で尋ねてくる。
外を出歩く怠慢をたしなめたのだ、とホレイントは答えておいた。
市中を歩きながら、それとなく夕べの娘を探して歩いた。
大道芸人が剣を呑んだり、底のない空の樽から無限に豆を掴みだしたりという様子も眺めてはみた。
それはあくまでも芸であって、人を惑わす類のものではない。
あの銀色の髪を短く刈った少女の姿もまた、どこにもなかった。
ただ、気になったことはある。
若き国王エインファルデュールについての噂である。
妃を迎えて女を知った後、側室をむかえるだけでは飽き足らなくなったというのだ。
片端から宮女たちを寝所に招き、手をつけているというのである。
それは、ホレイントが最も恐れていたことであった。
夕方まで市中を見て回って、再び城の裏門に戻ったときである。
あの洗濯女が、家路を急ぐ人々の間を縫って駆け寄ってきた。
護衛が腰の剣に手をやるのを押しとどめて、こちらからも歩み寄った。
「分かったか?」
一言だけ尋ねると、洗濯女は熱い吐息と共に耳元で囁いた。
「陛下の生まれた月日にございます」
ホレイントは護衛の目を気にしながら、懐の財布に手をやった。
「宜しい。褒美を取らす」
囁き返すと、洗濯女は一言だけ答えた。
「そのお情けだけで充分でございます」
「情け……?」
何のことだか、全く見当もつかなかった。
その身を翻して去っていくのを呆然と見送っていると、護衛が再び周りを囲んだ。
気にせずともよいとだけ告げて、ホレイントは城に戻った。
父王の治世の頃から、晩餐は豪華ではなくなり、身内だけの質素なものとなった。
だが、兄が即位してから、ホレイントは夕食を共にしていない。
あの妃が、夫婦だけで食事をしたいと言い出して、後宮に兄を引き込んでしまったからである。
だからホレイントは、自室に運ばせた食事を1人で取ることになっていた。
次の朝には、王妃グレムジュからのバカげた難題に答えなければならない。
そこですぐに寝ようとしていると、食事を下げさせた従卒が困った顔をして戻ってきた。
「内密にお話が」
「申せ」
どれほど重大なことかと声をひそめて尋ねると、従卒は咳払いをして答えた。
「後宮の洗濯女が、お目通りを願いたいと」
あの難題について、何か誤りでもあったのだろうか。
「いかなる用か」
返事によっては、警戒しなくてはならない。
尋ねられた数が漏れていることをあの妃に悟られたら、正解をすり替えられる恐れがあるからだ。
従卒は目を背けて、答えなかった。
少なくとも、心配したようなことはないとホレイントは判断した。
「会おう」
そう言うと、従卒は深々と頭を下げた。
「思し召しにより、支度はしてございます」
何のことかさっぱり分からない。
促されるままについていくと、城の奥の、普段は使っていない小部屋に案内された。
人に聞かれてはまずい話だということなのだろう。
一言で命じた。
「人払いを」
従卒が無言で下がると、ホレイントは扉の中に滑り込んだ。
しばしの沈黙の後。
ホレイントが、凄まじい勢いで飛び出してきた。
従卒が静かに歩み寄ってくる。
「ご用はもうお済みで……」
「何だあれは!」
声を低めて尋ねると、従卒は怪訝そうに首を傾げた。
同じように、小声で答える。
「お情けを賜りたいと」
これで分かった。
部屋に入ると、ロウソクの灯の中に、あの豊かな胸をした女がいた。
無言で背中を向けると、清潔な白い夜着を脱ぎ捨てたのだ。
その裸身を見るが早いか、ホレイントは逃げ出してきたのだった。
「追い返せ!」
従卒は顔をしかめる。
明らかに、何か誤解していた。
「……お気に召しませんでしたか?」
弁解するのも面倒だった。
ホレイントは、いつになく唸った。
「いいから!」
そう言い捨てて、その場を離れる。
背後で起こっていることは、見なくても分かった。
従卒が部屋の中で、女をなだめる声が聞こえる。
逃げるように戻った自室には、もう1人の従卒がいた。
だが、見覚えがない。
「……誰だ?」
月明かりの中で振り向いたところで、それが何者か分かった。
あの少女、ドラウミュルだった。
従卒の姿で、悪戯っぽく微笑む。
「……ね? ちゃんと誘惑しないと、ああなるんだ。キミにあげた力が暴れ出して、女の人の心と体が一気に疼きだす」
兄に倣って、いかに腹立たしい話でもきちんと聞くことにはしている。
だが、それにも限度というものがあった。「お前は……!」
怒りと情けなさで、身体が震えた。
だが、ドラウミュルは気にする様子もない。
「キミが素敵だってこと、ちゃんと知ってた方がいいよ」
顔は笑っているが、目は笑っていない。
褒められているのか、けなされているのか、そこのところもよく分からない。
すっかり混乱したホレイントは、ムキになってごまかした。
「どうだっていい、そんなこと」
「どうでもよくない」
間髪入れずに、ドラウミュルは口を挟む。
だが、それを認めるわけにはいかなかった。
ホレイントは、建前を押し通すしかなかった。
「私はこの国を……」
自分よりも、まず、亡き父王の理想が大切だった。
だから、どこまでも真っすぐで、混じりっ気のない、心正しい国づくりが。
そのためには、常に兄の陰にいなくてはならない。
だが、どうしても、そう言い切ることができなかった。
「本当は、どうしたいんだい?」
ドラウミュルは更に問い詰める。
心の中に膨れ上がる何かがあった。
どうしても、言葉にならない何かが。
「それ以上言うな」
固く目を閉じて身体の中から吐き出した一言は、それだった。
自分の中に潜むものを、真っ向から見たくなかった。
ドラウミュルは、呆れ果てたように言った。
「じゃあ、言わない。キミが正しいと思うことをすればいいんだ」
目を開けると、従卒姿の少女はどこにもいなかった。
ただ、開いた窓から冷たい風が吹きこんでくるばかりである。