樹海に咲う
タイトルは「樹海に咲う」と読みます。
「人は死んだら木になるの」
いつだったか恩人の洩らした言葉が、あと少しで最後の仕事を終えるというころに頭をよぎった。
気かと思ったら「樹木。植物のことよ」と私の頭の中を覗いたように続けたから、とても驚いたものだ。
それなりに長く勤めてきた職場の人間関係で悩み、日常生活にも支障をきたすほどの症状がでていた。離職の決心をして上司に相談したら無理に引き留められることもなく、きちんと時期を見計らって送り出してもらえた。いい上司に恵まれたものだ。戻る気があったら連絡してくれと社交辞令のような言葉と共に渡された名刺は実家のタンスの中に仕舞ってある。
離職してしばらくは家にこもっていることが多かった。
四十代の半ばを過ぎた私は定年退職した父と、結婚以来専業主婦を貫いている母と同居している。私の離職で一家の収入がゼロになったわけだ。もちろん貯金はそれなりにあるからすぐに支障が出てくるわけでは無い。父が稼いだ貯金が慎ましやかな生活費の大半を賄っていたし、その気になれば同居していない兄弟にたかるという手段も考えられる。そうなる前に何かしら仕事を探すつもりではあるけれど、今は休息が欲しかった。
うまく折り合いがつかなくて、離職から2カ月と少し経た秋口に家を出た。私の貯金を生活費に差し出すことで形だけでも理解を得られるならそうしたけれど、それで解決できることではなかった。そのうち帰ってくると楽観的に捉えているのか何か伝手をたどって探されているのかわからないけれど、どちらでも構わない。
結婚もせずそれらしき相手もおらず一向に身を落ち着けない娘へ募る思いはずっとあったのだろう。それがこのタイミングで可視化されたのだ。
孫の顔を見せてあげられないのは四半世紀以上明言し続けているけれど申し訳ない。そこは兄弟へ期待してほしい。けれど仕方がないのだ。理解できない他人と同居するなんて私には考えられないし、理解しようとする姿勢を私が取れない。結婚せずに子供を設けるなんて今の法制度じゃもってのほかだし。もうこの歳になったら過度な期待は風化しているものだと勝手に思っていたけれど、それこそ希望的観測だったようだ。
私自身何かを考えて家を出たわけじゃない。これ以上何を言っても私は折れたくないし家族が折れてくれることもないと感じて、ほとんど衝動的に出てきてしまった。鞄には最低限必要なものがいつでも入っている。着替えはないけれど、必要なら買えるだけのお金も通帳も持っている。
とりあえず、数時間歩いた先にある自宅の最寄り駅で下り電車に乗った。
ちなみに急に押しかけて泊まれるような間柄の友人は近くに住んでいないし、そもそも友人と言える相手の絶対数が少ない。たまの連絡をすると訃報かと心配されることもある。
恩人が樹海に消えてから四半世紀が過ぎようとしている。別れたときの恩人の年齢を、気付けば超えてしまった。
向かう先は決めていなかったけれど、まずはあの人と訪れた林に寄ることにする。
恩人について落ち着いて思い返すのは退職した日以来だ。
* * *
大学生をしていた頃、私は持ち前のコミュ障を発揮して周囲に馴染めないでいた。空いた時間は壁面がガラス張りになっている階段の踊り場に立って空を見上げたり、不格好に整えられた緑の裏に忍び込んで草の観察をしていた。
就職活動は早めに始めたけれど、なかなかうまくいかずに不採用通知ばかりもらって、気疲れを自覚した時があった。
卒業論文も仕上げなければならないし、一旦落ち着くためにと言いながらどちらが本分かわからないほど頻繁に風を浴びていた。風がよく通る場所へ足を運んで、ただじっとして、こころを落ち着けていたんだ。借りていたアパートから近い橋の上に佇んで川を見下ろしていることもあった。自然の流れを見つめていると不安を忘れて身軽になれる気がしていただけで、他意はない。なかったはずだ。
あまりにも真剣に見つめていたらしくて、ある時不意に、襟を後ろに引っ張られた。
振り向くと眉根を寄せた不機嫌そうな人がそこにいた。
小柄な私の目線より高い位置にある唇が動いて、何かを呟く。
一瞬何を言われたのか解らなくて、脳内で何度か繰り返してやっと判った。
「ここで不祥事を起こさないで」
声ももちろん不機嫌そうで、引っ張られるがままに橋から離れるまでは襟を手離してくれなかった。
よく解らない言葉に首を傾げると、何か誤解があったことを察したようだった。
「何か思い詰めているように見えたのだけど」
引っ張ったのが汎さん。私の恩人。あとになって連絡先を聞いた時に、名前だけ教えてもらえたのだ。それが本名かは尋ねたことがないけれど。
汎さんが私を真似るように首を傾げると切りそろえられた毛先が肩にあたる。
場所を移して、川の音が堤防の向こうに隠れる公園のベンチに並んで座った。汎さんは座高が低くて私よりも目線が低い。帽子のつばに隠れて瞳が見えなくなってしまった。
なぜ橋の上にいたのかを説明したら、驚いたような顔で見上げられてしまう。
「本当に、川を見ていただけなの……?」
そのあとに続いた大きなため息には、いったいどんな意味がこもっていたのか。
「邪魔をしてごめんね」
大きな橋からは、たまに身投げする人がいるらしい。
「勘違いさせるような格好してたあなたも悪いからね?」
それから度々、川のあたりをうろつくときに意識をすると汎さんの姿を見かけることがあった。じっと見ているとそれに気づいて話しかけてくれて、たわいもない会話をよくしたものだ。
それだけのことが当時の私にはとてつもなく救いになった。だから汎さんは、私の恩人なんだ。
* * *
川沿いの駅で降りて、線路沿いの道をまっすぐ進む。道が線路と離れても、道なりにまっすぐ。すると登山道入り口のかすれた看板が見えてくる。塗りなおされないのはその需要がないためだろう。
「川ばっかり見てても飽きるでしょう」
そう言ってある週末に誘われて案内されたのがこの林。というか山。
湿度が高いのか、林道の脇にまっすぐ並んだ樹には苔がついている。
始めは車両が通れるほどの広さで古いアスファルトがしいてあった道が、いつの間にか均して砂利を撒いたものになっていた。幅もひとがすれ違うのがやっとの部分が多くなってくる。
車が通れるくらいの幅はあるけれど、数度ここへきて一度も見かけたことはない。たまに人とすれ違うくらい。
頂上まで行くと展望台が整備されている。いくつかある他の入口から上ってくる人がいることもあるけれど、今は誰もいなかった。
見えるのは私の住んでいた町ではなくて、けれども訪れたことのある町と、その向こうの湾のはずだ。方向音痴の私には地図上の位置と記憶を一致させる術がない。スマホやタブレットを持っていればGNSSとかで位置情報と地図を照らして把握できるのかもしれないけれど、あいにく手元にそれらはない。
あの人はここで、何を見ていたのだろう。
あの時、汎さんは頂上につくと湿ったベンチに腰を下ろして、遠くを見つめていた。
少し彫の深い顔たちだったから、もしかすると視線の先には故郷があったのかもしれない。
しばらく何も言わずにそうしていてから、思い出したように私のほうを向いて「ここもいいでしょ?」と笑った顔を思い出す。
私は何か言葉を返したのだったろうか。
この時期はすぐに日が暮れるから、長く留まってもいられない。踏み外すと落ちる箇所がいくつかあるけれど、外灯もないから暗くなると道の端が判らなくなって危ない。背の高い木々のおかげで暗くなりだすとあっという間だ。
急いで下山して、駅の傍に見つけた民宿に泊まった。
翌朝は夜明けとともに光が部屋に入ってきて、目元がかぴかぴに乾いているのに気付いた。寝ている間に、夢の中で泣いていたのかもしれない。大学を無事卒業して実家へ戻ってから、一人で明かす夜は久しぶりだった。さみしくないと言えば嘘になるけれど、すぐに戻る気にはなれない。
顔を洗って、朝食をとったらすぐに宿を出て、また下り電車に乗った。
終点で降りて、乗り換えて。また終点で降りて、乗り換える。
窓の外の景色が動いてゆく。
私は全く動いていないのに、世界はひたすら駆けてゆく。
あの人と電車に乗ったのは、昨日の林へ行った時と、最後に別れた樹海へ向かった時だけ。
遠出をするよりも、あの川の周辺で顔を合わせて言葉を交わすだけのことが多かった。
順調にいけば、今日中に入口まではたどりつけるだろう。
* * *
あの日、青く茂る木々の下で陰に紛れるように、汎さんは手を広げて言った。
「こんなに生命力にあふれた場所はないよ!」
薄い表土の影響で根がほとんど地上と言ってもいい浅い場所を這い、何かの壁画で見た龍のようにうねっていた。汎さんはそれらに足をとられることもなく、潜むように転がっている岩やいたるところに存在する孔を舞うように避けながら道なき道を先導していった。
「こんなにも生きようとしている場所は、他に知らないや!」
出会ったときよりだいぶ長くなっていた汎さんの髪が意思を持ったようにちょこまかと跳ねる。
「人は死んだら木になるの」
足を止めて反応を待つような仕草をした汎さんに、他の動物は? と訊ねたら、つまらないとでもいうように眉を動かして答えてくれる。
「動物はみんな、死んだら植物になるんだ」
当然だろう? とでも言いたげな言葉の意味を私はイマイチ理解できなかった。あれから20年以上を経た今でもよく解らない。
食物連鎖のことを言っているような気がしたけれど、それを言うのは野暮というものかもしれない。
「植物が死んだら、動物に」
ひらりひらりと袖を揺らして髪をなびかせて、汎さんの声が言葉を紡いでいく。
「そして生命はめぐりゆく」
汎さんの論に則るのなら、無数の木が並んでいる樹海は言い換えれば無数の人の死が在るということになるのかもしれない。人の生命力を自然へと換えてしまうような、そんな摩訶不思議な力が、この場所にはあるのかもしれない。
「木が死んだら、大地になって次の命を育むんだ」
では人は何から生まれるのか。他の動物と同じように、植物からだろうか。
あの時の会話はそれで終わり。
帰りがけに、忘れ物を取りに戻るから先に帰りなさいと言われて。その翌日にやっとたどり着いた最終面接の予定があったから、私はその言葉に従った。
翌日は無事に面接を終えて、その後内定通知を受け取ることができた。
それ以降、川辺を訪れても林を訪れても汎さんの姿を見ることはなかった。
もしかしたら、あの樹海の木に仲間入りしているのではないかと考えたこともある。
その考えに至ってから後、樹海を訪れることができなかった。
予感が現実であったなら確かめる術はないし、確かめられたとして、その事実を受け止められる気がしなかった。
現実でなければいいと、いまでも願っている。
もし現実になってしまっていたのなら、木になった後、また動物へ姿を変えてひょっこり顔を出したりしないものか。きっと気付けないだろうけれど。
* * *
道中何事もなく、もうすぐ日が暮れるというころになってやっと樹海の入口へとたどり着いた。樹海の中は暗い。さすが樹木の海だ。茂った枝葉が少ない日光を遮っている。名前は判らないけれど一輪の花が影の隙間を繕うように咲いていた。
昼食をとっていないことを思い出したけれど、もう夕食の時間だ。それより泊まるところを探さないと。
踵を返したらこちらを向いている人影があった。どこかで見かけたような気がするけれど、すぐには思い出せない。探しに来た家族では少なくともない。
人影は動かないので、宿を探す私のほうから近寄っていく形となる。
癖のある髪をニット帽から覗かせて、動きやすそうな格好の軽装備でそこに立っていた若者は。
「なあに、その顔」
声で思い出した。おぼろげになっていた恩人の姿を。
その人は汎さんの姿をしていた。
記憶の中にある汎さんと全く変わらない。
四半世紀の時を皺の一本分すらも反映していない。
「狐にでもつままれたみたいよ?」
空は蒼く晴れているのに。
頬に水滴が落ちてくる。
天気雨だろうか。
「お化けだとでも思った?」
倒れ込むように寄りかかると、受け止めてくれるその体は若々しい。
久しぶりに触れた体温は思いのほか熱かった。
「まだ木になるには早いんじゃない?」
あの言葉を、汎さんも覚えていたらしい。発した本人なのだから、当然といえば、当然のこと。
返す言葉はでない。想いは声にならずに頬を濡らした。
「やけに身軽だね」
私が落ち着くと、汎さんが泊まっているという宿に私も呼ばれた。宿の主人とは顔見知りらしい。
家出中の身の上を正直に打ち明けると、ここにしばらく滞在してもいいと言われたけれど、早めに家に戻ることにした。まだどちらも折れることはないだろうけれど。それでも共に暮らすことができないような対立ではないと、いまになっては思う。
「ボクもそろそろ帰ろうかな」
汎さんの言葉に、宿の主人はやっとか、と洩らす。
「すぐにどっか行くもんだと思ってたら、もう何年だ、20年くらいいるんじゃないか?」
「24年」
「えらい長く住みついちまったもんだ」
「居心地よかったんだもん」
あの日別れてから、ずっとここにいたのだろうか。道理で他の場所で出会えないはずだ。
「もう、大丈夫かと思って」
汎さんの言葉が何を意味するのかは判らない。
けれど、どこか晴れやかな気分だ。
* * *
翌日のお昼になって、私は宿を出た。汎さんと一緒に。宿の主人はもう歳だから、最後の常連だった汎さんを送り出すついでに宿を閉めると言い出した。
「今までお世話になりました」
汎さんは丁寧にお辞儀をして、宿をやっていなくても会いに来ると告げていた。
一度樹海の入口へ目をやると、昨日の花はなくなっていた。見間違いだったのかもしれない。
いままで何をしていたのかはどう聞いても話してはもらえなくて、私は無職になったことくらいしか話のタネはなかった。
途中で一泊して、実家の最寄り駅についたら、私だけが電車を降りる。そのまま汎さんの乗っている電車を見送った。大学生だった頃に住んでいた場所はここから少し離れている。
家まで歩くと、道中小さな橋を渡る。その側にある小さな祠の脇に、黒い猫がいた。この辺りでここまで真黒なものを見かけた記憶はない。祠に手を合わせて、猫に会釈をしてその場を離れる。黒猫は幸運を運んでくるとか死者の魂を運ぶとか言われている気がするけれど、ただの黒い毛をした猫だ。ご近所さんなら仲良くしておいて損はないと思う。母が猫嫌いだから実家で暮らし続けるなら面倒を見ることはできないけれど。
実家に帰ると、どこに行っていたのかと今までのことを聞かれた。気付けば一週間がたっていたらしい。どうも私の体感と計算が合わない。
足元で黒猫が鳴いた。ずっとついてきていたのだろうか。全く気付かなかった。
「あんたこんなもの連れてきて」
母が黒猫に気付いたことで、私への追及が不思議と収まる。
しっしっと母に手を払われても黒猫は私の足元を離れない。
もしかして私の味方をしているのだろうかとよく解らないことを思った私の伸ばした手が触れる前に、黒猫は走り去っていった。
夕食時に、テレビのニュースにあの樹海が映った。弱っていた老齢木が倒れて傍らの家屋に直撃したらしい。映像をよく見やれば、それは私たちが宿泊していたあの宿だった。怪我人の情報はないとのことだけれど、宿の主人の具合が気にかかる。
* * *
あれから私はパートとして近場のスーパーに勤めるようになった。正社員になる気はないし、なれるとも思わない。黒猫は通勤の時にたまに現れて、手を伸ばすと逃げるのだ。
クリスマスの時期に松ぼっくりを差し出したら、小さな口に咥えて逃げていった。
人は死んだら木になるらしい。
私は死んだら松にでもなりたいな。
炭にしてもらって、凍える人に暖を取ってもらえたら重畳。