3-2.月の代理
例えどれほどに苛烈に見えても、あれは必要な措置だった。特に西の女王が虎視眈々とその萎びた手を南の領地の端にかけていたあの時、南の紅き鷹は誰にも舐めて見られるわけにはいかなかったのだから。
皇を弑するという手段で無理やり交替せしめた者が、次の皇位を認められた正当なる後継者たちであったとしても。皇の妃を含めた、ほとんど全ての皇の血縁者たちであったとしても。継承権を争って無駄に時間を食い潰すわけにもいかず、次皇の即位と皇の権威を貶めた全ての者への処断は急を要していた。
そしてそれを確かに理解していたのは、皮肉なことに誰より皇に相応しくないとされていた彼だけだった。認められていなかったために皇に対して誰より潔癖であった彼以外に、国外的に即位して面目の立つ者は他になかった。
相談できる相手を持たないまま、彼はただ一人部屋の中で闇と向き合っていたのだろう。父皇を殺した連中とはいえ自らが血縁殺しとなる覚悟と、皇位を継ぐという重責に立ち向かい、それを背負うことを是とするまでにどれほどの葛藤を経たのかは想像しかできない。
アレイネたちが知っているのは、彼が決断して決行したことだけ──今までの風のように気儘で自由だった日々と訣別し、国を救うために動き出したことだけ。
母と、母を同じくする兄と姉の血に染まって闇に佇んだ彼は、その身に纏った色よりも肉親の血にのみ汚れて誰よりも紅かった──紅き鷹の王として、相応しいほどに。
壮絶なその風景に、不審な物音を聞きつけて集まってきた皇宮の警備や近衛たちは、彼を咎めるよりも言葉まで失って食い入るようにそれを見つめることしかできなかった。
大皇太后がその場に姿を見せるまで、誰一人として動く者はなかった。
「これは……、どういうことだ」
嘆くように尋ねた大皇太后を、彼は虚ろな瞳で一瞥して剣を一振りした。
粘つくような赤い雫が僅かだけ取れ、それでも輝きを赤の下に閉じ込められた剣の如く、彼は誰のことも見ないまま厳かに告げた。
「皇を討ちし者、全てをこの手で処分した。皇が子の名に於いて」
感情の篭らない言葉は、それでもその場にいる全員を打ちのめすだけの力を持っていた。
彼は共に赤く濡れた二人の幼馴染を従えたまま、緩慢な動作で剣を鞘に収めた。そうしてようやく集ってきた全員に向き直り、藍の瞳で一人ずつを見据えると僅かに唇の端を持ち上げた。
「皇の御位は空いた。血で贖う覚悟のある者はこれに座れ。ない者は黙して従え」
傲然と宣言されたそれに、逆らえる者があるはずがなかった。肉親殺しであろうとも、もう彼より他に玉座に相応しい者はなかったのだから。
そうして皇位に就いた彼がどれだけ冷酷無比だと民や臣下に怖れられようと、側に侍り続けるフォードやシェルクと同じく、アレイネに彼を見捨てる気がないのは彼の真実を知っているから。
全ての決断をしたあの日、彼は確かに泣いていた──誰にも悟られないように、気づかれないように声も涙も殺して。叶うならば声を上げて泣きたかっただろう理由は想像しかできないが、それをさせなかったのはアレイネであり、二人の幼馴染だった。
あの時は彼が心配で部屋の前で侍ることしか思いつかなかったが、そのために彼は部屋の中でさえ泣けなかったのだろう。
あの時に彼が声を上げて泣けていれば、何かが変わったのかもしれない。変わらなかったのだとしても、もう覆らない過去の後悔はアレイネを未だに苛んだ。どれだけ不遜な態度を取っても彼がアレイネを見捨てないように、彼がどれだけ傲慢になっても命じると言われて膝を屈するのは、彼が皇だからではなく、アレイネがずっと知っている彼が残っていることを知っているから。
ただ血縁を殺して皇位に就いたという事実が、血の紗をかけているに過ぎない……。
「──今が例えどうであろうとも、あの時、皇が間違っておられたとは思いません。今でも皇のなされたことは、正しかったと思います」
寝台の側で過去を振り返っていたアレイネが呟いたそれに、大皇太后は目を伏せたまま、そうよなと小さく頷いた。
「惨いことをさせた……、あの時にもう少し私の力が強ければ、穏便に皇を退位に追いやることはできたろうに。皇が弑されることもなく、あの子が血縁殺しの汚名を被ることとてなかったろう」
あの時のことを振り返る度に、大皇太后は自分の無力を嘆いては泣いているようだった。
どれほどに重い枷を、心から自由だった太陽につけただろうか。皇として上手くやっている姿を見る度、民が皇の苛烈なるを嘆く度に大皇太后の心は重い鉛を抱え込んだのだろう──それが彼にとって、何の意味もないと分かっていても。
いっそ彼の前に膝を突いて謝罪すれば、少しは罪悪感も晴れるかもしれない。だが、それはあくまでも彼女の勝手な思いでしかなく、彼を追い詰めるだけだろう。それを知っているからこそ、大皇太后はその罪を重く抱えたまま、絶対神の御許に赴くことを自身に課したのだ。彼に蔑まれることだけはないように、剣として最後の誇りを持てるようにと……。
「お祖母様、あれはお祖母様のせいではありません、どうぞお気に病まれませんように。私どもの親兄弟が……、思ったよりも愚かで破滅の道を進んでとったにすぎないのですから」
「だが、それを全てあの子に贖わせることはなかった。あの子はあのせいで、余計に皇という檻に囚われてしまったろう」
最後の懺悔のように嘆いた大皇太后の手を取って、アレイネは強く頭を振った。自分にできることが、もはや彼女のそれを受け止めることしかないと知っているから。
「あの男はお祖母様が思われるよりも、ずっと図太くて頑丈ですわ。それに……、全ては絶対神の思し召しでございましょう。陛下がそうされるとしても怒鳴りつける先はきっと天にございます、お祖母様を恨んでいるという話は聞いたことがございませんもの」
お心を安らかにと宥めるように告げたそれに大皇太后は泣き出しそうに笑って、彼女はアレイネの焦げ茶の髪を優しく撫でてくれた。
「優しいお子だの」
いい子だねと何度も撫でてくれる手に、もう随分と力が入らなくなっているのに気づく。アレイネは慈しむような光を浮かべた青い瞳で大皇太后を見下ろし、抱き締めるように顔を寄せて頬に口接けた。それしかできないで無力感に苛まれていると、大皇太后はゆっくりと手を離して呟いた。
「レフィン、──セーティナを許しておやり」
「お祖母様……?」
「昔は仲がよかったろうに。皇として頑なになっていったセーティナに腹を立てるも分かるが、それがあの子の望んだ結果ではないからだろう? そしてそれとても、あの子のせいではあるまいに」
そうであろうと尋ねられ、アレイネは視線をふらつかせてやがて落とした。
「それは……、分かっているのです。でも陛下が変わっていかれたのを、私はただ眺めていることしかできませんでした。それならばフォードたちのように受け入れてしまえば良かったのに、それさえできないで……」
変わっていった彼は、皇という地位に負けているような気がした。尊敬する彼が負ける姿を直視したくなくて、戸惑っている間にどんどんすれ違っていった。そして気がつけば、記憶を失って戻ってきた。
どう対応すればいいのだろうと泣きそうになると、大皇太后は目を細めて小さく頷いてくれた。
「何も無理をおしと言っているのではないよ、レフィン。ただ息もできぬほど追い詰められていたも、記憶を失って戻ってきたも確かにセーティナなのだから。セーティナを許しておやり。そうしてお前のことも許しておあげ」
私の孫は不器用だこと、と少し声にして笑う大皇太后にアレイネは複雑そうに顔を顰めた。
「私は……、私の思うままに生きて参りました。ご無礼を承知で申し上げれば、ご自分を許される必要があられるのはお祖母様ではあられませんか?」
「ああ、それでは不器用なのは私の血かの」
許しておくれと強ち冗談でもなさそうな大皇太后の謝罪に頭を振ろうとした時、急に目の前が暗くなった気がした。何事と思う間もなく抗いがたい力に負けて、アレイネはそのまま崩れ落ちた。
いきなり部屋の照明が落ちたことよりも、労わるように覗き込んでいたアレイネがぐらりと身体を傾がせたことに驚いて大皇太后は咄嗟に手を差し伸べた。けれどアレイネは彼女の手を掻い潜るようにそのまま膝から崩れ落ちて、寝台に頭を乗せる形で気を失ったらしかった。
「レフィン……、レフィン!?」
戸惑って何度も呼びかけるものの応えがなく、恐慌しそうになる前に部屋を占める闇の中に、より暗い影が彼女の顔の上に差した。
「心配することはない、少し眠ってもらっただけだ。精霊の徴を持つ者に滅多なことはせんよ」
どこか笑うように告げた声に、心臓をぎゅっと掴み上げられた気がした。
恐怖ではなく、胸に広がっていったのは歓喜。僅かに期待しながら彼女が目を向けると、いつの間に入ってきたのかそこには漆黒の髪の人影があった。
「禁忌の……、月……」
震える声で何とかその単語を口にすると、それに応えるように人影は銀にも見える瞳を細めた。
闇の落ちた部屋でそれでも見ることの叶う人影は、近寄れば灰褐色でしかない瞳で彼女を見下ろしてくると軽く肩を竦めた。
「残念、月と呼ばれるのは我らが猊下だ。月は彼の地を易々と離れることは許されてなくてね、悪いが俺が代理だ。気を落としてくれるなよ」
「ああ、それでは……、月は私のことなどお忘れでは、」
「猊下は常に、古き皇の剣を気にとめておいでだ」
闇の紛れそうな褐色の肌をした月ならぬ月が告げたそれに、大皇太后は心が震える気がして目を伏せた。
「もうそれだけで、何も心残りはありませぬ……」
「やれやれ、皇が剣はすぐに心を偽ってくれる。俺がわざわざここに来たのは、それを伝えるためだけだと?」
「他に……、セーティナを罰しに?」
それだけはあってほしくないと震えた声で尋ね返すと、褐色の月は少し声を立てて笑い、安心させるようにゆっくりと頷いた。
「太陽は何も罪を犯してはおらんよ。ただ、見るも無残に翳っていたから雲が取り除かれたまでだ。猊下の思し召しはその時になるまでそうとは分からんが、剣が憂いを取り除く意味もあったんだろうよ。絶対神の御許に安らかに赴けるように、とのお言葉だ」
不吉な月ですまんなと苦笑しながら言う褐色の月に、大皇太后は泣き出しそうになりながら頭を振った。
「わざわざ足をお運び頂いて有難う存じまする。もう一度月にお目にかかりたいと、長く願って参りまし
た故」
「──真実の月でなく、俺ですまんな」
「いいえ、いいえ、片割れの森守り殿を遣わして頂けたは望外の喜びに存じまする」
色を違えただけでそっくり月の姿をした男性は、それでも幾分申し訳なさそうに頭をかいた。それから思い出したように服を探って、取り出した何かを掲げて見せてくれた。
「お前の望む物だと預かってきた。何を意味するかは分からんが、確かに渡したぞ」
言って差し出されたそれを手に取ると、彼女の手の中で姿を現してゆっくりと彼女の記憶に滑り込んだ。
それは懐かしい風の香り。遥か昔、彼女の皇と共に禁忌の月を迎えた時に感じた鮮やかな彩りの風。月が皇に祝福をと手を差し出すと、皇が彼女にこそ祝福をと望み、月がゆっくりと嬉しそうに微笑んだ時の記憶。
その鮮やかなる風が、きっと皇と皇の血に連なる者を救おうと、囁くように告げられた月の確約を思い出すと、それはやがて陽の光に溶けて消えた。
「ああ……、私は風を吹き止ませてしまいました。陽光を、厚き雲にて遮ってしまいました」
「月は全てをご存知だ。そして、許すと仰せだ」
厳かに褐色の月の片割れが告げると、大皇太后は風を受け取った手で顔を覆って泣き出した。
「泣くな、皇が剣よ。すぐに皇に逢えよう。望むる皇に逢い、皇の元に還るがいい。月が言葉は、絶対神の御言葉。月の許しは絶対神の赦宥だ」
「ええ、ええ、スティラシィア様。全ての罪を清算する機会を私にお与えくださいませ」
大皇太后は褐色の月ならざる月を通して紫を帯びた確かな月を見て、ゆっくりと微笑むと疲れたように目を伏せた。




