3-1.皇の成り立ち
寝台に横たわって目を伏せたままの大皇太后を静止できず、反らした視線の先には洋杯に八分目くらいまで入った琥珀色の液体があった。
大皇太后が持っていた薬草とアレイネが神殿から手に入れた薬草を掛け合わせて煎じた物で、柔らかな琥珀色からは想像もつかないほどひどく苦い強烈な痛み止めだった。これで最後となってしまい、新たに煎じようとしたのを大皇太后は僅かに笑って止めた──もう必要はない、と。
(お祖母様の命脈は尽きた……)
皇に知らせ、最新の医療を施せばまだ一年は保つかもしれない。それでも引き延ばせて一年だということは分かっていた。年老いた彼女にとって、これは寿命なのだから。それに、大皇太后は延命を望んでいなかった。全てを絶対神の御心にお任せするというのが多分彼女の最後の願いにして祈りだったから、それを無碍にしてしまうには躊躇うものがある。
「レフィン……」
掠れた声で呼ばれ、知らず伏せていた目を開けてアレイネが大皇太后を窺うと、彼女は何だかずっと年老いてしまったような影をその顔に落としながら、それでも柔らかく微笑んだ。
「お前には苦労をかけるの……、一人で抱えるは辛かろう」
「お祖母様、そのようなことを仰せにならないでください。それよりも、本当に陛下には知らせなくとも構わないのですか? 延命を望まれないのならば、私が命を賭しても阻止致します。けれどせめて、お報せくらいは……。いくら記憶を失うような戯けでも、あれでも皇ですわよ?」
「そう、皇たればこそ知らぬほうがよいよ……。記憶を失うたは、まぁ、お前たちには許せぬことやも知れないが、私にはこの上ない喜びであった。あの子は少し、皇という檻に囚われすぎていたからねぇ……。可哀想に、最近では息さえできなくおなりだったろう? ようやく、あの子は自分を取り戻せたようだ」
遠く、多分幼い頃の藍の瞳を思い出して大皇太后は目を細めた。
「お言葉ですがお祖母様、あの男は昔からああでしたわよ。皇となる前から偉そうでしたわ」
何となく素直に認めてしまうのが癪で、捻くれている自覚はありながらも反論すると大皇太后は楽しそうに笑い、揺れるように頷いた。
「あの子は皇になる前から、皇が何たるかを知っておられたからの。何より皇に相応しい御子が、宵の太陽として生まれたばかりに酷い仕打ちを受けて……」
不憫な、と小さく呟いて大皇太后は深く息を吐き出した。
アレイネは祖母の顔を見下ろしながら、皇の血を引く彼がこの皇宮の代々の誰にも似ていないことをぼんやりと思い返していた。
濃紺の髪、藍の瞳。常に黒しか纏わない彼を、誰が一見して南の皇と知るだろう。
南の皇の象徴は、紅き鷹。その身に必ず紅の徴を受けているわけではないが、それでも黒や紺などの色を身体に持つ者は今までになかった。母親がどのような色をしていたとしても、子供が皇の血を引く限り、何故かそれらの色は受け継がれなかったから。それなのに彼は、五番目の寵姫であった母親の色をそっくりそのまま受け継いでいた。
「これが本当に、陛下の皇子であろうか?」
口さがない者は、幼い彼に面と向かってそう言った。
彼は嫡流筋とはいえ十番目の末っ子で、上の九人の内には五人も兄がいた。従兄弟にはアレイネとその兄が二人、計十三人の皇位継承者があり、もう少し広く見るならば当時の皇の叔父が二人、その子らもあわせて十人はいた。
継承権を持つ者はつまり掃いて捨てるほどあり、その中でも皇位に相応しくない者はそれなりの待遇しかされていなかったが、殊に彼の扱いは酷かった。
アレイネならば嫡流ではなく末の娘で、継承権を持つ者の中で一番年少だったから兄や嫡流筋の皇子たちと比べて冷遇されるのは仕方がないと思った。それでも精霊の徴を持ち、精霊と通じることのできたアレイネは皇女ではなくとも神子としては厚遇されていたし、親兄弟はアレイネをそれなりに可愛がってくれていたのを知っている。
(それでも兄や、嫡流筋の皇子が羨ましかった。男ではないというだけで、皇の御位は必ず私の手に入らなかったのだから)
皇になりたいと、真実望んだことはない。それでも従兄弟たちは玉座に容易く手が届いていたし、皇となれる自負は彼らを内から輝かせていたように当時は思えた。
その中で臣下たちにさえ邪険にされ、皇自身からもさほど目をかけられずにいる嫡流筋の末の皇子を七歳の時に初めて見つけた。濃紺の髪、藍の瞳。その当時から黒しか纏わなかった彼を、兄は蔑むように笑って彼女に教えた。
「ご覧、アレイネ、あれができ損ないさ。皇の血を本当に引いているのかも分からない、決して皇にならざる皇子さ」
くすくすと笑う兄のざらついた声が不快で、アレイネは眉根を寄せたまま彼を見つめた。シェルクを相手に剣の稽古をしていたらしい彼は、アレイネたちに気づいてはいたのだろうが振り返ってくることさえなかった。
「下町の小汚い奴とはいえ赤髪なれば、一緒にいることで自分の髪も赤くなるとでも信じているのかね? 憐れな奴。あいつが皇になるくらいなら、私を皇にするという者のほうが多いだろうに」
何だか誇らしげに言う兄の言葉に、耐え兼ねた様子で怒鳴りつけてきたのはシェルクだった。
「殿下のことを何にも知らないくせに、黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって! 嫡流でさえないお前を皇に薦める奴なんかいるはずないだろ! 大体、殿下と剣を交えたら一瞬で負けて逃げ帰ることしかできないくせに!」
「何だと!? 皇の血も引かない下世話の輩が、私を侮辱するのか!」
「先に殿下を侮辱したのは、お前だろうが! 抜けよ、殿下に代わって俺が相手になってやる!」
真っ赤になって噛みついてくるシェルクに兄が剣を抜こうとするのを止めるより早く、彼がシェルクの頭をぽんと叩いていて止めていた。
「シェルク、控えろ。一応あれでも俺の従兄弟だ」
「けど殿下、あいつ!」
「それからフォード、お前も闇討ちするなよ。曲がりなりにも皇位継承者だ、傷の一つも負わせたら打ち首どころではすまないぞ」
笑いながら彼が振り返った先に、大人しく控えながらも瞳に怒りを滾らせているフォードを見つけてアレイネでさえ一瞬びくりと身を引いた。兄に至っては引くに引けないものの、必死に拳を作って恐怖に耐えているのが見て取れた。
彼は幼馴染たちを宥めると、藍の瞳を細めて兄に向かって軽く首を傾げてみせた。
「今のはなかったことにしよう、お互いに。お前の言葉は俺の兄上たちが皇位継承不能になられたら、という前提の元の話だ。いくら子供でも許してもらえないふざけだな、不敬と首を斬られる前に早く出ていけ」
失せろと低く脅すように言った彼のそれで、兄はアレイネの手を引くのも忘れてそのまま逃げ帰った。アレイネが一人残されて、どうしようと泣き出しそうになっていると彼が近寄ってきてやれやれと苦笑した。
「こんな子供を置いていくなよな、まったく。……アレイネ・レフィンだろう? これは貸しだぞ」
来いと手を差し伸べられ、アレイネは一瞬だけ躊躇って彼の手を取った。精霊たちが彼に祝福の歌を歌っているのが聞こえたから、悪い人ではないのだろうと繋いだ手を辿るようにして彼を見上げた。
幼い子供の目から見ても、当時から彼は十分に整った顔立ちをしていた。皇の血を引いているとは到底思えないほど、精悍で怜悧で、それでいてどことなく優しげな容姿に、手を引いて連れて帰ってもらってる間中ずっと見惚れていた。
「殿下、あんなむかつく奴の妹なんか放っとけばいいのにさ」
シェルクが憤然とした様子で後ろからついてきながら進言したが、彼は馬鹿かと楽しげに笑った。
「精霊に貸しを作るのは悪くない。それに、こんな子供を苛めたところで仕方ないだろうが。やるならぶちのめして気が咎めない本人に、正々堂々と仕返しでもするさ」
アレイネと手を繋いだまま、彼は軽く肩を竦めて言い放った。
そのままアレイネを後宮の彼女たちの住まいに連れていってくれる間中、精霊たちが彼の言葉に笑いさざめいていたのが何だか嬉しかったのを覚えている。
それ以来、アレイネは親や兄たちの目を盗んでは彼に会いに行った。
彼の側には常にフォードとシェルクが互いに手の届く範囲に侍っていた。彼は皇位などにはさっぱり興味もないらしく、どれほど心無い臣下たちに軽んじられようと気にした風もなかった。どちらかといえば幼馴染二人のほうが過激で好戦的で、彼は専ら宥め役といった風情だった。
「殿下は、皇になりたくはないのですか?」
一度だけ何気なく尋ねた時、彼はどうでもよさそうに肩を竦めた。
「必要性があるなら考えはするが、上に九人からいるだろう」
「でも殿下は六番目でしょう? 女性は、皇にはなれないって」
「それならどうして継承権があるんだ。別になればいいじゃないか、才さえあるならな」
「才……? 性別より才が大事ですか?」
「ああ、才はいる。男でも女でもどうでもいいが、才がない奴は皇にはなってはいけない。──今の皇が、いい見本だろう」
皮肉に唇を歪めた彼は、殿下、とフォードにきつい声で諌められて首を竦めた。
「アレイネ、今の殿下のお言葉は内密に願います。よろしいですね?」
「誰にも言ってはいけない、ということでしょう。アレイネだって、そのくらい分かります」
「精霊の徴を持つ者様らしいじゃん。フォードもそんなに目くじら立てなくったって」
笑って言ったシェルクに、フォードは嘆かわしいと溜め息をつき、彼が気にするなとアレイネの頭をぽんと叩いた。
「お前は精霊の徴があるのだから、皇になっても道を違えることはないだろうさ。皇になる気がないのなら、精々上手く立ち回って皇に精霊の声を告げてやれ。それが、お前がここに生まれた意義だろうから」
何でもなさそうにそう告げられたが、それならば皇になれないだろう彼や彼自身の兄弟姉妹、アレイネの兄弟の存在意義はどこにあるのだろう?
ふと覚えた疑問を結局は聞けないまま、アレイネは待ち構えていた運命に飲み込まれた。
初めて会った時から数年後、彼が十八歳になった時に父皇が斃れた。後に立つと決めるまでに時間こそなかったものの、悩んだ深さは計り知れないだろう。誰も寄せつけず自室に篭り、何も口にしないで一睡もせずに悩み抜いたに違いない。
出てきた時、心配そうに部屋の前に侍っていたフォードとシェルクに見せた、僅かに切ない笑顔にアレイネはぎゅっと心臓を締め上げられた気がした。
そうして感情を振り切るように一度目を伏せ、射るような藍の瞳が射竦めてきた時、アレイネは彼を皇と仰ごうと決めていた──例え次の瞬間、彼自身の手によって討たれるのだとしても。
「アレイネ・レフィン」
静かに名を呼ばれ、知らず頭を垂れると彼はアレイネの頭にそっと手を当てた。
「お前の親も兄弟も、全て討ち取る。皇に仇為した者に、容赦をするわけにはいかない」
それは断りではなく、宣言。父皇が斃れた陰にアレイネの親兄弟の姿があったのは、彼女も薄々気づいていた。
「陛下の御心のままに」
呟いたアレイネに、彼は少しだけ目を瞠ったような気がした。けれどアレイネが顔を上げた時には、もうこちらを見ないでフォードたちに振り返っていた。
「動かせるだけの兵を集めろ。俺に従う者だけだ、信用のならない者は一切使うな。俺はただの血縁殺しの反逆者だ、荷担したところで見返りはない。但し、俺は俺を助けた者の顔は忘れないだろう──逆らった者と同じほどにな」
薄く冷たい彼の笑顔は、この時から皇の表情として張りついてしまったのかもしれない。
彼の幼馴染であり気の置けない臣下たちは、直ちにと一礼を残すと余計な詮索を一切しないで駆け出していった。
「陛下──、血縁の全てを殺しておしまいですか」
不安になって尋ねたアレイネに、彼は視線だけで振り返るとそうだと頷いた。
「親父がどうなろうと俺の知ったことではないと思っていた──実際にこうなるまではな。だが、皇を軽んじる者を皇位に就けてやる義理はない。どれほど愚かでも諌め、正しき道に戻すのが臣下の勤めだろう。それができないのならば退位させればいい。南の紅き鷹、だぞ。間違っても闇の内に葬り去ってよいものではない」
それだけが許せぬ、認められぬと、多分に凶刃に斃れた父皇の姿を睨むように闇の彼方を睨めつけながら彼が呟いた。
「前皇陛下を弑し奉ったは……、陛下を除く全ての者とお思いですか」
「確証はないが、他に皇を弑せる者はあるまい。──お前は誰と思う」
「陛下のご推察通りかと。後宮で、より強く精霊が騒いでおりますれば」
泣き出しそうなまま、それでも事実を告げたアレイネを彼はしばらく見下ろしていたが、やがてぽつりと囁くように呟いた。
「許せ」
それだけを残して、彼は踵を返した。アレイネを手にかけることもなくそのまま闇の中に紛れていく背中を見送って、アレイネは初めて涙を溢していた。