2-2.月の剣
ゆっくりと白く湯気が立ち上る中、湯の中に広がっている淡い金の髪は立てば腰まで届きそうなほど長い。どこか紫を帯びたその金色を、湯の外にいる白い手が持ち上げて梳っていく。しかし金色の持ち主は何も気にした風もなく、瞳を伏せてただ湯に身を浸している。
「猊下」
そうと呼びかける髪を梳る者に、金色の主はその目を開けた。髪と同じくどこか紫を帯びた銀の瞳は、振り向かず白い湯気を眺めたまま物憂げに軽く顎先を上げた。
「何だ」
「怖れながら……、申し上げたい議がございます」
窺うような小声で告げられるそれに、猊下は幾度か小さく頷いた。申せと低く促され、白い手の主は髪を梳る手を止めないまま、躊躇いつつ口を開いた。
「あの者を還してしまわれて──、よろしかったのですか」
「あの者?」
「夜が太陽にございます」
少し憤慨したように白い手が言うと銀の瞳は僅かに細められ、くつくつと声を立てて笑い出した。
「また古い話を。構うまいよ、長くここにおさせるも望まぬのではなかったか?」
「それは……、確かに左様にございます。聖域に太陽は一つでよろしゅうございますれば」
「夜が太陽は一つであったろうに」
楽しそうに笑いながら言われたそれに、白い手は少し憤慨そうにしながらも見惚れるように目を細めている。それを見咎めたように、別の白い手が金色の髪を一束取って梳った。
「姉者、昼が太陽も一つであったはず。左様にございましょう、猊下?」
「そうさな。ここに太陽はない故に」
「我らにとって唯一の導は猊下にございます。私の太陽は猊下のみ、それ以外の者は認めませぬ」
「姉者は月を太陽と仰せでございましょう。無論、この地にあって月を太陽と呼びまするに異存ある者はございますまいが」
にっこりと微笑んで言う妹に、姉は切なげに溜め息をついた。
「リェイ。何を嘆く」
振り返らないまま尋ねられ、白い手の姉は紫を帯びた金色に視線を落とすと悔しげに呟くように答えた。
「月が御出座しにならず、太陽が如きに世界を治められるは口惜しゅうございます」
「姉者、姉者。月に世界を治むるを望まれるものではございませぬ、月が世界なれば。太陽は月を求め足掻くものと、昔日より決まっておりましょう」
「それは私とて分かっておる、それでも、」
姉がどこか泣きそうに妹に詰め寄ると、銀の瞳は姉妹を見据えないまま軽く手を揺らした。
「終わったならばそう申せ。衣を持て、神殿に上がる」
すっかり梳ることを忘れている白い手たちに笑いながら言いつけ、ゆっくりと湯から立ち上がった金色が濡れて張りつく身体は、月のように白い。湯から上がったばかりで僅かに紅潮した肌は、真夜中の藍に朱の色を帯びて昇る満ちたる月を思わせた。胸を突くような清廉な美しさと、全てを無言のままに受け入れる寛容さを併せ持ち、夜のみならず昼の空にも君臨することを許されたそれは、絶対的な存在感。
毎日見つめることの叶う月に白い手の姉妹は今日もまた一時見惚れ、感嘆を溢しながら濡れた肌を恐る恐る拭き清めていく。されるままに任せて欠伸を噛み殺していた満ちたる月は、拭き終わったのを合図のように、ふと目を開けた。
「リェイ」
何気なく思いついたように名を呼ばれ、衣装を取りに行きかけていた姉は振り返って白く整った横顔を見つめた。妹にその長い金色を再び梳られている月は、どこか冷たく薄く微笑んで告げる。
「深淵を覗き込むは、賢き所業ではないな。月も太陽も、所詮は絶対神が掌の上であろう。何も望む通りには運ぶまいよ」
怒鳴ることこそないが冷たく窘めるその言葉に、白い手の姉は恥じ入ったように俯いてその場に跪いた。
「──はい。過ぎた詮索にございました、どうぞお許しを」
許しを乞うて頭を垂れながら泣き出しそうに詫びる姉を見ないまま、少し微笑って未だ立ち上る湯気の向こうに遠く銀の瞳が細まった。
「月はそなたらを見捨てまい。私心を捨ててただ侍れ、我はそれを許そうほどに」
白と銀を基調にした袖のない詰襟の服に腕を通し、月は剥き出しの右の二の腕に軽く左手を当てた。聞き慣れない言葉が歌うように流暢に紡がれ、当てた左手の下から僅かに光が溢れている。姉妹が次の衣装を用意し、髪を梳りしながら見守っていると、手を外した後の右腕には薄い金色で神霊文字が書きつけられている。
自分の仕事に満足したように一つ頷いた月は、髪を纏められている間に手渡された長剣を引き抜いて切っ先を天に向けた。沐浴場に差し込む微かな天然光を受けて、長剣は静かに瞬いている。
「────」
紫を帯びた銀を細めてそれを確かめると聞こえない程度の声で呟き、再び鞘に収めて髪を纏め終わった妹に手渡した。妹とは反対側、紅い天鵞絨に銀を乗せて侍る姉の手からは銀鎖を取り上げて左手と腰に幾重か纏い、左手の中指に深く銀の指輪を嵌め込んだ。先ほど渡した長剣を再び受け取って腰の後ろに提げ、姿勢よく前を見据える姿はどこかの軍人にさえ見える。
「猊下、申し訳ありません、御身を」
見惚れながらも何とか妹が声をかけると、左手の銀鎖を調整しながら僅かに身を屈めた月の秀でた額に、姉がそうと冠をつけた。小さな紫水晶が一つだけついたその細い銀の冠は、金糸の間に姿を隠しても柔らかく輝く──さながら、その瞳に宿る秘めた強さの如く。
姉妹が感嘆して見惚れるほど威儀を整えた月は、銀鎖を調整し終えると息を呑んだまま動かない二人に小さく苦笑した。
「外套を持て」
微笑うように滲んだ声で促され、はっとした妹が慌ててそれを取りに戻る。銀糸で神霊文字を縁取った藍の外套を恭しく差し出され、肩に羽織るとそれを翻して月はそのまま歩き出した。
「銀の獅子にも似たる猊下。何処へとお戻りか?」
揶揄する響きを込めてかけられた声に月が視線を巡らせると、楽しそうな笑みを浮かべた月がもう一人、色を違えてそこにいた。肌の色は夜を示すような深い褐色、髪は漆黒、瞳は灰褐色とどこまでも夜に近い。纏うのは黒と銀を基調にした軍服で、膝ほどまでの焦げ茶の革靴には銀で神霊文字が刻まれている。
月は自らの片割れを見出して目を細めるようにして笑うと、涼やかな声で応える。
「なればお前は黒獅子か? どこぞに獲物はないかと探りにきたか」
「ひどい言われようだ。猊下の御為にわざわざ使い走りを買って出た双子の弟に対して、もう少し温情のある受け答えはできないものかね?」
「十分温情ある措置であろうが。血生臭い森守りなどが聖浴の場に顔を出すなど、見た時点で不敬と斬られても不思議あるまい」
くつくつと笑いながら言う月に、褐色の片割れは滲むように苦笑した。
「それではその温情に縋り、斬られぬ内に退散しようかね。月守りに剣を突きつけられるのは、いつまでたっても慣れんからな」
おどけた様子で肩を竦める褐色の片割れに月は小さく笑い、姉妹に振り返った。
月を守るべくして常に側にある月守りの二つ星として知られている姉妹は、いつでも斬りかかれる状態に抜刀して褐色の片割れを睨みつけている。
「レェイティ、ルェイティ。控えよ」
「いいえ、猊下。いくらティオラノード様が猊下が双子の弟御であられましょうと、この場に入るを許されたるは我ら月守りの姉妹のみ。猊下に仇為すは、我ら姉妹が許しませぬ」
「ティオラノード様、あなた様がこの場に足を踏み入れられたことにより、猊下の清めが汚されましたことをご自覚なさいませ。猊下の御身にもしものことがあっては、どうなさるのです」
手にした細い突剣のまま声を尖らせる姉がレェイティ、そのたおやかな外見に似合わず大きく反った三日月刀を手にして厳しく月の片割れを諌めるのが妹のルェイティ。
森守りと呼ばれる島の警護を勤める月の片割れでさえ、その姉妹にかかっては斬り捨てられるまではなくとも追い出されるくらいは容易いだろう。降参とばかりに両手を上げる弟に、月は姉妹にひらひらと片手を振った。
「この場にて抜刀を許されたるは我のみだ、剣を収めよ」
「ですが、猊下!」
「良き報せを持ちて来る者に刃を向けるな。……阿呆が、さっさと要件を言わぬからだ」
楽しげに声を震わせる月に大仰に一礼して神妙そうな顔を保ったのも一瞬、すぐに破顔して月の片割れは茶目っ気たっぷりに片目を閉じた。
「月が御前にあっては、見惚れて言葉を紡げぬのでね。それよりもそう、良き報せかな。ラウスが剣を納めに参上している、神殿よりも謁見の間に行ってやれ。──尤も、とうに知っていたようだがな」
「月が知り得ぬことなど、この世にはなかろう。レェイ、ルェイ、清めは後でよい。先に行ってラウスの相手をしておれ」
「月が守りはしばらく譲れ。悪いな」
反省した風もなくあっけらかんと謝罪する月の片割れに、姉妹は不服げに口を尖らせた後、月の視線に負けて剣を収めると一礼した。
「それではしばしの間、御前を失礼致します、猊下」
「何かございますればすぐにお呼びくださいませ。ティオラノード様、猊下がご不自由なきよう取り計らって頂きますように」
くれぐれもと何度も言い含め、名残惜しげに月の前を辞する姉妹に月の弟は楽しげに声を立てて笑った。
「相変わらず月守りは、月と離れ難くあるらしいな」
「月と離れるを喜ぶは月守りとは呼ばぬわ、阿呆」
「そうでございましたとも。それにしても、どうして今更剣が入り用だ?」
「ラウスにしか打てぬ剣がある。ロクウェルの銀は今なお女神の籠が篤い故に、儀式に使う剣を一振り用立てさせた」
まだ何か疑問かと聞き返す月に、片割れは肩を竦めた。
「それを今になって求める理由が分からなかっただけだ。ラウスとは二十年来の爾来だろう」
「打つ気がないものを強要はできぬわ」
「とすると、打診はしてたわけか?」
「ロクウェルの銀は他とは比べ物にならぬ、と言うたであろうが」
ようやく手にできると、どこか焦がれるように呟いた月に褐色の片割れは片方の眉を跳ね上げた。
「そんなに値打ち物なら、俺も一振り頼んでみるか」
「ああ、叶うならばそうすればよい。じきに……、島を出ることもあろう。その時は、銀の剣ほどお前の役に立つ物はなかろうよ」
意味ありげに頷いた月に、片割れは不安げに眉根を寄せてそっくりの白い横顔を窺った。
「俺に島を出ろと?」
「出ろとは言わぬ。されど出たければ止めはすまい、お前の人生だ、好きに生きればよいのだから」
透明に微笑う月の言葉の意味を図りかねて──尤も、月の言葉は双子の片割れである彼にさえ理解の及ばぬもののほうが多かったから、いつもの話といえばそうだったのだが──、拗ねたように顔を顰めた黒銀の月は憤然と宣言する。
「俺は森守りだ。月守りほど側に侍る位置にはなくとも、月のない森を守る気はないぞ」
聞いて月は苦笑するように笑い、藍の外套を翻して止めていた足を進め始めた。
「お前は月だけを守るために、そこにあるのではあるまいに。まぁ、我は何事も強要はすまい。全ては絶対神が掌の上だ。望むと望まざるとに拘わらず、時も人も流れ行くが定めよ」
そうと笑うように告げて謁見の間に向かう月の背中を追いながら、月の片割れは深く溜め息をついた。
「これだから聖職者は嫌なんだ。全て絶対神の御心に押しつけて、何も教えないんだからな」
「何れお前にも知れる徴が現れよう。全てを先に知るも面白くはなかろうが」
全てを見通すことを義務つけられている月は、言って前を見据えたまま肩を竦めた。決して振り返ってこないその銀に、月の片割れは低く、強く告げる。
「お前がそれを望まないのならば、俺がお前の目でも耳でも潰してやろう」
「はっ、そうしてレェイとルェイに殺されるが望みか?」
本気で言うのに、月は揶揄するように話を交ぜ返してしまう。
「心配するな、我は月であるを恨んだことはない。気に食わぬことをそのまま受け入れはせぬ、いざとなれば絶対神に直談判できるも我のみよ」
こんな特典は滅多と捨てれらぬよと微笑う月に、無理をした風はない。褐色の弟は静かに息を吐き出して、そうかとだけ返した。
「──お前は月ならざる月故、要らぬ苦労をかける。我の片割れなどでなければ、もっと気楽に生きられたであろうにな」
「本気で言ってるのか? 後ろからぶん殴るぞ」
「怒るな、我が珍しく反省をしてやっただけではないか」
「そんな懺悔は死ぬ前だけにしやがれ。そうしたら心置きなく俺がくたばらせてやる」
「よかろう、月が確約する」
我より先には死なぬのだなと、どこか嬉しそうに言って月は紫がかった金の髪を揺らした。
「人の死ぬるを見るは、我とても慣れぬ……。見知った者であれば尚更な」
不憫なことよと小さく口の中で呟いて、月は謁見の間の扉を開けた。
ラウスは月守りの姉妹と話をしながらも、後ろから強烈に惹かれる存在を見出して話も途中で振り返った。普通ならば怒るはずの姉妹はけれど彼の仕草が何を示すか知っているのだろう、目を輝かせて彼と同じく謁見の間の扉を見つめる。
やがてそう間も置かずに扉は開かれていき、そこに月の現われたるを見てラウスはいつもながらに感嘆を溢した。
「いつ見てもお変わりなくお美しくあらせられますな、猊下」
「そう言うお前は年を食った」
彼の言葉を笑い飛ばす月に、ラウスは苦笑して月の歩みに視線を合わせたまま肩を竦める。
「もう四十と四にもなりますれば」
「まだそんな程度か。まだまだ子供よな」
「御年二十と四の猊下には言われとうないですな」
心外だとばかりに主張するラウスに、けれど月は軽やかな声を立てて笑う。
玉座までの短い距離までもを付き従う姉妹を左右に侍らせ、藍の外套をふわりと翻らせて玉座に腰掛けた月は楽しげに紫を帯びた銀の瞳を細めている。
「二十四にしかならなくとも、既に七十二年も生きておる。お前が我に説教をできるのは、まだ先よ。久しいな、ラウス」
「お久し振りにございます、猊下。お変わりないご様子、何よりにございます」
「お前の腕は、見かけほど衰えておらねばよいのだがな」
「きついお言葉痛み入ります。長らくお断り続けていた以上、甘受せねばなりますまいな」
おどけた様子でラウスが肩を竦めると、月の片割れが彼の側まで来てしゃがみ込んだ。
「それで、断り続けていた剣を持ってきたんだって? よほど自慢の品だろうな」
「これは森守り殿、ラウス・ロクウェルが納得いかぬ品をお納めしたことがございましたかな? 勿論、自慢の逸品でございますとも。どうぞお納めくださいませ」
深く頭を垂れながら恭しく差し出した細長い箱を森守りが取り上げ、月に捧げ持っていく。
開けよと頷きながら命じた月のそれで、森守りは粗く編まれた縄を解いて箱を開けた。
「ラウス。猊下は銀の剣をご所望であったはず。これが銀か?」
月守りの妹が不審げに眉を顰めて尋ねてくるそれに、ラウスはにっこりと笑う。月はそのラウスを一瞥すると、丁重に眠っている剣を取り上げた。
白金の鞘には藍で神霊文字の加護を綴り、剣先の留め金は濃藍。柄に銀の細い月を刻印した剣は彼が南の皇に納めたのと同じく片刃の細剣。月が少し剣を引くと、鞘から抜かれた刃からは淡い橙色の眩しい光が溢れた。
月守りや森守りたちは幾分訝しげにしているが、完全に引き抜かれ現れた刀身の怜悧な輝きに声もなく見惚れているようだった。月は天に切っ先を向けてしばらく黙って検分していたが、やがて笑いながら剣を鞘に収めた。
「ラウスでなければ斬り捨てておるところよ。無礼は承知か?」
「承知の上にございます」
ご慧眼恐れ入りましたと嬉しそうに笑う口元を隠すように頭を垂れるラウスに、月の笑い声と月守り姉妹のきつい眼差しが同時に降ってくる。
「知っての無礼とはいかなる故か!」
「猊下のお望みを違えるばかりでは飽き足らず、愚弄するか!」
「まさか! 猊下にはもはやご存知の通り、私に二心はございませんとも」
「二心なく、陽の剣を持ってくるのか」
尋ねる森守りの少し不愉快そうな声に、けれどラウスは怯えた様子も恐縮した様子も見せず、ただにっこりと頷く。
「南の皇に月が剣をお持ちし、手持ちにありましたは陽の剣だけにございました」
「南──、斯様な者の剣と猊下が剣を取り違えたと言うか!!」
激昂して月守りの姉が怒鳴りつけてきたそれに、ラウスは平然と頷いた。
「猊下には月の剣が必要であられました。されど太陽にも、月が剣を手にする必要がございます。何故かは猊下が一番ご存知かと」
「そのような戯言で猊下が剣を違えた言い訳にする気か!」
月守りの妹までもが声を尖らせ、ラウスが苦笑すると月は姉妹を止めるように小さく手を振った。
「よい、藍の鞘に宵の剣を入れるを止むるは難しかろう。それに……」
呟いて、ラウスよりずっと遠くを見つめて月は小さな溜め息をついた。
「戦火がじきに上がる。太陽は陽の剣を欲し……、我も静観ばかりはしておられぬことになろう」
「猊下? まさか、この地に戦火が上がると?」
森守りが眉を顰めて尋ねるそれに、月は答えないまま目を伏せた。
「ラウス、この詫びはもう一本の剣にて許そう。今度こそ銀の剣を。ティオの手に最も相応しきを命じる」
「謹んでお受け致します」
「早急に我の剣を持て。……できうる限り早急に」
「御意。非礼は幾重にもお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした、猊下」
ラウスが深く額を地に突けると、月は仕方がなさそうに苦笑した気がした。
「厄介よの。全て何事もなく、恙無く終わればよいものを……」
誰にともなく呟いて月は小さな溜め息をつき、紫を帯びた金の髪は不安げに僅かに揺れた。