1-1.名乗り
十日振りに彼が目を覚ましてその瞳が覗いた時、沈んで久しい太陽がようやく登って朝を迎えたような気がした。濃紺の髪と、藍色の瞳。誰より夜の姿をした彼が、それでもフォードの世界の全てであり、唯一の太陽だから。
彼が昏倒したまま運ばれてきた時は、正に世界が終わった気がした。明け切らぬ夜の闇にたった一人、導もなく放り出されてはこの先どうやって生きていけばいいのか分からない。彼の片腕として南にその人ありとまで言わしめたスレイン・フォードともあろう者が、途方に暮れてただ彼の側に侍っては祈ることしかできなかった。
彼が再び太陽として降臨してくれるのならば他に何もいらないと、何度祈ったか知れない。
(ああ、確かに他には何もいらないと祈った、祈ったがな!?)
これはあんまりではないのかと、絶対神を相手にさえ喧嘩を売れそうな勢いでフォードは心中で毒づいた。
目を覚ました彼は確かに太陽のカタチをしていたが、皇とはまるっきり性格が変わっていた。──否、彼を皇たらしめていた記憶が、どうやら欠落しているらしい。不安げに眉を顰めて俺は誰だと問う姿に無性に腹が立った。
「ですから……、ですからあのようなところに赴かれてはなりませんと何度も申し上げましたのに!」
思わずフォードが全身で怒鳴りつけたそれに、隣で自失していたシェルクも赤い長髪を揺らして大きく頷いている。
「あんな得体の知れないところ、いくら陛下だって平気なはずないって俺もフォードもあんなに止めたのに、無視してさっさと行っちゃってさ。挙句に昏倒して運び込まれてくるわ、記憶まで失うわって……、いくら陛下でもあんまりじゃん!」
またじんわりと涙を滲ませながら詰め寄るシェルクに、彼はぴくりと片方の眉を跳ね上げた。
それは機嫌を損ねた時によく見せた癖で、やはり彼は他ならぬ皇本人なのだとは思う。しかしいつもならば間髪を容れずに枕許の剣を取ってシェルクに突きつけているはずが、寝台の上で胡座を掻いたまま動かないのを見ると落胆を隠しきれなかった。
(やはりもう、これは陛下ではあられないのか……?)
じわりと錆びたような苦い思いが胸を占め始めた時、彼は先ほど喉を潤した水が入っていた洋杯を投げつけてきた。
「俺は。お前たちに俺は誰かと尋ねたのであって、くだらん愚痴が聞きたいわけじゃない」
突いた膝のすぐ側で玻璃が割れたことよりも、目に見えるほど揺らいで立ち上る彼の怒りの気配に思わず見惚れ、フォードもシェルクも共に言葉を失った。
その姿こそ、フォードが敬愛してやまない太陽の姿。どこまでも意思を貫き通す、いっそ倣岸なほどに強い意思は、全てを覆う勢いで燃え盛る炎の如く人を圧倒する。逆らう気力など根こそぎ燃し尽くされ、人は彼に従うべく頭を垂れる──畏怖を込めて。
「申し訳ございません、陛下。偉大なる南の国皇陛下にして、剣聖ルグラフト・セーティナーダ・ナヅク様。二十日前にウェディの森なる島へと赴かれ、十日前に昏倒したまま皇宮にお戻りになられました。以来今日までお目覚めになられることはなく、ご心配申し上げておりました」
フォードが深く頭を垂れたまま言上して窺うように少しだけ顔を上げると、彼は複雑な顔をしている。
「陛下? まだ……、分かんない?」
そろりと尋ねたシェルクに、彼は何度か頷いている。
「いきなり国皇とか言われても、ぴんとはこんな」
「俺らにしたら、いきなり国皇が乱心したようにしか見えないよ?」
彼のとぼけた発言に拗ねた色を浮かべたシェルクが皮肉がちに揶揄するが、彼は激昂するでもなく苦く笑ってどこか遠くこちらを見てくる。
「それで、お前たちは皇の何だ?」
「はいはい、俺、シェルク・スティンダー。皇の腰巾着でっす」
「おい」
半眼を据わらせて突っ込む彼に、シェルクは悪戯が成功したとばかりにけらけらと楽しそうに笑っている。フォードはそのシェルクの頭を押さえつけて深く下げさせ、真面目にご挨拶しろと低く言いつけた。
今はいつもと状況が違うとそれで思い出したらしいシェルクは、少しばかりばつが悪そうな顔をすると改めて頭を下げた。
「あー……、申し訳ありません、ふざけがすぎました。私はシェルク・スティンダーと申します、陛下。皇宮の警備責任者にして、剣聖ルグラフトを師と仰ぐ剣徒にございます」
「名乗りが遅れましたこと、幾重にもお詫び申し上げます、陛下。私はスレイン・フォード、近衛隊隊長を勤めさせて頂いております」
それだけを告げてもう一度頭を垂れると、彼は自分の膝に肘を突いたまま僅かに首を傾げた。不審げなその態度が気にかかり、恐る恐る尋ねる。
「あの、何かお気に触りましたでしょうか」
「いや……、近衛隊長というだけか? 皇の兄弟か何かじゃないのか」
皇の、とまるで他人事のように言うのが気にならないわけではなかったが、それでも気にかけてくれたことが嬉しくて緩みそうな口許を隠すように再び顔を伏せた。
「乳兄弟としてお目をかけては頂きましたが、血の繋がりはございません」
「ていうか、陛下は血縁者のほとんど全部殺したじゃん。陛下の昔を知ってんのは、今となってはフォードと俺と、そのアレイネくらいだって」
何を今更とばかりに肩を竦めたシェルクの言葉に、寝台の上では彼が痛そうに頭を抱えている。
「あれ、頭痛い、陛下?」
「痛くもなるっ。お前らの言う皇は、どんな人でなしだ!?」
信じられんと怒鳴りつけてくる彼に、フォードはシェルクと顔を見合わせた。
「「何を今更の仰せで?」」
思わず声を揃えて聞き返すと、彼は眩暈を感じたようにぐらりと身体を傾がせた。慌てて手を貸そうとしたが、押し留めるように軽く片手を上げた彼は再び布団に潜り込んでいる。
「いい、構わなくて。俺はもう寝る」
「ですが一応医師を呼んで、せめてもお身体の様子だけでも診させては、」
「構わん。もうこれ以上頭の痛いことを聞きたくない……」
深い溜め息をついてぼやくように呟いたと思うや彼は眠りに就いたらしく、早々と穏やかな寝息が
聞こえ始めた。
フォードは近く寄って眠っている彼の様子を確かめて、少しだけ安堵したように息をついた。黙ってそれを眺めていたシェルクは、独語めいてぽつりと呟いた。
「陛下さ、本気で記憶ないのかな」
「そうだろう。酔狂で我らに名乗りは上げさせまい」
「そっか。──そうだよなー、俺の名乗りもまるで初めて聞くみたいな顔で聞かれてたもんなー」
髪をかき乱すように頭をかいて、シェルクは彼が起きている間は見せなかった傷ついたような不安げな色を浮かべた顔で俯いた。あくまでも普段通りの態度を貫き通していたが、誰より南の国皇を慕っていたシェルクにとって彼の変貌は衝撃だったのだろう。
──否、シェルクだけでなくフォードでさえ沈鬱な気分になるのは彼が変わったことではなく、彼に忘れられたという事実。ほとんど人を信用することのなかった彼が、例外的に長く側に置いたのはシェルクとフォードの二人だけ。彼に信頼されていたという何よりの誇りは、けれど彼にとっては忘れてもいいほどの瑣末事にすぎなかったのだろうか?
幼い頃からずっと見上げてきた太陽は、見上げれば目を焼きそうなほどに激しく、凄烈なまでに美しく、絶対的な強さをもってそこに君臨していた。雲に遮られることもなく、一点の翳りさえなく必ずそこに存在していたのに、今になって急に厚い雨雲に遮られてその姿を隠してしまったかのような錯覚を覚える。仮に雨雲を纏ったとしてもその向こうに必ず存在しているはずなのに、疑うことさえなかったそれを信じられなくなるほど心が揺らいでいる。
「人……、変わってた」
嘆くようなシェルクのそれで、フォードは自身の思考に向けていた意識を戻し
「以前の陛下にお戻りになられた。それだけだ」
どこか庇うように急いで紡いだ言葉が、案外的を得ているのに気がついた。
今や知らない者はないほど冷酷無比で知られた南の国皇も、何も生まれた時から冷血だったのではない。その絶対的権力を握る可能性さえ少しもなかった少年の頃、彼は多少表現が不器用ではあったものの心優しかったことを覚えている。
けれど成人する前に父皇が斃れ、急激に環境が変わった。頼れるものは何一つなく、時代の波は彼を皇にと望んだ。そうして身を斬るような苦渋の決断の末に、敢えて燃え盛る太陽となる路を取ったのだ。
もう長く皇たるに仕えていたせいで、そんなことまで忘れていた。例え何を為そうと彼が彼である限りついて行くことを決めていたが、それが盲目的な信頼となって過去そうであった姿を愚かにも忘れていた……。
フォードの指摘を受けてシェルクもようやくほっと息を吐き出し、懐かしげに目を細めて頷いた。
「うん。うん、陛下の剣は守りの剣だったもんな。皇位に就かれてから、ちょっとずつ変わってったんだ。皇位がどれだけ重いのか、やっと分かった気がする」
切なげに呟いたシェルクに、フォードは一瞬顔を顰めて目を伏せた。
「でも今のままじゃ全然国皇らしくないし、絶対他国に舐められるよ。ひょっとしたら、是幸いと侵略してこられるかも」
「そうなれば陛下をお守りして戦うのみだ」
「……うん。陛下を、お守りする」
まるで自分に言い聞かせるように呟いて、シェルクは寝台に横たわっている皇ではない彼をどこか遠い目でじっと見つめた。
「──今のままが、いいのかな」
噛み締めるようにシェルクが溢したそれにフォードは胸を突かれた思いで顔を上げ、まだ幼い印象が残る同僚の横顔を見た。
「俺らを忘れて……国皇であることを辞められて、それで陛下が幸せになられるなら。別に俺、こんな国どうなってもいい」
「シェルク」
諌めるように名を呼ぶと、強く見据えてくる燃えるような朱色の瞳に譲れない炎が宿っているのを見つけた。
遠い過去、同じく強い瞳を一度だけ見たことがある。それは藍色の、強く譲らない瞳。皇になると宣言し、今まで持っていた甘い記憶も優しい感情も、全て忘れてしまうと決めた彼の眼差し。誰のことも見ないで真っ直ぐに前だけを見据える横顔は、既に皇気を帯びて気高かった。
あの日、彼は皇となった──まだその頭に冠を頂かずとも、全てが跪かざるを得ないその強さに誰が逆らえたろう? 事実、あの日から三日もかからず彼の手に皇位は転がり込んだ。
(そうだ……、陛下は皇たるべくして皇になったのではない。玉座が彼以外の者を許さず、彼を引き摺り込んで無理やり座させたにすぎない)
あの時、彼は紅き鷹を従えることを是とした。それしか許される選択がなかったからだが、記憶を失うことによって皇位から自由になることを彼自身が望んだのだとすれば……?
考え込むフォードを唆すように、シェルクは炎の宿る瞳で鳶色の瞳を見据えたまま何気ない様子で告げた。
「陛下は望んで皇位に就かれた──どれほどの葛藤の末の結論かは、この際別としてさ。でも望んで就かれた地位だからこそ、俺は国皇のお側にあるんだよ。陛下が陛下であることを辞されるなら、……それを望まれた時の障害になるなら、こんな国滅ぼしたって構わない」
「シェルク!」
彼の眠りを妨げない程度に声を尖らせて叱責すると、シェルクはようやくその瞳の炎を隠して頭の後ろで腕を組みながら、へらっと笑ってみせた。
「そんな怖い声出さないでよ、フォード。俺はフォードと同じで、陛下にお仕えしてるんだ。陛下が陛下のままであられるならそれでいい。反乱を起こす気はねぇよ」
「──そう、願いたいものだな」
自分の願望を押し殺すようにフォードが呟くと、心配性だなぁとシェルクは悪戯っぽく笑った。
「それじゃ、とりあえず陛下のお身体は心配ないみたいだし、俺そろそろ警備に戻るな」
今の会話を大して気を止めた風もなく、シェルクはそう言い置いて部屋を出ていった。
残されたフォードは眠る太陽の静かな面を見下ろして、どうしていいのか分からない迷い子のように呟いた。
「南の太陽、紅き鷹の君。あなたは何をお望みなのです? 皇たるを辞めるを望み、ウェディの森なる島へと赴かれたのですか? 記憶を失われることが、あなたの望みであられたのですか?」
心なし尖る声で責めるように尋ね、返らない応えにフォードはゆっくりと頭を振った。
「何を望まれようと、私はあなたにお仕え致します。例え、南から太陽が失せる結果になったとしても……」
雨雲の向こうの太陽は、姿を潜めて何を望んでいるのだろう?
太陽がその輝きを隠したまま、南の空には次第に夜が迫っていた。