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陽に群雲、月の風  作者: あつろ
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8.皇なる太陽

 彼は自分の部屋までの道を辿りながら、思わず懐かしげに辺りを見回していた。


(よく忘れることができたものだ……)


 父皇ふおうが倒れたあの日まで、おうに至る全ての場所を知らずにいた。後宮より内に入ることを許されず、どのような儀式の時でさえ彼だけは立ち会うことも認められなかったから。

 別に彼自身は、それをどうとも思ったことはない。父皇が狭量な人間であることは生まれた時から変わることがなく承知していたし、自分の外見が人として何らの恥じるところがないことも知っていた。ただ、乳母と下町で見つけた友人以外に心を許せる相手がいないことを、少しだけ残念に思っていただけ。


 とりあえずどのような造りになっているかなどは知識として知っていたが、実際にここを通ったのは十八になるまで一度もなかった。初めて通ったのは、極端に明かりが落とされていた上に周りを見回す余裕もなく駆け抜けていったあの夜。彼の心情のままに暗い廊下が、永遠に続いているかのような錯覚に囚われた。

 この廊下を、実際に感慨を持って眺めたのはそれから随分たった後だった。


(何をどう見ても……、赤く染まっているようにしか見えなかったものだが)


 全てをその手で斬り殺して以来、彼が皇宮内で見かける物はほとんどが赤く染まっていた。の光を受けて薄らと赤く染まる材質が使ってあるのかと勘繰るほど、全てに血の紗がかかって見えた。これが彼に与えられた罰なのであれば、忘れることなど到底できまいと思い込んでいたのだが。


「案外、簡単に忘れられたものだ」


 全てを失っていた。


 子供の頃から受け続けてきた迫害を、皇として君臨した時から付き纏っていた圧力を。自ら手にかけた肉親を斬った時の感触を、それを決意した時の悲壮な覚悟を。ずっと側にあり続けてくれた信頼すべき二人の友人を、精霊のしるしを持ち唯一彼を彼として扱った幼い従妹を。戴冠した時の民の押し迫ってくるような歓声を、何をしたところで際限なく押し寄せられる民の嘆きを。

 ただ一人見上げた空を、どこにいても狭苦しい圧迫感を、身を斬るような視線を、重すぎる民の声を。水平線の向こうに沈む太陽を、髪を揺らすように吹いた風を、柔らかに芽吹く新緑を、子供の頃に走り抜けた下町の家々の間の細い路地を。暖かい誰かの手を、初めて得られた愛しいという感情を、笑い飛ばしてくれるだけの強さを、よく堪えたのだなと笑ってくれた暖かさを。


 望んだだけ手に入れたはずの、全てを。望まないまま与えられた、全てを……。


 失い、思い出し、そうして見回す皇宮は白くくすんでいたが、そこにもう赤い紗はかかっていなかった。もう随分と見慣れたはずの光景が、今初めて目にするような新鮮な驚きに満ちている。


 やがて辿り着いた彼の私室は、そこに静謐な闇が満たされているような気がした。これは勘違いでも思い込みでも何でもなく、実際闇を湛える月がそこにあるからだと知っている。

 彼がゆっくりと扉を開くと、部屋の主よりも傲然とそこに座っている月を見つけて彼は思わず吹き出した。


「何を笑う」

「いや、いるだろうなと思っていたのでな」


 笑いながら答えると月は柳眉を顰めたが、気にすることなく側の椅子に腰かけた。視界の端には床に正座させられている銀細工師の姿がないではなかったが、見なかったことにして月に尋ねる。


「西がどうなったかを聞いても?」

「誰に向かって聞いておる」

「戦争は回避、ということでよかったか。手間をかけてすまない」

「まぁ、月が剣を試すにはよい機会ではあった。が、二度と斯様な手間をかけさすな」

「すまない、努力しよう」


 恭しく彼が頭を下げると、月は憤然とした様子で腕を組んだ。彼の言葉を疑るようなその仕草に困ったように肩を竦め、いつもなら側に侍っている存在の不在に首を傾げた。


「それより、片割れや月守つくもりたちはどうした? 一緒に来なかったのか」

「皇都までは運んだが、一度に皇宮におると不審を買おう。必要ならば呼びにやればよい」

「お気遣い痛み入る。……怒らないでくれ、本心だ」


 じろりと睨んできた紫を帯びた銀に彼が降参とばかりにおどけて両手を上げると、あのぅとひどく恐る恐るといった体の声がかかった。


「そろそろ私も皇宮から失礼させて頂きたく、」


 小声で窺ってきた銀細工師を、月が視線だけで言葉を遮った。怯えたように口を噤んだ銀細工師に、まるで止めを刺すように月が声を尖らせる。


「我を謀ったが罪が易々と許されると思うなよ、ラウス」

「謀ったとは心外にございます、猊下。ただちょっと剣を入れ間違えただけでは、」

「ちょっと?」


 わざとらしく語尾を上げる月に、銀細工師は渇いた声で笑ってふいと視線を反らした。


「よくも白々しく言えたものよな。我が姿を現わしたるは二代前の南の皇にのみ、だ。今では南で我を知る者は彼の剣しかなく、剣が我を教えはせんであろう。太陽の翳りたるに嘆いても、我を呼ぶことさえなかったのだからな。なれば太陽に我が存在を教えたも、大方お前であろうが」

「はぁ……、その、ご賢察恐れ入ります」


 月の視線に堪えかねたように視線を反らしていきながら、銀細工師は額の汗をこっそりと拭っている。恐縮しながらもどこか飄々とした雰囲気を崩さない銀細工師に、不意に記憶が刺激された。


 暗い闇の中で悪びれた風もなく笑った銀細工師は、優雅に一礼してみせた。


「お初お目にかかります、南の紅き鷹なる陛下。剣をお納めする前に、そのお姿を拝見に窺いました。誤って別なる剣をお納めしては、私の首が飛びましょう?」


 月やその片割れと同じく誰にも気づかれずに彼の前にだけ姿を現わした銀細工師は、彼が剣に手をかけたのを見て笑みを深めながら手で制した。


「どうぞ抜刀なさいませんように、陛下。南の太陽に剣がお納めできないだけならまだしも、今の私は月が剣も請け負うておりますれば、せめてそれまではお待ち頂きませんと」


 何でもなさそうに言って、手を止めた彼に銀細工師は唆すように笑ったのを覚えている。


「ウェディの森なる島、禁忌の地にて登りたる月をご存知ですか? 黎明の空を駆ける、紫紺を帯びた白銀の月の美しきを? ……ああ、申し訳ございません、陛下には関わりなきことにございました。夜なる太陽の君、しかとお姿拝見致しますれば、このラウス・ロクウェルが生涯最高の剣を一振りを納めさせて頂きましょう」


 おどけた様子でそれだけを告げ、帰っていく銀細工師を引き止める気はなかった。それよりも禁忌の月にどうしても会わなくてはいけない気がして、即座に用意を整えたのだ。


 そう、この銀細工師があの日訪ねてこなければ、彼はきっと一生でも月を知らずに過ごしただろう。だが一度その存在を聞いてしまえば忘れることなどできず、誰が止める声も聞き入れずに禁忌の地に赴いて記憶を失った。

 全ての元凶は確かにこの銀細工師であり、彼の些細な命令だったのかもしれない。


「俺が剣を打てと命じたのが、全ての始まりか?」


 彼が呟くように誰にともなく尋ねると、月は小さく肩を竦めた。


「打てと命じずとも、ラウスが何れ奉納に訪れたろう。この、お節介な世話焼きの銀細工師めが」

「お言葉ではございますが、当時の太陽ほど翳りを嘆きたくなるものはございませんでした。それを何とかする術を唯一知っているならば、口も挟みましょう。それに私が皇にお教え致したは猊下の存在のみ。実際に猊下とお会いなさるか、お会いして猊下が翳りを取り払われるかは私の与り知らぬところ。私は言わば単なる呼び水でしかなく、全ては絶対神が掌の内にございましょう」


 神妙ぶって言う銀細工師に、それだけかとばかりに月が眉を顰めた。銀細工師は少し視線を彷徨わさせたが、観念したように小さく肩を竦めた。


「確かに完全に対を成す月と陽の姿を見たいと思う欲求は……、無きにしも非ずでございましたが」


 言ってどこか優しく和んだ瞳で見てくる銀細工師に、彼は完全に対を成すと言われた月を眺めた。


 守りが二人、血の繋がりのある理解者が一人。夜の月は光の色を、昼の陽は宵の色を纏い、統べるべくして空に近く上にある。言われて見れば顔貌ではなく、相反するところも併せて酷似していると言えた。


 銀細工師はまるで自然の為した細工に満足したように彼らを眺めていたが、月は疲れたように溜め息をついた。


「これだから、女神の寵児は始末に負えぬ……。お前が何も気づかぬ愚鈍であれば、我がこのような手間を取らされずともすんだのだ」

「私がそのような愚鈍でありましたらば猊下に目通りさえ叶っておりませんでしょうし、第一お納めした剣に女神の寵もございませんな」


 あっけらかんとして笑う銀細工師に、月は苦い顔をして肘かけに左肘を突きながら溜め息を溢した。


「まったく、五十年も生きとらん小僧の手の内かと思うと腹が立つわ」

「四十と四にもなって小僧呼ばわりは心外ですぞ、猊下」

「喧しい。中途半端な剣しか打てなかった奴が偉そうに申すな」

「なっ、それはいくら猊下でも聞き捨てなりません! 私の打ちたる剣の、どこが中途半端にございますか!?」


 よほど頭に来たのか立ち上がって詰め寄っていく銀細工師に、月は退がれとばかりに片手を振りながら片方の眉を面白そうに跳ね上げている。


「初めから我が手に月が剣を渡しておれば、斯様に祝福はあるまい。我と太陽が会って初めて完璧を得る剣のどこが中途半端でない?」

「他の者の打つ剣では、例え月と太陽が幾度巡り逢おうと世界の祝福は受けません! 猊下こそ寄る年波で耄碌されたのではございませんか、皇にかけたる術が途中で解けた為に皇は記憶を全て失ったのでございましょう?!」

「我と一緒にするでないわ。陽守ひのもりの嘆きに太陽が応えた、それを留められる者はおるまいよ」

「それでは私の剣とて同じにございます、月と太陽の邂逅に勝る祝福を受ける術などございませんでしょう!」


 地団駄を踏みかねない勢いで主張する銀細工師に、とうとう月が声を上げて笑い出した。


「そうむきになるな、ラウス。お前の腕は買っておるからこそ剣を所望したのだ」

「──猊下、お人が悪うございますぞ!」

「ほう? 寄る年波でひねたのだろうよ、気にするな」


 くつくつと先ほどの銀細工師の言葉を逆手にとって笑う月に、銀細工師は複雑な顔をする。


「本当にお人が悪い……。それよりも術は途中で解けましたのに、お見かけする限り太陽の翳りは取り払われたご様子。記憶も戻っておいでですか、紅き鷹の皇?」

「翳りがどうとは自分ではよく分からんが、記憶ならばスティラシィアにまみえた時に戻った。よく忘れていられたものだと思う全てなら、再びこの手にある」

「それでは解けた術でも成功したということですか、猊下?」

「成功も何も、我にはもう関わりがない。太陽が途中で起きた時点で、我の干渉は終えておる。晴れたのだとすれば、それは陽守りと太陽自身の功であろうよ」


 肩を竦めてどうでもよさそうに言う月に、彼は笑って部屋に視線を巡らせた。


 何もかも背負ったまま見た風景と、全てを失って空っぽのまま見た景色、そして再び手に入れた記憶を通して見る今の景観は、全部同じはずなのに微妙に少しずつ違って見える。それらを統合して、ようやく彼は己自身を手に入れた気がする。


 月はちらりと横目で一瞥してくると、ひどく優しく微笑んだ。


「猛き鷹の皇。剣が譲った御代を、努々疎かにせぬようにな」


 細い三日月にも似た紫を帯びた銀を見据えて、彼はゆっくりと頷いた。


「ああ……、スティラシィアには手間をかけた。すまない」

「よい。巡り逢うたが謀であったとしても」


 言ってちらりと銀細工師を横目で見て、月は小さく肩を竦めて視線を戻してきた。


「逢うた以上、他人事として見過ごせずにおっただけだ。二度とは手を貸さぬがな」

「それでは、月が翳った時は訪ねて来るといい。次は俺が手を貸そう」

「我と同じほど刻を過ごせもせぬ小僧が偉そうに。……まぁよい、覚えておこう」


 楽しそうに声を立てて、翳りの見えない瞳を細めて笑う月に太陽はそうと息をついた。




 憂いた月の溢した溜め息は、やがて大陸を渡る風になる。

 陽にかかる群雲を払うのは、遠い月の溢した風なる吐息。

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