7-2.太陽の在処
葬儀に参列するという名目で送り込まれてきた西の使者を前に、アレイネはもう何十回となくつきたい溜め息を何とか噛み殺した。
「いつになれば皇にお目通りが叶うのでしょうな? 一言お悔やみを申し上げたいと何度も申し入れておりますのに……、それほどに南の皇は西を侮っておいでか?」
(そんな言葉で私が慌てて膝を突くとでも思ってるのかしら、この役立たずのお猿は)
冷たく西の使者を一瞥して心中で毒づいた後、アレイネはにこやかに見える笑みを張りつけて目を見据えたまま僅かに膝を屈めた。
「南の紅き鷹なる陛下は、剣の喪失にいたく心を痛めておいでです。それに大皇太后陛下は南の唯一の剣にございました故、陛下が御自ら率先して送られる準備をなさっておいでなのです。遠路遥々お忙しいところをおいで頂き恐縮ではございますが、賢明なる西の使者殿におかれましては陛下のご心痛とお立場を慮ってくださるものと期待致します」
噛み砕いて言えば、あんたみたいな下っ端に会わせられるほど皇は暇じゃないんですー、といったところだが、柔らかな物腰とは裏腹な有無を言わせない強い口調のせいで西の使者は一瞬返す言葉に詰まっている。
「それでは私も何かと準備に追われる身でございますれば、この辺りで失礼させて頂いても構いませんでしょうか?」
「っ、南の皇家の方々は、西の女王を愚弄なさるおつもりか?! 私は女王直々の遣いで参ったのです。葬儀の前に女王のお言葉をお伝えすることが使命です、どうあっても会わせて頂く!」
「──それは西の女王直々の使者殿としての、お言葉でございますのね? 葬儀の準備に忙殺されることでどうにか立っていられるほど傷ついている者に、言いがかりをつけてでもお会いになろうと。それが、西の女王のご意向、ですのね?」
冴えて尖った声でアレイネが低く脅すように問い直すと、西の使者は思わず一歩後退った。アレイネの冷たい蒼の瞳から目を反らせないまま、もごもごと言い訳めいて口を動かした。聞こえない言葉を聞き返す気にもなれなくて、アレイネはにっこりと笑顔を深めて首を傾げるように一礼した。
「女王のお言葉をどうしても葬儀の前に伝えよとの仰せとあれば、代わって私が伺いましょう。必ず陛下にお伝え致します。どうぞ陛下の胸中をお察しください」
仮に彼が皇宮に存在していたとしても、鷹の鋭き爪が折れたかどうかの確認だけに寄越された使者などに会わせてやる義理はない。その程度の下っ端風情が、皇の代行を許される今では唯一の血縁たるアレイネの迫力に勝てるはずがなかった。
口惜しげに顔を歪めて引き下がった使者は、けれどアレイネの背中に聞こえよがしに吐き捨てた。
「一族全てをその手にかけて皇位に就いたような男が、たかが大皇太后の死で傷ついているだと? 血塗れた玉座に、のうのうと座り続ける皇がよく言ったものよ。後ろ盾なしでは何もできぬ腰抜けか。腑抜けになったという噂は事実ではなく、借りていた虎の衣が外れただけの話なのだろうよ」
負け惜しみでしかないその言葉を、彼ならば冷笑して受け流しただろうか。小物の言い出しそうなところだと、捨て置けと言うだろうか。
記憶の有無に関わらず、彼はアレイネが唯一膝を屈すべき皇であることに違いはない。だとすればこのような小物に馬鹿にされて、笑って受け流す謂れがあるだろうか?
かっとなって聞くに絶えない罵倒の数々を紡ごうと振り返り、そのまま言葉を喉の奥で押し留めたのは別に理性が勝ったからではない。言い逃げするはずだったのだろう使者はけれど未だにそこにあり、顔面どころか全身蒼白にしてそこに立ち竦んでいたから。
歯の根が噛み合わないほど使者が震えている理由は、首筋に突きつけられた二本の剣のせいに他ならない。
「あんた今、面白いこと言ってたよなぁ。陛下が何だって……?」
「南の皇宮にて、よくそのような無礼を口にできたものだな。西の使者を名乗るを止められよ。そうでなければその首が飛ぶだけでなく、西の国そのものが滅ぶまで陛下の名誉の為に剣を振るうことも辞さないが?」
淡々と、それでも隠しようのない怒りの乗った声で低く脅しているのはシェルクとフォード。その二人の後ろには確かに彼がいて、震えている使者を冷たく見下ろしている。
「女王が言葉を伝えにきたと言ったな。遺言がわりに聞いてやろう」
話せと彼が告げるなり使者はその場にへたり込み、地に額を擦りつけたまま振り返って申し訳ございませんと震える声で謝罪している。
「お許しくださいませ、どうぞ、どうぞ……! まさか他意はないのです、南の国皇陛下を愚弄だなどと、そんなつもりは……!」
「よく言うよな。今の言葉、どう聞いたって愚弄以外に聞こえないじゃん。言い逃れにしてももう少しまともなことが言えないわけ? ま、何にしろ首は刎ねるけどさ」
「どうか、どうかお慈悲を……! お許しください、もう二度とあのようなことは、」
慌てふためいて縋るように見上げる使者は、藍の瞳に一片の同情もないことを見出したのだろう、顔色を紙のように白くして今にも気を失いそうにしている。アレイネは意地悪い気分になって使者に歩み寄っていくと、にっこりと微笑みかけた。
「そのお慈悲を賜る陛下ではないと、使者殿が仰せだったのではあられませんこと?」
ご愁傷様と愛らしく首を傾げて言うなり、使者はアレイネを見上げまま気を失ったようだった。
「うわー、アレイネってば鬼だね。刺すかな、止め」
「あら、失敬ですわよ、シェルク。私はお祖母様の葬儀の前に皇宮を血に染めたくなかっただけ、限りない気遣いではありませんの」
ふわりと髪を払いつつ傲然と言い放ったアレイネに、シェルクとフォードは声にして笑いながら剣を収めている。彼はどうでもよさそうに肩を竦めると、使者を爪先で示した。
「邪魔だ、適当に放り出しておけ。どうせ戻って女王に罰せられるだろう、そのままで構わん」
「御意! 外に放り出したのでいいよね?」
「そうしろ。葬儀の準備はどうだ、アレイネ」
「ほぼ整いましてございましてよ。私を誰だと思ってますの?」
憤然と答えると、彼は少し笑って頷いた。くしゃくしゃと髪を撫でてくることに驚きながらもやたらと照れて、やめてくださいません?! と声を荒らげる。
「それよりも、禁忌の地に赴かれるのはおやめになられましたの? 葬儀の準備が面倒だから謀った、などと抜かしやがられませんでしょうね?」
「面倒なだけならそう言う、謀る必要はないだろうが。行って戻ってきただけの話だ」
「こんなに早く……?」
不審げにアレイネが眉を顰めると、気を失った使者を窓から放り出しながら──因みにここは三階だったように記憶しているが、どうでもいいので黙っておくことにした──シェルクがどこか遠い目をして答える。
「ついさっきまで、確かに禁忌の地にいたんだけどなぁ。つーか、精霊に愛されてるって問答無用すぎる」
「どういうことですの?」
「つまり、神殿の呪陣を使って移動する術があるだろう? あれを、呪陣なしで行なえる方がいらっしゃったのだ。目的地に媒介があるだけでいいらしく、呪陣と馬と船を使ってようやく辿った行程が一瞬だ。さすがに虚しいものを覚えた」
シェルクと同じく遠い目をして補足するフォードに、アレイネはまさかと目を瞠った。
「禁忌の月の為せる業だ、常識に照らしたところで意味はない。それよりもラウスの部屋はどこだ? しばらく人払いして案内しろ」
彼が問いかけてきたそれに、アレイネは思い出して何気なく頷いた。
「鍛冶師でしたら陛下の私室ですわ」
「──ラウスの部屋は、と聞いたが?」
ひどく嫌そうに顔を顰めて聞き返す彼に、アレイネはにっこりと笑みを浮かべる。
「ですから、あの鍛冶師ならば陛下の私室ですわ、とお答えしましてよ。陛下がいらっしゃらないことを誤魔化す為には、あの部屋に誰かがいないといけませんでしょう。ですが滅多と近づく者もございませんし、ちょうどよろしいでしょう?」
私のやることに卒などございませんわ! と胸を張ったアレイネを、彼は散々嫌なものでも見るかのように眺めていたが、やがて溜め息をついて受け入れたようだった。
「まぁいい、手間が省けると言えば省けるからな……。フォード、葬儀がすんだらアレイネの部屋に縞蛇でも放り込んでやれ」
「っ、そんなことしやがられた日には陛下の部屋に暴れ牛を嗾けましてよ、絶対に絶対にやめて!」
縞蛇が何よりも嫌いなアレイネが正しく悲鳴を上げると、御意と何でもないことのように命令を受け入れていたフォードまでが少し声を立てて笑っている。
何を考えてやがるのかしらと鳥肌の立った腕をさすっていたアレイネは、ふと眉を顰めた。
「陛下、ひょっとして記憶が戻っておられまして……?」
アレイネが縞蛇を嫌いだと知っているのは、幼い頃から知っている彼を含めたこの三人だけ。そう思って尋ねたのに、彼ははぐらかすように笑って踵を返した。
「さすがに疲れた、私室に戻る。人払いは継続しておくようにな」
「じゃあ、俺も皇宮の警護の確認してこよーっと」
「ああ、シェルク、ラウスの捜索に向けていた者に引き上げるよう指示も出しておくように。運ばれた武器はそのまま国境辺りで保持させておくとして……、皇都に避難させた民はいかがなさいますか、陛下」
「葬儀が終わり次第、町に戻せ。皇都にこれ以上人が増えても邪魔なだけだ。祖母様の死去を悼んでの恩赦なら、通りもいいだろう」
「御意、そのように取り計らいます」
少しだけ足を止めて指示を出した彼を一礼して見送り、各々自分の仕事に戻っていこうとする彼らをアレイネは慌てて引き止めた。
「お待ちください、陛下! 西の兵が国境に布陣していると聞きました、その今ラウスの捜索と称して派遣していた兵を引くのは得策とは言いかねますわ! 戦争を前に民を戻すのもどうかと、」
必死に言い募るアレイネに彼は顔だけ振り返ってきて、心配いらんとだけ返した。
「月の猊下のことだから今頃それも片付いてるはずだって、戦争回避の方向で。なぁ、フォード」
「そうだろうな。月の猊下の問答無用さ加減には眩暈がせんでもないが、戦争が回避されるなら喜ぶべきだろう」
何だか自分に言い聞かせるようにフォードが頷き、彼に至っては何を当たり前のことをとばかりに肩を竦めている。ひどく疎外感を感じて唇を噛むと、振り返ったまま足を止めていた彼は優しい光を浮かべて小さく微笑んだ。遠い記憶が揺り起こされるほど懐かしく優しく和んだ藍の瞳は、どこか遠く、誰かに焦がれるように僅かに細められた。
「月の命令に逆らうは、西にとって得策ではない。精霊の加護でようやく成り立っている国だ、月の言葉に従うだろう」
「確かにそうでしょうけれど……、月が西に命じることなどありましょうか?」
「御身の為なのだそうだ。戦争で騒ぐ精霊がお身体に障るらしく、それを事前に回避する為に遥々お越しくださるというわけだ。ああ、大皇太后陛下の葬儀にもご参列くださる」
「お祖母様の葬儀に? それでは、お祖母様はきっと喜んでくださいますわね」
実感のない戦争が回避されたことよりも、祖母が焦がれるように話していた月がわざわざ葬儀に参列してくれるという事実が嬉しくてアレイネが思わず笑みを溢すと、三人は目を見交わして少しだけ笑ったようだった。
「月が恙無く過ごせるよう、支度を整えておけ。もう問うべきはないだろうな?」
アレイネに月の歓迎を一任して人払いを念押しすると、彼は私室へと戻っていった。その背を見送りながら、アレイネはちらりと残った二人を横目で窺う。
「聞いてもよくって?」
「いや、無駄。俺も分かんねぇもん」
「俺に聞かれても困る」
問う前から質問の内容を分かっているらしい二人は、各々言って頭を振っている。アレイネは不服げに唇を尖らせたが、それを見てフォードが小さく苦笑した。
「陛下が目を覚まされた時に、シェルクが言っていたことだが」
何をとシェルク共々フォードを窺うと、フォードは僅かに肩を竦めた。
「つまりは陛下が陛下であられるならばそれでいい、と」
「──うん。うん、そうだよな、記憶が戻ってようとないままだろうと、陛下は俺たちを側に置いてくださるんだから。今まで通りに仕えりゃいいだけの話じゃん?」
何の悩みもなさそうにへらっと笑うシェルクの言葉に、アレイネは呆れて片方の眉を跳ね上げた。
「なんって、お気楽なのかしら! ……まぁ、そのくらいでないとあの陛下にはお仕えなんてできないんでしょうけれど」
「つまりはどのような方であれ、これだけ長くお側に仕えしてきたのだ。今更陛下を語るには及ず、この先もただ仕えるのみ、だ」
少し照れたように僅かに揶揄を込めて肩を竦めたフォードに同意して、三人はそっと笑った。
「それでは人使いの荒い陛下に今更斬られないように、月の歓迎支度を整えておかねば。では、失礼」
優雅に一礼してその場を辞し、アレイネは神殿に向かいながら窓の外を窺った。
夏の激しく厳しい太陽は、それでも全ての物の成長と活動を促して燦然と照り輝いている。青々とした緑葉が色を鮮やかにして煌き、まるで頷くように僅かな風に揺れている。
「……そうね。季節によって太陽の光は硬度を変えるけれど、そこに確かにあるからこそ私たちは凍えずにいられるのだわ」
厚い雲に覆われていても、知らずその雲が晴れていても、そこに太陽はずっとあったのだとようやく知った気がした。