7-1.西の女王
<ティオ>
どことも知れない場所から呼ぶ声が聞こえ、月の片割れは剣を拭っていた手を止めて辺りをぐるりと見回した。
「ここだ」
応えれば左肩の辺りの空間が僅かに軋んで歪み、白い手がすっと突き出される。恭しく片手を差し出してその手を取ると、さらりと紫を帯びた金色が揺れてそこに双子の片割れが現われた。こちらを窺っていた兵士たちから悲鳴じみた叫びが響き、月は煩げにそちらを一瞥した。
「早かったな。担ぎ出されてくるにしても、もう少し駄々をこねるかと思ったが」
「我が為すべきことをそうと示されては、動かずにおるわけにもいくまいよ。それにしても……、えらく斬ったものだ」
不快げに眉を顰めた片割れに、すまんと肩を竦める。
「最初に脅しておけば次の波は遅い。ここまで早いとは思わんかったからな、分かっていれば血を清めるくらいはしておいたんだが」
「まぁよい、怪我がないのならば何よりだ。──リェイ、ルェイ、呼ばれ疾く来れ」
先ほど姿を現した空間に振り返り月が声をかけると、月守りの姉妹が次々に姿を現して月の前に跪いた。
「相も変わらず穢れた大地にございますれば、猊下にはお身体に障りはございませんか?」
「ティオラノード様、猊下のお運びを知っておられながら清めも済ませて頂けないとは何事にございます」
現われるなり月を気遣い、片割れを謗るいつもの様子に褐色の月は苦く笑った。
「悪いな、無骨な森守りなんでね」
「森守りたればこそ、猊下の御身を一番に考えて頂かなくては」
「リェイ、そう責めるな。我が命じたは国境の守りで、役目は果たしておろう。それよりも女王はどこか」
「近くにはいるだろう、昨日よりも精霊が煩いからな。俺よりもお前の得意分野じゃないか?」
「先に探しておれば、手間もかからぬものを」
皮肉げに片方の眉を跳ね上げる月に、違いないと声を立てて笑うと彼らを取り囲んでいた遠い人垣がざっと割れた。月守りの姉妹は即座に剣に手をかけて月を庇うように前に立ち塞がり、月は動じた風もなく鷹揚に視線を巡らせている。月の片割れは遠い人垣の溢す声を聞いて、傍らの月に小さく耳打った。
「西の女王が御出座しだ」
ほうとどうでもよさそうに頷いた月が見据えるのは、一人の老女だった。月の片割れが看取った南の大皇太后と比べて、まだ少し年が上だろう。それでも幾分背は曲がっているものの矍鑠としていて、杖を突きながら歩いてくる姿は王としての貫禄を備えていた。
「空を裂きて現われたるはお前たちか」
「無礼者! たかが西の女王が分際で、猊下をお前呼ばわりするなどと百年早いわ!」
抜刀し、怒鳴りつけて返す月守りの妹に女王は皺の深い顔にぴくりと怒気を浮かべた。
「我が国に無断で侵入せし者が、どの面を下げて王たる儂に無礼と呼ばわるか?」
怒鳴るでもなく、嘲るように女王が杖の先を姉妹に向けて払った。
「小物に用はない、退け。空を裂いたるは、そこな紫の者か。我が領土に無断で踏み入り、詫びも寄越さぬか」
「──望まぬのならば引き上げよう。全ての精霊と共に」
怒りを秘めた低い声で月が告げるなり、精霊たちが一斉に月の許に集まっていくのが分かる。
月がそこにあるというだけで、全てが月の支配下に置かれる。吹き止めと命じれば、風は呼吸に必要とする分までも吹き止むだろう。たった一言呟いて命じるだけで、ここにいる全ての人間の命を奪うことも月には容易だった。
片割れとはいえ精霊の姿を見ることが叶わない褐色の片割れでさえ、月がここの支配者であることを知れるのだ。神に仕え、精霊に加護を与われる西の人間ともなれば、月守りたちよりも確かにそれを感じとれるはず。
「まさか……、まさかウェディの月か!? 大陸に関わらぬと誓約を立てて、島に篭っておったはずではないのか!」
「別に誓約を立てた覚えはない、阿呆に関わるが面倒であっただけよ。精霊の扱いも知らず、我が気を乱す故に。──戦争を起こすなどとまたぞろ愚かしいことで我が気を乱すか、西の女王よ……?」
物憂げに、紫を帯びた銀の瞳を細める月の様子は側で見ている片割れでさえぞくりとした。
その瞳に殊更感情を浮かべず静かに見据えれば、冴えた細い月の如き怜悧さを帯びて人を威圧するのを知っているのだろう。計算され尽くした完璧な人外の仕草は、遠く取り囲んでいただけの兵たちまでも怖気させた。誰かが思わず一歩足を引いたのを合図に、一斉に踵を返して逃げていく様は正に蜘蛛の子を散らしたようだった。
「な、何故南に荷担する! 南の皇の残虐さを何故に咎めぬ、あの皇を排除すれば大陸にどれほどに平穏が訪れようか……!」
「痴れ者が。南の皇が先に戦争を仕掛けたか? 南の皇の残虐なるを嘆き、排除すべきは南の国に住まう者にのみ許されたること。何故に要らぬ手出しをする。これ以上、精霊の怒りを買いたいか……?」
月の怒りを示すように、精霊たちは弾けるように瞬いている。女王の目の前で闇色が激しく明滅すると、さすがに女王もひっと息を呑んで後退った。
「要らぬ騒ぎを起こさずに、よく国を治めよ。手出しせずとも滅び行くものは自ずと滅びる──南と西とに関わらず、な」
「猊下の御前から疾くその姿を消せ。自ら退けぬとあれば、我ら姉妹が手をお貸しするが?」
剣に手をかけて姉妹が一歩足を踏み出すと、女王はもう一歩後退って口惜しげに唇を噛んだ。
「月が大陸の一角を担うか……、世界の理も崩壊しよう!」
「出逢うが運命であったなれば、これもまた絶対神の掌の中。滅びるのであれば、それが大陸の命運だろう」
さして感慨もなさそうに月が肩を竦めるのを見て、女王は唇を切れるほど噛み締めたまま踵を返した。
「愚かな月よ……、最も愚かな月であったと後世に笑われるがよいわ!」
呪うように吐き捨てて去っていく女王の背中に姉妹が呪いの言葉を返すより早く、月が、女王と呼びかけた。ぞくりと肩を震わせ、それでも振り返ってこない曲がった背中に月は小さく笑った。
「西に精霊の加護あるように、な」
笑うように告げた月の言葉で、月の下にあった精霊たちが名残惜しげに西に戻って行くのが感じ取れる。女王はそれを確かめるように少し顔を巡らせた後、ふんと鼻を鳴らして結局一度も振り返らずに戻っていった。
「猊下、どうして精霊をお戻しになられたのです」
「あのような呪いを紡ぐ女王など、王の座に相応しゅうございましょうか? あれをこそ引き摺り下ろされたほうが、国の為になりましょうに」
「それも西の国民にのみ許された権利で、我に関われることではなかろう。精霊は元の勤めに返すが世界の理、それに従ったのみだ」
感情の窺えない声で応え、月は藍の外套を翻して剣を抜いた。
淡く銀色の光を零した刃を右手で支えるようにして切っ先を天に向け、神霊語で何かを囁きかけると刃に宿る銀が段々と強くなっている。白銀に満ちた刃がそのまま軽く払うように一振りされると、剣から突風が巻き起こった。一瞬伏せた目を何とか片方だけ開けて窺っていると風はやがて空に還り、場が収まった時にはそこに満ちていた血臭と穢れは綺麗に消え去っていた。
「まさか……、今の一瞬で清めを?」
驚いて尋ねたそれに、月は唇に穏やかな微笑を湛えた。
「これが月が剣の威力よ。女神の加護篤きラウスが打ち、陽の手を経て我が手に齎されたからこそ、世界の祝福を帯びておる」
「ラウスは初めから、これを狙っていたと……?」
疑わしげに眉を顰めて問う月守りの姉に、月は鷹揚に頷いている。
「尤も、我の施した術を陽が解いておらねばこうはなり得なかった。──我はあれに覚めるなと命じた。我と見えたを忘れ、二度と訪れて来ぬように、と。他の記憶はあったまま雲だけを払えておれば、このような戦争を呼ぶほど変貌は見せずにおられたはずだったのだが」
上手くは行かぬなと笑うように呟いた月がどこか楽しそうで、月の片割れは片方の眉を跳ね上げた。けれど問い詰める間もなく月守りの妹が憤然とした様子で腕を組み、まるで皇を睨むように青い空を睨みつけながら言った。
「猊下の術を解けるほど、あれは精霊の加護があるようには見えませぬ」
「精霊の加護なくとも、陽守りはあった。陽守りの声は、確かに太陽を呼び覚まそう。考えついて然るべきを忘れておった我のせいで、術は解けた。戦争を呼び込んだも、我に一因がなくもない」
「いいえ、猊下には何の非もございません。付け入られる隙を与えるほど、日頃の行ないが悪い皇のせいにございます。翳りを帯びるほど思い悩むのであれば皇制を廃止すればよかったものを、それができなかったも皇にございましょう」
全て悪いのは皇のせいと断じる月守りの姉妹に、さすがに月ともども苦笑した。
「まぁ、術が解けた為に月の剣が完全を為したのならいいだろう。猊下の御為となったのなら、な」
なぁと話を振ると、月はさてなと少し笑った。
「とりあえず、戦争を止める役は果たしてやった。後はラウスを殴りに皇都にでも行くが……、お前はどうする、島に戻るか」
送り帰すくらいはしてやろうと声をかけてくる月に、森守りは優雅に一礼してみせた。
「月の赴かれるところならば、どこへなりと共に参りましょう。──南に永住することになっても、俺の場所は空けておけよ」
「ティオラノード様!? 何を仰っておいでなのです、猊下は島にお戻りになられます! 左様ですね、猊下」
「分からんぜ、猊下のおられるところがウェディの森だ。あの島にあり続ける理由は、さほどないんだからな」
「森守り殿は黙っていてください、猊下、有り得ませんでしょう、島にお戻りですね!?」
必死になって月に問いかける月守りたちに、月はさてなと楽しげに声を立てて笑った。