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陽に群雲、月の風  作者: あつろ
14/17

6-2.月と太陽

 奇妙な鳥は、呟くなり蹲った彼を見守るようにずっと縁から離れなかった。フォードやシェルクが駆け寄っても平然とそこにいて、彼の様子を確かめると進路に顔を向けていた。彼が少し唸る度に顔を戻してきては覗き込むように首を傾げてまた進路に戻すといったことが四度ほど繰り返された時、船は島の入り江に入っていった。


「陛下。陛下、ご気分が優れられませんか? 薬湯をお持ち致しましょうか」


 フォードが心配そうに彼に声をかけると、彼は完全に船が停泊してからゆっくりと目を開けた。


「……陛、下……?」


 目が開けられただけだというのに何だかひどく気圧されて、フォードはただ呼ぶしかできなかった。シェルクは思わず後退るような素振りを見せたが、頭を振って何とかそこに留まっている。

 彼はちらりと視線だけでフォードたちを一瞥してくると、藍の瞳をゆっくりと細めた。


おうが怖いか」


 揶揄するように、笑うように尋ねられたそれは、以前にも聞いたことがある問いだった。






「何故、皇を手にかける必要があった。その権利が、あなたのどこにあった?」


 彼が静かに詰め寄った先にいた皇の五番目の寵姫は、まるで馬鹿を見るような目で彼を見下ろして鼻で笑った。


「民が哀れだ、と事あるごとに言っていたは誰? 口ばかりで何もせぬお前が偉そうにおしでない、民の望みを叶えてやったのではないか」

「ならば退位を望めばよかったのだ。皇の血を継ぐ全員が皇の御位から退くことが、何より民のためとなる。空いた皇の座を同じ血を持つ者が継いで何になる、何が変わる? 結局あなたは我が子を皇に据えたいがために、最も忌むべき犯罪に手を貸したにすぎない」

「空いた地位に我が子を据えたいと望むことの、何が悪い!?」


 感情的にに怒鳴りつけ、皇の寵姫はその美しい顔を醜く歪めた。

 彼が嘆きながらも静かに諭そうとしているのに比べて、激しく憤って我を通そうとしている子供のような皇の寵姫はひどく対照的ですべてを物語っていた。


「殿下」


 時間がと躊躇いがちに声をかけたシェルクに、彼は疲れたように溜め息をついた。


「もう少し、まともな人間であってほしかった。母上……、申し訳ないがあなたを処断させて頂く」

「私を。実の母を手にかけると言うの!? 何の権利があってお前にそのようなことが、」

「今回の計画に荷担していなかったのは、私とアレイネだけです。アレイネに皇位は、あまりに哀れだ」

「ほ、……ほほほほほほ! 結局はそうではないの、お前だとて皇位に目が眩んでいるにすぎない! 我らが生きている限り皇にはなれぬ、故に我らを殺してその座に就こうというか! 浅ましい、最もあの男の血を濃く受け継いだ下賎な鳥の子!」


 呪われておしまいと藍色の瞳が憎しみさえ帯びて吐き捨て、彼は黙ってそれを受け入れると既に兄たちを斬り殺していた抜き身の剣を構え直した。

 逸らすことなく睨んでくる母親の呪いをその身に受けるかのように見据えたまま、彼は一息で心臓を貫いた。断末魔の悲鳴も、死ぬ前の告悔さえなく、南の皇が有する剣の一振りでしかなかった女は彼に全てを押しつけたまま息絶えた。


 崩れ落ちる皇妃の身体から剣を抜き、吹き出す血を全身に浴びながら彼は静かに目を伏せた。


「最も愚かしい方法で、最も望まぬ我が子を皇位に就けられた。──本望ですか?」


 微かに笑うように呟いた彼の頬に流れるのは、夜深い今なお赤い肉親の血。

 彼の聞こえない悲鳴だけがその場に木霊しているような気がして、かけられる声などあるはずがなく。ただ彼の側で彼を見上げ、従う以外に術がなかった……。






 あの時、彼は全身を赤く染めていた。夜を思わせる外見を肉親の血に染めて紅き鷹となった彼が、唯一変わりない深い夜の瞳に嘆くような色を乗せて問いかけてきた──淡々と、彼を見捨てることさえ許容しそうな調子で。


「皇が怖いか」


 それはきっと、彼から逃れる最初で最後の機会だったのだろう。その先にある血塗られた道に引き摺り込まないために、彼はフォードたちを解放しようと問いかけてきた。罪を全て背負い、たった一人で孤独な皇位に就くことさえ是としたような彼を、どうして見捨てることができたろう?


 誰よりも近く、彼を見てきた。どれほどの葛藤の末に罪を犯す覚悟を決めたかを、知っていた。

 その問いかけが彼の優しさなのだということを、どうして理解しないでいられるのか。


「「いいえ!」」


 シェルクと声を揃えて即答すると、彼は口許に僅かに笑みを浮かべて目を伏せた。聞こえない謝辞が耳をついた気がしたのを、フォードは今でも覚えている。

 以来、一度として問われなかったそれは、今日はひどく柔らかく問われた。僅かな気安さと、信頼が乗った声で。皇としてそこに君臨してから後もフォードたちだけに向けられたその柔らかい調子の声は、何よりの誇りだった。ここしばらく忘れられていたその声の響きは、胸が締めつけられるほど懐かしい気がした。


「陛下、陛下ひょっとして、」


 喜んだような戸惑ったような、複雑に弾んだ声でシェルクが問おうとしたのを遮ったのは、今までじっとしていた鳥だった。ばさりと羽を広げて彼が見上げたのを合図のように飛び立つと、一筋の白い軌跡を残してやがて空に溶けた。

 彼はまたはらりと落ちてきた白銀の羽根を受け止めると、ふっと優しく笑って立ち上がっている。


「出迎えだ。行くぞ」

「ぅえ、あのちょ、陛下!? 調子悪そうだったけど、大丈夫なの!?」

「陛下、ご無理はなさらないほうが、」

「喧しい奴らだ。ついて来たくないならそう言え」

「「まさか!!」」


 憤然としてシェルクと声を合わせると、既にさっさと歩き出していた彼は肩越しに振り返ってきて楽しそうに声を立てて笑った。


「なら、さっさと来い」


 待ってくれる様子も見せないで船を降りていく彼の背中をしばらく呆然と見送っていると、シェルクがちらりと横目で窺ってきた。


「今のって……、陛下、だよな?」

「陛下が陛下以外の方であられたことはない」

「そ、そうだけど、そうなんだけど!」


 違うじゃーん!! と言いたいことを纏められずにばたばたしているシェルクが言いたいことは、大体分かる気がする。それでも戸惑っているのはフォードも同じで、何を言えばいいのかが分からなかった。


「それよりも、陛下をお一人で行かせるわけにはいかん。先に行くぞ」

「あ、ちょっ、ちょっと待ってってば!!」






 彼の濃紺の髪を見失う前に何とか後を追うと、シェルクもばたばたと後を走ってくる。島に降り立った彼に続くと、大地に足を下ろした途端にどこかで何かが歪んだような違和感があった。不審げに眉を顰めていると後ろから勢いよくぶつかられ、蹈鞴を踏みながら何とか堪えて振り返るとシェルクは反省した様子もなく笑っている。


「急に立ち止まんないでよ、嫌だなー。人は急には止まれないんだよ?」


 へらへらと笑って言う姿があまりに癇に障ってとりあえず殴りつけ、詰め寄ってくるシェルクをあしらっていると甲板から覗き込んでいるだけの船員たちに気がついた。降りてくるように指示するべきかと彼に振り返ると、彼はさっさと追い払いたげに片手を振っている。


「ご苦労だったな、先に帰っていろ」

「陛下!?」


 何言い出すのさとシェルクが詰め寄る先を変えるが、彼は動じた風もなく煩げにシェルクの頭を抑えつけて、船員たちに帰れと再び命じている──それは確かに命令でしかなく、船員たちはしばらく戸惑ったものの結局従った。


「陛下、どういうおつもりなのですか!? 夏至までは後もう三日しか、」

「分かっている」

「分かってたらどうして船を帰しちゃうんだよ、陛下!! ひょっとして前の時もそうだったとか言わないよね!?」

「ああ、連中なら側の島でまだ待機してることだろう。ここの連中が、親切にも俺を送り帰したことを告げてくれているとは思わんからな」


 軽く肩を竦めながら、彼はどこか幸せそうな笑みを口許に刻んだ。それは長く側にいたフォードたちでさえ見たことがないほど満ち足りたようにひどく穏やかで、あんまり優しいその笑みに思わず声もなく見惚れていると彼は誰かに気づいたように振り返った。


「そうだろう?」

「阿呆を一人送り帰したと、わざわざ告げて何になる。お前を送り帰してやっただけでも、感謝されるところよ」


 彼の問いかけに皮肉な物言いで答えたのは、玲瓏とした声。それはしっとりと心に馴染んでくるようで、振り返らずにいられないほどの力を秘めていた。

 フォードが我知らず視線をそちらに向けると、そこには燦然と輝く月があった。先ほどの鳥が人に化身したと言われても納得しそうな、まるで人外の美しさがそこにある。


「月はこの世界の全て。絶対神と七柱の女神に愛されし者。その容姿、月の如く麗らかにして怜悧。その声、全ての楽を重ねるほどに優麗。その瞳が映すもの全てに喜びと惑いを与える、夜の空、昼の空にも君臨せし者。世界の全てを従えることも可能なる、月の名を持つは世界に愛されし者……」


 大皇太后の言葉が、今初めて実感を伴ってフォードの耳に蘇った。


「禁忌の、月……」


 シェルクがぼうとした様子で呟いたのを引き金にして、いきなり鋭い刃先が向けられてきた。

 喉元に突きつけられてようやく気づいたそれは、憎しみさえ篭っていそうな眼差しの女性が手にした突剣だった。ちらりと視線をやれば、多分に姉妹なのだろうよく似た顔立ちの女性がシェルクに三日月刀を突きつけている。


「ここをウェディの森なる島と知って降り立ったか? 禁忌の地に足を踏み入れた者、命あって戻れると思うな」


 低く脅すように声をかけてきたのは、フォードに剣を突きつけている女性。フォードが自分の剣に手を伸ばそうとすると、刃先をより強く押しつけられた。


「無駄な抵抗はよせ。我らが猊下の審判に従って死ねることを、光栄に思うがいい」


 言って実行しようとする女性に本気の色を見つけてぞっとしたものの、何故か呪縛でもされたように指先さえ動かせない。そのまま突剣の先が首に減り込むだろうと嫌な予想が頭を掠めた時、軽やかな笑い声が耳を打って女性はそちらに一瞬気を取られたようだった。途端に喉に押しつけられていた突剣は何かに跳ね返されたように押し戻され、二歩ほど後退った女性は蹈鞴を踏んで何とか堪えている。


 どうやらそれはシェルクに剣を突きつけていた女性も同じだったらしく、三日月刀が離れるなり抜刀しているシェルクが視界の隅に入った。フォードも剣に手をかけたが、抜刀するより早く彼がゆるりと手を払ってそれを制してきた。


「よせ。確かに無断で降り立ったのは俺たちだ」

「けど……、でも!」


 反論したげにシェルクが声を荒らげたが、冷たく見据える彼の眼差しに負けて口を噤んでいる。

 彼が視線を戻した先にいる月は、まだ少し笑ったまま二人の女性に何度か頷いている。


「レェイ、ルェイ、剣を引け。あれなるは陽守ひのもり、皇に侍る者が共に降り立つを咎めるには及ばぬ」

「猊下! 此度の到来を許したは、皇のみにございましょう!」

「それとても剣の一件がなくば、二度も禁忌に踏み入った無礼者と討ち取るところにございますのに……!」


 歯痒そうに顔を顰めて抗議する姉妹に、月は笑ったままも冷たく目を眇めた。


「引け、と告げたな?」


 逆らうかとの言下の声は、フォードにも届く。姉妹は雷に打たれたように萎縮して身体を縮込めると、まさかと嘆くように答えて剣を引いた。そのまま大人しく月の側に侍った姉妹は、それでも激しく燃え盛った瞳で睨みつけてくる。

 彼はその姉妹の様子に笑いながら月を見つめて、目を伏せるようにして一礼にかえた。


「二度の無礼を謝罪しようか」

「要らぬ。精霊の祝福を受けぬ口先ばかりの言葉など、何の役にも立たん。それよりもここに参った用事を果たし、疾く帰れ」


 邪魔だと言い切ってしまう月の言葉はそれでもどこか楽しそうで、僅かに紫を帯びている白銀の瞳は和やかに笑っている。


 彼が声を上げて笑うのを聞きながらようやく月の姿を観察すると、それは月の片割れを名乗った男とそっくりの容貌をしていた。違いと言えば月のその肌は白く、髪は紫を帯びた金色で若干ほっそりとした印象を受けるくらいだろう。だが腰の後ろに白金を基調に藍で彩られている剣を提げ、ぴんと伸びた背筋と顎を引いて前を見据えるその姿は、褐色の肌の男よりもどこか軍人を思わせる強さがあった。高圧的にも思える言葉遣いでさえ月には最も相応しく、気にもならない。


 彼も気を害した風もなく一つ頷くと、腰に提げていた剣を取り上げた。


「月の剣を届けにきた。の剣と交換してもらえるか」

「──よかろう。遠路ご苦労であった」


 頷いて月も剣を外し、左手で鞘を支えると右手で一気に剣を引き抜いた。途端に鮮やかな橙の光が零れ落ち、フォードとシェルクは思わず感嘆する。

 彼は眩しそうに──焦がれるように目を細めて見つめると、月と同じく左手で鞘を支えて右手で剣を引き抜いた。朝日が昇ったばかりのはずの島が僅かに翳った気がして白銀の光が溢れると、月の側にある姉妹は一瞬だけ瞳を和ませたようだったが、フォードたちの視線に気づいたのか慌てて顔を引き締めている。


 彼と月の手にある抜き身の剣は、やがて光を収めるとその刃に陽光だけを反射させている。それを確かめた月は剣先を空に向けて構え、一度振るって彼に向けた。彼は剣先を地に向けて構えると、同じよう一振りして月に向けている。刃の半ばほどでほんの僅かだけ交差した剣は、共鳴するようにちりちりと鳴いている。吹き拭けていく風と、打ち寄せる波と、彼らを取り囲んでいる木々は一斉に地の底から響くような音を立てて、二本の剣が出会ったことを祝福している気がした。


 やがてそれらの音が全てやんだ時、剣は互いの主の鞘へと静かに収められていた。ようやく元の姿を取り戻した二本の剣は、互いの主の手の中で聞こえない喜びの歌を歌っているかのようだった。


(これで目的は果たされた)


 終わってしまえば呆気なくも思えるが、多分にこれは必要な儀式だったのだろう。銀細工師から直接手渡されては、月と太陽の剣は出会わなかった。互いに主を取り違えた剣が主を前にして喜びを歌ったからこそ、世界中が祝した。銀細工師にも施せない、それが最後の仕上げだったのだろうと今ならば理解できる。


 一言もなく戻された剣を鞘のまま眺めていた月は、やがて描いたような柳眉を片方だけぴくりと跳ね上げて軽く睨むように彼を見た。


「我が剣で勝手に試合うたな、阿呆」

「すまない。使ってみたい誘惑に勝てなかった」

「簡単に言いおって。陽が剣を抑えるに、我がどれほど苦心したと思う」

「まさか、それほど苦心したようには見えないが」


 彼が笑いながら言うと、月は楽しそうに笑った。


「確かに陽を治めるが如き、我には息をするほど容易い。だからとて、使わずにいるは容易くはない」

「ああ、……成る程。それは申し訳なかった、スティラシィア」


 いっそ容易く謝罪する彼にフォードたちが複雑な顔をしている間に、姉妹は再び剣を抜くなり彼に突きつける。


「陛下!」


 駆け寄ろうとしたフォードたちを彼が手で制し、月が姉妹を手で制した。


「よせ、と言うたはずであろ」

「なりません、こればかりはなりません!」

「そうですとも、猊下が御名を容易く口にするなどと、不敬にも程がありましょう!!」


 泣き出しそうな勢いで姉妹が食ってかかるそれに、月は肩を竦めて彼は苦笑している。


「それでは月の猊下、と?」

「精霊が祝福のない言葉は要らぬ、と言うたはずよ。名乗ったは我だ、好きに呼ぶがいい」

「「猊下!!」」


 悲鳴のように声を揃える姉妹に、月は苦笑を重ねる。


「仕方あるまい、翳った太陽は不快であった。雲を払うに、我の名が要っただけの話だ」

「ですから斯様な夜が太陽など捨て置かれますように、と申し上げましたのに!」

「猊下はこの男に対して、あまりに甘うございます! 太陽など幾つもあるが内の一つ、お気になさることなどございませんでしたっ」


 腹立たしげに彼を睨みつけて好き勝手に言う姉妹に、さすがにフォードたちも神経を逆撫でされて詰め寄った。


「あのさぁ、さっきから聞いてりゃ言いたい放題すっげぇ腹立つんだけど! そっちこそ陛下に対して無礼極まりないっての!!」

「確かに禁忌の地に乗り込まれたは、我らが陛下だ。だが、今回この地に赴いたのは月の剣を届けにだ。そちらの猊下とやらが島を出られぬなどと不精をなさったからこそお忙しい御身をお運び頂いたというのに、剣をして迎えた上に愚弄するのがこの島の流儀か?」

「不精とは何事だ! 猊下の御身に彼の地の不浄が毒なるを、ティオラノード様に聞いたろう! あのような穢れた地でのうのうと生きていられるような下賎の身に猊下が尊さが分からぬは仕方ないとしても、その言葉は訂正されよ!」

「下賎ー!? はっ、あんたたちが一体どれほど高貴でおいでなんだか? 月影に隠れて騒ぎ立てることしかできない連中が、何をして俺たちより高貴だ! そんなに尊くあらせられるんだったら、大陸の不浄とやらを浄化してみりゃどうなんだよ? できもしないで隔離された地で騒ぐくらい、猿だってできるね!」

「貴様っ……! 抜け、貴様の血をして我らが名誉を取り戻してくれよう!」

「望むところだ!」


 答えるなり剣を抜くシェルクと、姉妹の内の妹の剣が交錯する前に彼がシェルクを殴りつけた。妹のほうは、姉によって叩き倒されている。


「な、何すんだよ、陛下ー!」

「姉者、何故に止められるのです!?」


 互いに涙目になって止めた相手を見上げている二人に、止めた二人は溜め息を揃えた。


「お前は鳥頭か、シェルク。皇宮で月の片割れが言ったことを忘れたか?」

「何故猊下に長くお仕えする月守つきもりともあろうお前が、猊下が御前で私情によって剣を抜く? 猊下に血の穢れが何よりの障りとなるを忘れたと言うか」


 愚かなと姉が吐き捨て、妹はあっと口許を覆って窺うようにそろりと月を上目遣いで見上げている。シェルクもああと手を打ち、無言で見下ろしてくる藍の瞳に負けたようにしゅんとした。


「陛下、どうぞシェルクをお許しください。剣を抜いたことは軽率ではありましたが、陛下を愚弄されて剣も抜けぬ者を陛下はお側に置かれませんでしょう」

「それはいい。だが、場を弁えろ」

「ご、ごめんなさい……」


 泣き出しそうに瞳を潤ませて謝罪するシェルクに、彼は溜め息をついて月に振り返った。

 月は面白そうに一連の成り行きを見守っていたが、しゅんとしてしまった二人に微笑ましげに目を細めて少し笑った。


「別に止めずとも、放っておけばよかったものを。月守りと陽守りの剣の舞いを見るも、よい余興ではあった」

「猊下、お戯れを。月守りとして、ルェイの行動は誉められたことではございますまい」

「こちらも知らなかったのならまだしも、知っていて剣を抜いたのは俺の不徳だ。すまない」

「よいと言うた。実際に血が障るのではなく、争いに巻き込まれて尖る精霊の気配が障るのだ。互いに主を想い抜く剣は、いっそ心地よい。あまりに激しくなれば我とても止めようが、」


 楽しげに話していた言葉はそこで途切れ、月は唐突に空を仰いだ。何事かと思っている内に柔らかな羽ばたきが聞こえて全員が視線を上げると、先ほどの鳥が優雅に舞い降りてきて月の差し出した左腕に止まった。金にも見える嘴を恭しく月に向け、白い鳥は柔らかな声で鳴いた。


 りぃるぅいいぃいぃいるぃりぃぃいいぃ


 先ほどは流暢な人語を操っていた鳥が鳥らしく鳴いたそれに、眉を顰めたのは月だけ。月守りと呼ばれている姉妹は、主に心配げな眼差しを向けている。


「猊下、何かございましたか? まさか、ティオラノード様に何か?」

「ティオに何かあれば光輝を介さずとも分かる。我よりも、南にとって朗報ではあるまい」

「西が動き出したか」


 彼が僅かに眉を顰めて問うと、月は気怠げに頷いた。


「夏至の葬儀が終われば総攻撃をかける気であろう、既に国境に布陣が整えられておる。今のところは国境を越えようとした者はティオが食い止めておるが、神官が総出でくれば一人で止められるものではあるまい」

「ちょっ、陛下、どうしようまずいって! 民の移動と武器を運び込むほうは指示を出したままだけど、俺の部下は殆ど皇都に呼び戻したし、神官たちは葬儀のほうに大半を割いたから国境って今がらがらだよ!」

「国境を押さえられるのは、歓迎できる事態ではありません。いっそ葬儀を先延ばしにしても、今すぐ国境に布陣を敷いて迎え撃たねば、」


 齎された情報の重大さに泡を食って二人して提案すると、彼は呆れたような色を浮かべた。


「落ち着け、今ここで騒いだところでどうにもならん。とりあえずは月の片割れと、ラウスの捜索に向けていた連中で凌げるはずだ。葬儀は取りやめても先延ばしにしても、それを理由に攻めてくるだろう。そ

れにいつまでも祖母様を放っておくわけにはいかん、夏至の葬儀は執り行う。大体、今からどうやって連絡を取るつもりだ」


 まるで他人事のように尋ねる彼に、シェルクが頭を抱えて蹲った。


「そうだって、夏至に皇都にいられるかってのも問題じゃん! つーか今のままなら絶対無理だし……、あーもおどうしよう、帰ったら西に占領されてるなんてやだぁっ!!」

「不吉なことを言うな、シェルク。今すぐ船を呼び戻せば何とか夏至にはフェルに戻れる。そこから隣町まで行って皇都でなく国境付近の……、そうだな、スヴェル辺りの神殿に呪陣があったはずだ。あそこに出れば、上手く行けば何とか戦端が開かれる前には」


 必死に南の地図と兵力の分布を描いてフォードが呟いていると、すっかり他人事の風情だった彼が月に振り返った。


「手を貸してほしい、と望むのは酷か」

「大陸の戦争に、猊下を巻き込まれるおつもりか!」

「何の為に皇の到来を許したと思う! 猊下が大陸に赴かれれば、お身体に障るからだと何度も言っているであろうが!」


 月守りの姉妹が噛みつくように反論するが、彼は煩げに目を細めて姉妹を見下ろした。


「俺はスティラシィアに尋ねている。関係のない者は黙っていろ」


 それは明らかな命令であり、絶対だった。


 南の玉座が彼を選んだ理由は、多分にそれなのだろう。彼ほど皇に相応しく、皇気によって人を圧倒できる者は他にない。月という従うべき主を持った姉妹でさえ、彼の威圧に負けて思わずその場に膝を突くしかできずにいる。

 月は口惜しげに跪いて下がった姉妹を見下ろして苦笑すると、彼に向き直ってどこか皮肉に目を細めた。


「我に手を貸せと、それは皇が命令か?」

「まさか。スティラシィアの負担になるならば、望まん。元よりこちらの勝手な戦争だ、なるべく早く精霊が落ち着くよう、決して長びかせんと誓おう。陽の剣も手に入ったことだ、女王さえ討ち取れば後はどうとでもなるだろうからな。ただ、西は精霊を従える国だ。精霊に愛されし月ならば、戦争を始める前に何とかできるのではないかと思っただけだ」


 違うか? と笑うように尋ねる彼に、月は重い沈黙の後に口を開いた。


「止めるだけならば皇にもできよう。だが、時間も血もかかろうな」

「俺は、剣以外に止める術を知らんからな。例えばこれが謀だとしても、より簡単に止められる者が俺の前にはある」

「──なまじ女神の加護など篤くなければ、鼻にもかけずにいたものを」

「全ては戦争を止めろとの思し召し、ということでどうだ?」


 多分に月にしか分からないことを言って優しく目を細めた彼に応えないまま、月は腕に止まった白い鳥を眺めている。甘えるように目を閉じて、差し出された指に顔を押しつけている鳥を眺めていた月は、やがて小さく溜め息をついた。


「まったく厄介な……。今しばらく眠っておれば、全ては南で片のついた話であったろうに」

「そうかもしれん。すまない。……因みに、ラウスならば我が皇宮にあるが?」


 笑いを堪えられないまま彼が続けると、月は呆れたように彼を見て片方の眉を跳ね上げた。


「雲が晴れた途端に、強気よな。太陽が分際で、どうあっても我を担ぎ出そうと言うか」

「太陽なればこそ、月の側に侍りたいと願うものだろう。俺がここにあれないのならば、担ぎ出しても側に、とは願う」

「阿呆が。だが……、斯様な阿呆に戦争の行く末を任せてはおけぬのも事実か」


 仕方あるまいと諦めたようにもう一度深く息をついた月は、月守りの姉妹に振り返った。


「南の大皇太后は見知りある。剣に敬意を表して、葬儀に参列しようほどに」

「猊下!」

「島をお出になられると仰せですか!?」

「聞いたであろ。葬儀に参列し、ラウスを殴れば戻る。すぐに支度しろ」


 言って鳥の頭を撫でて腕を差し出す月の手から、傷つけないように注意を払いつつ彼が鳥を受け取っている。彼の手に抱えられた鳥は、切なげにきゅういと鳴いてそのまま空に駆けていく。

 月はそれを見送ると狼狽えている姉妹を他所に踵を返して森の奥へと歩き出しており、猊下と声を揃えて姉妹が後を追っていく。いきなりその場に取り残されたフォードたちは、唯一の導たる彼を仰いだ。


「結局……、何がどうなったわけ?」


 分からなさそうに尋ねたシェルクに、彼は楽しそうに笑みを深めた。


「月が大陸に渡る──、ただそれだけだ」


 あんまり楽しそうにしている彼にかけるべき言葉を失い、フォードとシェルクはそっと目を見交わすと肩を竦めあった。

 戦争よりも何よりも、つまりは彼が楽しそうならばそれでいい気はしないでもない。

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