6-1.月の名前
海神の加護と穏やかな海のおかげで、夕方に乗り込んだ船で二度目の夜が明ける頃、薄紫の空と白く霧かがった空気の向こうに薄っすらと島影が見えた。
彼は舳先まで歩いていくと、僅かに緑を帯びたその島影に目を細めた。
「行かれるのですね、お祖母様を置いて。今再び、記憶を失いに行かれますのでしょう」
泣きすぎたためかどこか掠れて力なく呟いた従妹の声が耳に蘇り、彼は静かに目を伏せた。
大皇太后の側にずっと侍り、彼が足を運んだ時には既に為すべきことは全て為されていた。大皇太后の二度と血の気の戻らない唇に薄く紅を引き終わり、顔を上げてきた彼女にかけられる言葉を見つけられずに思わず立ち竦んだ。精霊の徴を持つ従妹は焦げ茶の髪を顔を隠すように垂らしたまま、ゆっくりと頭を振った。
「いいえ。いいえ、責めてはおりません。お祖母様はとても穏やかに眠られました。それは今のあなたのおかげでしょう。私の存じ上げている皇ならば、きっとあんな風に優しくお祖母様を送ってはくださいませんでしたもの」
顔を伏せて焦げ茶の髪で顔に紗をかけたまま、彼女は一言一言を噛み締めるように話した。多分何の応えも期待していないだろう彼女は、やがて疲れたような溜め息を一つついた。
「皇のなさることに、間違いはないのでしょう。お祖母様は最期に救われ、あなたはあなたでお祖母様を許したことによって救われるのです。──それでは、私は?」
唐突にぽつりと呟いたかと思うと、彼女は泣きながら詰め寄ってきた。
「いつもそう、どうして私には何も教えてくださいませんの!? そうして私自身を許せだなんて、よくも言いやがられますことっ。どうやったらそんなことができますの、どうすれば私は許されますの! 何もできないで……、いつも置いてけぼりにされたままで……っ!」
ふざけないでと殴りかかってくる彼女に何度も胸を殴られながら、泣きじゃくって踊る焦げ茶の髪がひどく痛かった。頭の奥で硝子の破片がゆらゆらと揺れ落ちていくのを感じながら、頭を抱き寄せて悪いと呟くのが精一杯だった。
何も答えないまま泣きじゃくっていた彼女は、しばらくして泣き疲れたように泣き止むと彼を突き放すようにして離れた。
「まったく……、皇のくせに簡単に頭を下げるなんてなってませんわね! 大体、私が言うことの半分も分かっておられないでしょうに、悪いだなどと。そんないい加減なことを平気でなさるから、陛下はロクデナシなのですわ。口ばっかりのヘタレであらせられますから、禁忌の地で記憶を失うような間抜けな真似ができますのね。我儘で横暴で傲慢で尊大で横柄で不遜で倣岸で、……まぁ、丸っきり子供ではありませんの!」
泣き腫らした顔を隠すように片手を顔に当てて、それでも強気に笑う彼女が健気だと思わないでもなかったが、それより先に額のあたりが引き攣った。
「喧嘩を売る気なら買ってやるぞ」
「まぁ、か弱い女性を相手に暴力まで振るわれますの? そんな風ですから、クソッタレの名を甘んじて受けねばならなくなりますのよ」
最低と顔を顰めて言い放つ彼女にとりあえず数を数えて殴るのを我慢していると、精霊の徴を持つ従妹は、そうと滲むように微笑った。
「それでも、存じています。唯一に近く血の繋がっている私を、西の国に差し出さずにおかれたのが陛下なりの謝罪の仕方だったことを。私から家族を奪ったことを、ずっと負い目に感じていらっしゃったことを。お祖母様と私を、家族として愛してくださっていたことを……」
囁くように告げて、彼女は静かに眠っている大皇太后に振り返った。
「──お祖母様が許されたのならば、私も懺悔してもよろしくて? どうせまた記憶を失っておいでなのでしょう、聞き流すくらいのことを……して頂けませんこと?」
「都合がいい時だけ記憶がないことを利用するんだな、お前たちは。まぁいい、祖母様の前だ、少しくらいは寛大を分けてやる」
苦笑して彼が頷くと彼女はまた泣き出しそうに顔を歪めて、それでも堪えて俯いた。
「ずっとお側にあり、様々な横暴を眺めながら私は陛下をお止めできませんでした。陛下は、止める者をお望みだったのですね。皇として歪んでいくことがご自身でも耐え難くあられた……、それを私に止めよとの仰せだったのですね。気づかずに目を背けておりました。光輝が曇るのを、ただ嘆いていただけでございました」
後悔したように眉根を寄せて、苦しげに呟くような懺悔は胸に痛かった。
「申し訳ございません。どうぞ……、どうぞ私の罪をお許しください」
掠れるような声で謝罪して彼の前に膝を突き、長い髪を地に広げるほどに頭を垂れた彼女の髪にそっと左手を置いて、彼は一言だけ呟いた。
「赦す」
ただそれだけで、でも彼女が最後の涙を溢したのが分かった。ほぅと、ようやく肩から力が抜けた気がしていると彼女は顔を上げ、さっさと立ち上がった。
「私、陛下に跪くのは大っ嫌い!! ですわ! 許せませんの、こう、全ての自尊心という自尊心を踏み躙られている気がして!」
「ほう。それではこれからお前にのみ叩頭を義務つけてやる、感謝しろ」
「そんなクソッタレな法律、死んでも従いませんわよ」
「会う度に頭を抑えつけて、踏みつけられるほうが望みか?」
彼女がどれだけ背筋を張っても身長差で明らかに彼が見下ろすと、精霊の徴を持つ従妹はぎりぎりと歯噛みした。
「──だから私、陛下のことが大っ嫌いですわ!」
「有難いことだ。それよりも、これからすぐにも発つ。葬儀の準備等、闇の神殿の大僧正と共に万端整えておけ。西がいつ攻めてくるともしれんが、そちらは打てるだけの手は打っておいてやる。祖母様を送りもしない内から、占領されるような馬鹿だけはするなよ」
「でしたらわざわざ禁忌の地などへ赴かれなければよろしいですのに、頼むにしては横柄なのではありませんこと!?」
「まだ言わせるのか? 俺は誰だ」
「──クソッタレな南の太陽ですわよ!!」
吐き捨てられた言葉に少し笑って、彼は彼女の髪を撫でて踵を返した。精霊の徴を持つ従妹は憤然と腕組みしていたようだったが、彼が出ていく前にもう一度優雅に頭を下げた。
「ご無事のご帰還を、お待ち申し上げております。どうぞお祖母様の葬儀までには、お戻りくださいますように」
「お前がここを滅ぼさない限りは戻ろう」
彼が返したそれに、彼女はどんな風に微笑っただろうか。
結局どれほどに萎れたように見えようと、毒があろうと、ぴんと背を伸ばして艶やかに笑うことができるからこそ、あの従妹は精霊の徴を持つのだろう。自らの血に嘆くことしかできずに斬り捨てた皇にも、まだ救いはあったのだろう。
(いくらそれが俺だと言われても、どうにも実感は湧かないが)
皇に連なる者しか潜れない扉を平気で通れたり、大皇太后や精霊の徴を持つ彼女には家族じみた思いが広がるから、血の繋がりがあること自体は認めないではない。それでも顔貌がそっくりな双子の兄弟がいると言われたほうが、まだしも現実味がある気がする。
「陛下」
恐る恐る後ろから声をかけられて、そこに控えているのがフォードだと理解した彼は振り返らないまま何だと答えた。
「少しお寝みになられてはいかがでしょう。彼の地に着く前に、ちゃんとお声はかけさせて頂きますが」
「ああ……、いや、いい。お前こそ、少し休めばどうだ」
「私は、シェルクと交代で休ませて頂いております。陛下は皇都を出られてから、一睡もされておられないではありませんか」
心配そうに声をかけてくるフォードに、彼は小さく笑った。
「心配ない、眠るのが惜しいほど高揚しているだけだ。あの島に近づくほど、月の剣が喜んでいるのが分かる」
彼の声に応えるように、腰にある月の剣はちりちりと高い音で鳴いた。
まだ明け染めない薄紫の空に白銀の音色が遠く走ったのを見上げると、おぉおぉぉおん、と低い地鳴りのような声が応えて僅かに波を高くした。ぐらりと船が揺らいだせいでフォードは思わず手をついているが、彼は懐かしげに目を細めただけだった。
「今の、は……」
「禁忌の地はもう目の前だ、何があろうと不思議ではない。月が剣が主の手に還りたがっているのを、何も邪魔する物はなかろう」
剣の到来で海が叫ぶくらいは許してやれと彼が笑うと、フォードは複雑そうな顔をした後、御意と頭を垂れた。彼はようやく島影からフォードへと向き直り、甲板に膝を突いたままの柔らかい金茶の髪を見下ろした。
「──ひどく今更だとは思うが。お前はどうして、俺を皇とする」
目が覚めた時からずっと尋ねたかった疑問を口にすると、フォードは鳶色の瞳で見上げてきて不審げに眉根を寄せた。
「申し訳ありませんが、ご質問の意図が理解できかねます」
「だから、俺が記憶を失っているのは確かだが皇である確証はないだろう。お前たちの知らないところで、皇に双子の兄弟があったかもしれん。それだったなら、皇は別にあるだろう」
「恐れながら、それはあまりにも愚問にございます。陛下は、月と太陽を見間違われましょうか? 例えば夜に紛れたとしても、太陽は変わらず太陽にございましょう。それをどうして見間違いましょうか」
その問いがあまりに侮っているように感じられたのだろう、フォードは不機嫌そのものといった顔で答える。しかし彼には納得がいかなくて、軽く肩を竦めた。
「太陽に酷似した星が、太陽の裏に隠れていたかもしれんだろう」
「お言葉ではございますが、砂漠で長く彷徨う者が唯一の導となる太陽から伸びる影を見間違うことなどありましょうか? 生涯をかけて太陽のみを見上げてきたのです、それだけを導にきたのです。例えどれほど同じ姿の太陽が並ぼうとも、見分けられないはずがございません」
きっぱりと断言するフォードに、彼はひどく照れて顔を顰めた。
「よくまぁ、人でなしの皇にそこまで傾倒できるな。乳兄弟だからか」
「陛下は皇という重圧に少し辟易しておられただけで、人として真理に悖ることをなさっておいでだったわけではありません。乳兄弟というだけで盲目的にお仕えするほど、私は愚かに見えますか」
憤然とした表情で拗ねたように問い返され、彼は堪えきれずに吹き出した。
「本当に愚かな皇ならば、不敬罪で首を刎ねるところだぞ!」
「それをなさる方ならばお仕えしていません、と申し上げておりますでしょう」
しれっと返すフォードに彼が笑いを収められずにいると、船室から甲板に上がってきたシェルクがきょとんと見つめてきた。
「珍しい、陛下が馬鹿笑いしてる。なになに、フォード、そんなにおかしいこと言ったの? ちぇっ、寝てないでここにいればよかった」
「……お前がいたら言ってるか」
「うわなに、感じ悪い、フォード! 俺には言えないってか!?」
ちくしょう意地でも聞いてやると詰め寄っているシェルクを、フォードは煩そうに引き剥がして恨めしげに軽く睨んでくる。
「陛下、そのように笑っておられないで、いい加減この馬鹿を引き剥がすのを手伝っては頂けませんか」
「皇をこき使うな、阿呆。自分で撒いた種は自分で刈れ」
彼がくつくつと笑いながら縁に凭れ掛かると、遠い水平線から僅かに光が零れた。
突き刺さるほど強く、目を細めるほどに柔らかく鮮やかなその光は、優雅な仕草で夜の帳を取り払っていく。白い貴婦人の扇は次第に橙と朱を帯び、緩やかに仰げば立ち込めていた影のような霧は払われて、船の行方は鮮明になる。大気に光の粒子が舞い、色を鮮やかにして目覚めの歌を告げる。
<リーツィとクロウの口接けから、全ての朝が始まる>
いきなり瓏けた声が謳い、はっとして顔を上げると蒼穹から舞い降りてきたのは白銀の羽。彼がそれを掌に受けると、羽ばたく音と共に舞い降りたのは長い尾羽を持った真白の鳥。鮮やかな金にも見える黄色の長い嘴を彼に向けた鳥は、首を傾げるような仕草をした。
<眠っておれと言うたも、聞き入れなかったか。……まぁよい。それがお前の運命ならば、早き目覚めは凶ではあるまい>
流暢な人語を紡ぎ、笑うように告げたその鳥を彼は食い入るように見つめた。見たことのある誰かとそれが重なって、ちりちりと耳の奥で警告めいた音が鳴るのも気にならないまま呟いた。
「スティラシィア……」
零れ落ちたその名前で、頭の奥に煌いていた硝子の破片は弾けて粉々になった気がした。