4-2.月の片割れ
大皇太后の死を神殿に通達し、いつ戦争が起きるとも知れない状況下だから騒ぎ立てないよう、今のところ内密にするよう申しつけるなど細々とした連絡を済ませてから皇の執務室に行くと、彼は先ほどの危うい頼りなさをすっかり払拭し、燦然と輝く太陽の如くそこにあった。
彼が記憶を失ったと知った時は太陽が翳ったような気になったのに、今ではすっかりこの姿こそが本来の太陽であったのだと確信する。かつてどれほどに追い詰められていたかを思うと胸は痛いが、あの時にシェルクが言ったように、それで彼らしくあれるのならばいいのだろうかとふと思う。
「そんなところで立ち竦んで何をしている?」
「あ、……いえ、何でもございません。それよりも陛下、先ほどの不審な男のことですが、」
「そうそうそう、フォードも何とか言ってよー! 恐れ多くも大皇太后陛下の御寝所に不審な男が入り込んだなんて、俺の面目丸潰れだし! 意地でも捜し出して尋問するのは俺の責務だって言ってんのに!」
きぃっと苛々したように声を上げるシェルクは皇宮の警護責任者で、本来ならば不審な人物を皇宮内に入れただけでもそれなりの処分が言い渡されて当然なのだが、彼はシェルクの主張を聞いていい加減にうんざりしたような色を浮かべて藍の瞳を細めた。
「放っておけ、と言ったはずだな」
「でも! ひょっとしたら大皇太后陛下を弑し奉ったかもしれないんだよ!? 陛下が真っ先に捜索の陣頭指揮取らなきゃいけないとこじゃん! つーか俺が責任とって辞めるとか言い出さない内に、本気で捜し出す許可くださいっ」
ばんばんと執務机を叩いて主張するシェルクの言葉は、皇に対する言葉遣いとしてはなっていなかったものの、言っていること自体は道理に適っていた。
「陛下、シェルクの申す通りです。この不穏な時勢で、西の間諜かもしれない者を皇宮内でうろつかせておいてはなりません。まして大皇太后陛下の死に関している可能性が否定できないとなれば尚更です」
フォードが後押しするとシェルクはうんうんと深く頷いたが、彼は疲れたような溜め息をついた。
反射的に身体を竦ませると、冷たく眇めた藍の瞳が物憂げに睨みつけてきた。
「押し問答を繰り返す気はない。捨て置け、と言った」
低く怒りを帯びた声音は、それを命令だと教える。こくりと喉を鳴らして思わず跪きそうになったが、フォードは何とか頭を振ることができた。
「陛下には深いご思慮あってのお言葉とは存じますが、それでは皇宮の警護責任者たるシェルクの面目が立ちません。不審な者を易々と入れる雑な警護の責任と、ひいては大皇太后の御身を危ぶませた責任を取らせてシェルクの首を斬ることとなりますが、それでも理由をお聞かせ願えないでしょうか」
「うう、俺まだ死にたくないよぅ」
ふざけた調子で呟くシェルクは、それでも彼が口を噤んだままでいれば責任を取らざるを得ないことを承知しているのだろう。僅かに青褪めた顔で真っ直ぐに見つめてくる朱色の瞳に、彼は仕方なさそうに息を吐き出した。
「侍女たちは全て弾かれていたところを見ると、あの男が闇を手繰っていたと見て間違いないだろう。人を選別して通す闇など自然には発生しない。第一、天気のいい昼日中にあれほど深い闇が自然発生すると思うほうがどうかしている。あの男が手繰ったとして、あの闇に敵意はなかった。俺の行方を遮ることなく、寧ろあの視界の利かない中、祖母様の許まで辿り着けたのは闇が導いたからだ」
「そのような精霊を使う者でしたら、尚のこと皇宮内で野放しにしておくわけには、」
淡々と説明する彼の言葉で不安になってフォードが口を挟むと、彼は苦笑して軽く片手を上げて制してきた。
「急くな。大体お前が言ったんだろうが、アレイネでさえ闇は手繰れぬ、と。精霊の徴を持つ者でさえ叶わぬ闇を使える者だ、姿を隠すことも容易いだろう。事実、警護の目を抜けて祖母様のところに辿り着いてたんだからな。シェルク、お前は自分の責務も果たさない内から俺の側に侍るのか」
「私の頂いた地位は、陛下の御身をお守りするための重大且つ誇りある役目かと存じます。手を抜いたがような言われようは心外です」
憤然とした様子で殊更畏まって抗議するシェルクに、彼はそうだろうと表情を少し和ませた。
「つまり、皇宮の警護は完璧だったと言うことだな。その全ての警護を掻い潜り、且つ後宮まで忍び込めるほどに精霊を使える相手を万が一見つけられたとして、捉えることが可能か? 捕まえられんだけならまだしも、無駄死にを増やすことになったらどうする」
「けど……、でも大皇太后陛下があいつの手にかかったなら、絶対逃すわけには」
それだけは絶対に主張せねばとシェルクが言うと、彼はしばらく黙った後でゆっくりと肩を竦めた。
「祖母様のあれは寿命だ。もう命運が尽きかけていたのは、アレイネが一番知ってるだろう。誰かに殺されたのであれば、あれほど安らかな死に顔にはならん」
「ですが、あれは陛下が大皇太后を許されたからこその表情であられたのでは?」
「──俺が辿り着いた時、祖母様はもう死んでいた。懺悔をさせてやったのは、あの男の力だろう」
「っ、そのように摂理に反したことができるのですか!?」
「できるできないで言えば、できるんだろう。どうするのかは知らんがな。どちらにしろそのおかげで祖母様は言葉を遺せた。──俺はあの男を捕らえて、どうこうする気はない。祖母様の願いを叶えてやってくれたなら、皇宮に忍び込んで闇を発生させたくらいは大目に見てやる」
まだ説明が必要かと静かに問われて、フォードはシェルクと同時に力なく頭を振った。
「陛下の御心に従います。徒に騒ぎ立てて申し訳ございませんでした」
「構わん。お前たちにとってすれば、不審者は排除するのが勤めだろう。自分の本分を知っている者を、無意味に咎める気はない」
どうでもよさそうに言ってまた手許の書類に視線を落とした彼を、シェルクは複雑そうな顔で見つめている。視線を感じて彼が目線を上げてくると、シェルクはどうしようかと躊躇って口を開いた。
「陛下は変わったみたいで変わってないけど……、色々、違うね」
「分かるような分からんような言葉だな。まぁ、今の俺ではお前らの知っていた皇にはなれんだろう」
不服かと楽しそうに問われて、シェルクは慌てて頭を振っている。
「俺は陛下が陛下のままであられるのが一番いい。前の陛下も今の陛下も、……俺にとっては、どっちも同じ陛下だから」
「フォードは異論がありそうだぞ?」
「私は陛下に一生の忠誠を捧げ、お仕えすると誓いました。陛下が陛下であられるのならば、私にも異論はございません」
見損なわないで頂きたいと顔を顰めると、彼は滲むように笑って執務机に肘を突いた。
斜めに見上げてくる藍の瞳に浮かぶ光は、彼のものでしかない。皇でも、皇でなかった頃でも彼は常に前を見据えていた。時折振り返り、そこにフォードたちを見つけて垣間見せてくれた笑顔が胸を締めつける。
「でも、俺たちは陛下についていくだけだからいいんだけど、陛下は……、今のままで不安じゃない? このままだったらどうしよう、とか」
「考えても仕方のないことは考えん。必要ならば何れ思い出すだろう、嫌でもな」
軽く肩を竦めて言い放つ彼に、シェルクはほっとしたような泣き出しそうな、ひどく複雑な表情を浮かべて掠れるような声で続けた。
「……じゃあ、俺たちのことは必要ないから忘れたんだ? 今の陛下に、俺は必要じゃない?」
嘆くようなシェルクに、彼は呆れた様子で肘を突きながら揺れる赤い髪を斜めに見上げた。
「必要だからこそ、お前たちは今俺の側にあるんだろうが? 記憶の有無程度で、お前たちが俺の側を離れないと知っていたんだろう」
だから今も側にいるんじゃないのかと笑うように尋ねられて、シェルクは目をぱちくりとさせた。それからじんわりと彼の言葉が染み込んでいったように、ゆっくりと希望の色を取り戻して執務机に手を突くと身を乗り出して顔を近づけている。
「側にいていいの? いいんだよね!? 必要ないんじゃないんだよね!」
「記憶を失った皇などに、用がないのでなければな」
楽しんだように告げられたそれに、シェルクは飛び上がって歓声を上げるとそのまま彼に抱きつきにいった。首筋に抱きついたまま飛び跳ねているシェルクに、彼も苦笑を禁じえない様子だった。
「よかった! よかった、もういらないって言われたらどうしようかって思った!」
「分かったから離れろ、男に抱きつかれても何も嬉しくない。それよりお前、すべきことがあるだろうが」
彼は苦笑しながらシェルクを引き剥がし、黙ったまま立っていたフォードに視線を変えてきて揶揄するように目を細めた。
「何だ、お前にも言葉が必要か?」
「いいえ……、いいえ、陛下。陛下がそこにおわすならば、私は私の務めを果たすのみです」
必要とされれば、それは嬉しい。ただ必要とされなくても、フォードにとって彼はどうしても必要なのだ。例えどれほど邪険にされても側を離れる気はないし、彼のために命を捨てることさえ惜しくないと思うのは変わらない。
だから構わないと言ったのに、彼の首筋から引き剥がされたシェルクはどこか冷やかすように目を細めて見てくる。
「フォードってば、そんなかっこいいこと言っちゃって。でも実は、すげー嬉しそうだしぃ」
「分かりやすい奴だな、お前らは」
額に手を当ててくつくつと笑う彼に言葉に詰まり、何か反論をと捜していると別の声が笑っているのに気がついて振り返った。
「成る程、月に焦がれる者があるように、太陽に焦がれる者も少なくないというわけか。翳りを取り除かれた我らが猊下に感謝してもらいたいものだな」
振り返った先で揶揄するように語尾を上げたのは、大皇太后の傍らにあった不審な男。いつの間に入ってきたのか気づかなかったのは、どうやらフォードだけではなかったらしい。シェルクは不意を衝かれて未だ剣に手を伸ばせていない。
ただ一人彼だけが、気づいていなかったとしても平然とその不躾な侵入者を眺めていた。
「名乗れ。ここを皇の居室と知ってなら」
従わずにいられない強さで彼が命じると、闇色の外套を纏ったままの侵入者は優雅に一礼した。
「禁忌の地、ウェディの森なる島より皇が望みし物をお持ちした。我が名はティオラノード、姓は非ず。それでも望まれるならば、どうぞ月が片割れと」
顔を上げ、月の片割れは不敵に唇の端を持ち上げた。