0.覚醒
「陛下……、陛下」
何度も切実な様子で誰かが声をかけているのは分かる。それでもその呼び名に聞き覚えがなくて、ついでに言えば声にも見当がつかなかった。ただその声は切実に彼の目覚めを待ち兼ねている気がして、心に直接突き刺さってくる気がした。
(やめろ、呼ぶな。眠らせてくれ、俺には眠りが足りないのだから)
このまま眠っていたいのだと、眠っていなければならないのだと何かが彼に囁きかける。逆らう気のしないその何かに従っていたいのに、耳を打つ声はそれを許そうとはしない。
「陛下。お願いです、どうぞ目をお開けください」
泣いているのかと思いそうなその声に、まるで幼い子供が暗闇に行く末を見出せず惑っているような哀れみを覚えて、ひどく心が揺らいだ。
『起きるな。眠っておれ』
不快げな意思が彼の心に直接命じるものの、すぐ側に在るはずの迷い子が気になって僅かに唸った。到底自分の腕とは思えないほど重いそれを、それでも何とか持ち上げようとすると指先が僅かに動いた。途端に縋るように手が握り締められ、声が切迫した様子で再び彼を呼んだ。
「陛下。ルグラフト陛下……!」
呼ばれた名前で、ぱきりと何かが壊れた気がした。
頭の片隅で、月光が跳ねるように煌いた硝子の欠片が踊っているのをはっきりと自覚しながら、彼はようやく目を開けた。
突き刺さるような光が目を貫いて、彼は思わず顔を背けた。ぎゅっと顔を顰めてしばらく堪えた後またそろそろと目を開けると、乳白色の優しい光はもう彼を苦しめなかった。
「陛下……! ああ、よかった、もうあのまま目を開けられないかと心配致しました……っ」
涙で滲んだ震える声が、喜びに満ちて彼の耳を打った。
ちらりと視線をやると彼が横たわっている寝台の傍らには迷い子の姿はなく、淡い金色の髪をした男性が一人いるだけ。鳶色の瞳に心からの敬意と安堵を浮かべて見つめてくる男性の顔は整ってはいたものの、まるっきり記憶巣を刺激しなかった。
「──、あ、」
誰だと問おうとした彼は、そのまま軽く咳き込んだ。口内に舌がへばりついているような渇ききった感触は、しばらくずっと声を出していないことを予想させた。
気づいたらしい男性は慌てて彼に手を貸して身体を起こさせると、側にあった透明な液体の入った洋杯を取り上げて差し出してきた。見知らぬ人間の手から何かを飲むのに、ひどい抵抗があったのは一瞬。すぐに芳しい香りさえする液体に負けて、一口含んだ。
突き刺すような刺激の後、柔らかく流れ込んで染み渡っていくのは花の香りのする水。どこかでこれを知っていた気がすると思いながら何とか飲み干し、小さく息をついた。
「すぐに医師を呼びに向かわせます。さぞ空腹でいらっしゃるとは思いますが、もうしばらくだけご辛抱ください。十日も気を失っておいででしたので、いきなり何かを召し上がってはお身体に触ります」
よろしいですかと尋ねてくる男性の提案自体に異存はなく、何とか頷いた。それでも彼に対する呼称がどうしても納得できなくて尋ねようとした時、ばたばたと足音が聞こえてきて視線を巡らせると勢いよく扉が開いた。
「陛下!! なぁ陛下が目を覚まされたってあー!! 陛下陛下、本当に起きてる陛下ーっ!!」
扉を開け放つなり息をつく間もなく叫び、彼を見つけるなり敵に突撃するかのような勢いで駆けて来るのは長い鮮やかな赤の髪の青年。このままだと確実に寝台に飛び乗ってくるのではなかろうかと思わず頬を引き攣らせると、それより先に男性が身を以って青年を阻んでくれた。片腕を差し出して腰を抱えるようにして抱き止め、無造作に床に投げ捨てている。
「ひでぇっ、邪魔しないでくんない、フォード!」
「陛下は今お目覚めになられたばかりだ。お前が飛びついて受け止められるはずもなかろう、この阿呆」
言葉の割には柔らかく苦笑して諌める男性に、青年は床の上に座り込みながら成る程と手を打った。
「そっかぁ、陛下も生身の人間だっけ」
けらけらと反省した様子もなく笑う青年のあまりにあっけらかんとした様子に、こちらとしても苦笑するしかない。男性が慌てて謝らせようとしているが、青年はさっさと立ち上がって逃げ回っている。
「申し訳ありません、陛下。即座に追い出しますので、何卒ご容赦を」
「いや……、それは構わない。それより手間をかけてすまないが、」
この状況を誰か説明してくれないかと言うより早く、二人が同時に顔を向けてくる。どちらも一様に、まるで化け物でも見るかのような目を向けてくることに不安になって眉を顰めると、一瞬先に我に返ったらしい青年が足音も荒く詰め寄ってきた。
「い、いやあのちょっなにそれ、どうしたっての陛下!?」
駄々を捏ねる子供みたいに寝台を叩きながら顔を覗き込んでくる青年に、何がと少し引きながら尋ね返す。途端に青年は男性に振り返り、どうするよぉと情けない声を上げる。
「何か本気で言ってるみたいなんだけどっ。まさか、ぶん殴って起こしたんじゃないよな?」
「お前でもあるまいし、誰がそんな無礼を働くかっ。いえ、それよりも陛下、お気は確かですか?」
「動転してるのは分かるけど、その発言こそ随分と無礼だと思うなー、俺」
「無礼も何も、あの陛下がすまないなどと仰ったのだぞ、あの陛下が! いや、そうとも、お気が確かなわけがない。シェルク、早く医師を呼んでこい!」
「あ、そかそか、今すぐ」
「ちょっと待て!!」
恐慌している男性の提案にはっとして頷くなり部屋を出て行こうとする青年を咄嗟に呼び止めると、二対の色の違う眼差しが心配そうに射込まれる。何だかひどく居た堪れなくて後ろ頭をかきながら、彼は苦虫を噛み潰したような顔で二人を見据えた。
「手間をかけると思ったから謝っただけだろう、何がおかしい?」
「ぎゃーっっ! 駄目だ、フォード、もう完全におかしいよ!! 陛下がまともなこと言ってるよ!」
「十日も昏倒なさったのだ、お変わりがあられないはずもない。倒れられる前によほどひどい何かがおありだったのですね……、ああ、心中お察し致します。何が外傷はなく御身に何の心配もいらずだ、あの藪医者が! 一族郎党を纏めて始末するように命じておけ」
彼に対して失礼極まりないだけでなく空恐ろしいことを平然と命じる男性と、即座に従いかねない青年を何とか引き止めようと声を張った。
「阿呆か、お前ら!! いいから黙ってそこに座れ、俺の許しもなくこの部屋を出るな!」
多分に助けてくれたのであろう相手に対しての言葉遣いではないと自覚しつつも怒鳴りつけると、青年と男性は目を輝かせ、寝台から少し離れた場所で跪いて頭を垂れた。
「ああ、それでこそ我らが陛下。ご帰還をお待ち申し上げておりました」
「よかったー、目ぇ覚めてちょっと混乱してただけだよね? はぁ、よかった、陛下がまともな人間になっちゃったのかと思って焦ったよー」
涙まで浮かべて叩頭する男性と、心底ほっとしたように笑っている青年を見ていると頭を抱えたい気分になる。例えば人違いなのだとしても、二人にそこまで言わしめる陛下とやらの性格を知りたくなくて。
「あー……、とりあえず何か甚だしい誤解があるようだから言っておく。申し訳ないが、俺はあんたたちを知らない。人間違いをしているんじゃないか」
そのはずだと二人を見据えると、さっきまでの喜びが嘘のようにがっかりと項垂れ呪うように低い声が聞こえてくる。
「全然駄目じゃん……」
「まさかここまで混乱なさっておられようとは……。もういい、一族郎党どころか、あの地域一帯を焼き払ってしまえ」
「だから、無闇に人を殺そうとするなっ」
何を考えているんだと怒鳴りつけるなり、二人とも衝撃を受けたように身体をふらつかせて青褪めた顔を向けてくる。
「っ、信じらんない。陛下が、あの陛下が!」
「人を無闇に殺すなと仰せか……? 私の耳がどうかしたのではなかろうな、シェルク」
「そうだといいけど俺も聞いちゃったよおっ。どうしよう、世界の終わりだ、破滅だ、闇と炎に巻かれて滅ぶんだーっ!」
叫ぶなり本気で泣き崩れる青年と、お労しい陛下と呟きながら男性も奥歯を噛んで涙を堪えている。どう見ても演技でないらしい二人に、眩暈が止まらない。
「人を殺せと言って泣かれるならまだしも、殺人を止めて泣かれるなんて不本意だ!」
何を考えていると怒鳴りつけてしまったが、二人同時にこちらを窺うと一層声を上げて泣き始める。
「あの陛下が……、あの陛下が!」
「機嫌損ねたのに剣を取らないなんて、あんなの俺の陛下じゃないーっ」
有り得ないと繰り返しては嘆く二人に声をかけることを諦め、寝台の上で胡座をかき、自分の膝に片肘を突いて二人が落ち着くのを冷たく眇めた目で待つことにした。
一頻り泣いて気が済んだらしい二人は、やがて泣き疲れたような溜め息を揃えて痛ましげに見上げてくる。哀れんだようなその視線が、やけに気に障る。
「気は済んだか、そろそろ話すぞ。……いいからいちいち泣くな、鬱陶しい!!」
またしても陛下に非ずと泣きそうな二人を怒鳴りつけ、彼は大きく息を吐き出して何とか気を取り直した。
「さっきも言ったが、俺はあんたたちを知らない。だからあんたたちの言う陛下は俺じゃない、人間違いだ」
「恐れながら、陛下が如何に様変わりなされようとも私は誠心誠意お仕えさせて頂く所存です。ですのでどうか、そのような繰言を仰せにならないでください」
「俺も……、うっ、まだちょっと泣きそうだけど。でも陛下がそうしたいなら止めないから、別にそんな猿芝居しなくていいし」
「何が猿芝居だっ。大体俺には、……、…………?」
何とかいう立派な名前があると主張しかけた言葉は、ふっつりと途切れてしまった。二人の物問いたげな視線に焦って思い出そうとするが、彼に必要な、彼を彼たらしめる記憶が少しも浮かんでこない。頭の奥のほうで、闇に虚ろに輝く硝子の破片の乱舞が時折思い出されるだけ。
彼は一体、誰なのだろう……?
「陛下?」
心配そうに青年に声をかけられ、はっと我に返ったものの紡ぐべきを見つけられなかった。
「どうしたの? 顔色悪いよ?」
「陛下、ご無理をなさらずどうぞお寝みください。今度こそ、真っ当な医師を捜して参ります故」
「いや……、だから」
口篭もり、自覚した途端に押し寄せてきた不安を抱えて彼は眉を顰めた。
「──俺は誰なんだ?」
そのひどく間抜けの問いかけが、今の心情の全てだった。