中
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分かりきったことだ、この地獄に私の味方などいない。ただ侍女達の嫌がらせが無視程度で済んだのは幸いだった。心安まる時はこうして筆を握っている時だけだから。
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覚悟したつもりだったが夜ごとのおぞましい行為に慣れることはできそうもない。ただ幾度となく私を辱める男を見て一つ気が付いた。あの男は私の反応を期待している。きっとあの夜のよう無様に泣きわめく様を楽しんでいるのだ、ならばもう思いどおりになどなってやらない。
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こんなこともできないのかと教育係が口にする。先日私に絡んできた令嬢達と同じく上位貴族の娘だ、子爵令嬢ごときがこの地位に就いたことを許せぬ女の一人なのだろう。それだけなら甘んじて受けよう、望まずともそれは変えようのない事実だから。ただ、これだから体を使って籠絡したあばずれはだなんて、何も知らぬくせによくもぬけぬけと。腹立たしいけれど今は周囲を認めさせることに専念しなければ。こんなところで折れてたまるか、何が何でも食いついてやる。
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何頁にもわたって延々と苦難の日々は綴られていた。今でこそ完璧な王妃と謳われる母だが、そこに至るまでどれほどの屈辱を味わったのか。きっと私の想像よりも遙かに重ねられていて、この日記帳に書き記された苛みが全てでは無いのだろう。
記憶の中の母はいつも穏やかに微笑んでいる姿ばかりだ。これほどの激情を潜めていたなど知らなかった。父に冷ややかな態度を取っても日記のような苛烈さを見せた事なんて……。
そういえば、一度だけ母が父へ激昂した事があった。母の関心を全て奪った私が妬ましかったのだろう。何か理不尽な理由で私を叱責した父へ母は怒りを露わにし、それまで見たことのない表情で父を罵倒しつくした。あの時叱られた理由も、母が詰った言葉もはっきり思い出せない。激した母の姿は幼い私にはあまりにも衝撃的だった。
その出来事が起こるまで母は父を冷遇することなどなかったように思う。時に笑いかけることもあった、後々気付いてしまったが作り笑いだったのだけれど。きっと幼い私を気遣ってのことだったのだろう。
けれどそれをきっかけに母は今のよう父に冷ややかな態度を取るようになった。私以外の誰かしらの者がいる場合には割り切っていたようだが、人目が無くなれば母は父を視界に入れることすら嫌がった。王妃として振る舞わねばならぬ時以外は父の名はおろか呼称すら口にしなかった。
私を産んだ所で母が父に絆されることは無く、母は最期の時まで父を許していなかったように思う。そんな忌まわしい父の子供でありながら、どうして母は私を愛してくれたのだろうか。父にはさほど似ていなかったからなのか、私自身に罪が無かったからなのか。その答えもここに記されているのだろうか。
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男が私に薔薇を押しつけてきた。それも花束にしてだなんて……私は匂いの強い花は苦手なのに、どれほど嫌がらせをすれば気が済むのか。
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今日私が着ていたドレスの色に男がほざいていた、男の瞳の色だなんて……あの時着ていたドレスと言い、また男のせいで着れないドレスが増えた。
男が去った後、また毛先を切り落とした。綺麗な髪だとせっかく兄様が褒めて下さったのにあの男が指を絡めたりするからどんどん短くなっていく。
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最近あの男が陵辱の中で愛してるなどとぬかす。散々嬲っておいて何を馬鹿げたことを。きもちわるい。
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私を虐げていた令嬢やらに男が手を下した。どうやら男は私が他の者にいたぶられるのが気にくわないようだ。男にとって私は愉快な玩具ということか、さっさと飽きてくれればいいのに。こんな男を好む者達の神経がわからない。
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私は父が母を愛していたのはわかっていた。これらを見るに努力もしていたようだが全て空回りしている。仕方あるまい、母が受けた仕打ちを考えれば到底信じられるわけがない。
ここまで素気なくされてなお母に愛されようとする諦めの悪さは一周回って賞賛を浴びせてやるべきなのか……いや、これっぽっちも好意の無い者に好かれてもうっとうしいだけだな。
頁をめくるほど、頑なに父を拒む母に同情を覚えてしばらく。相変わらず父の求愛にうんざりしていたようだが、ようやく母は王妃として認められ始めたようで最初の頃より平穏な日々を送っていた中、それは突如現れた。
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きもちわるいきもちわるいきもちわるい、いやよ、そんなの絶対いや、こんなのいらない
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再び筆が乱れる。そして続く『あの男の子供なんて産みたくない』という文字。
ここに記されていたのは生まれることなく死んだ私の兄のことだろう。これを読む限り、私が無事に育ったのは奇跡ではないだろうか。と言うのも、この調子ならばもし兄は流れることがなかったとしても母は自身の腹ごと裂き殺しそうだと。二人の子供を失ったことで何かしらの心境の変化があったのだろうが……。
次の日より母は少し平静を取り戻したようだった。父の子を産むことで自分の地位が盤石となることを理解していたが、孕んでしまった子に対する生理的嫌悪感が勝ってしまっていた。日を追っても子へ呪詛が連ねられていくのが見ていられず、展開が変わるまで流し読みすることにした。自分のことではないとわかっていても私も父の子である以上、耐えがたくて。
ただ思うのだ。私には双子の息子と娘がいるが、もし、もしも、娘が母と同じく陵辱の果てに望まぬ子を孕んでしまったならば、私はその子供を迷わず殺すだろう。双子でなかろうと、子自体に罪がなかろうと関係無く。私の可愛い双子が引き離されそうになった時のように、周囲の反対を押し切って実行することだろう。愛する者が傷ついていく事を強いるなど私には理解できぬ。
日記の中で一月経った頃、母は子を流した。おそらく強い心労が祟ったのだろう。そのことに母は安堵を覚えていたようだった。けれど私は知っている、母は再び子を孕み流すことになるのを。だからある程度読み飛ばす。
二度目の妊娠にも母は同じく取り乱して、けれど流れてしまった後の反応は一度目と違い、嘆きに満ちていた。
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これでもう私は完璧な王妃になれないってわかったでしょう、なのにどうして解放してくれないの。
いざとなれば傍系から養子を取れば良いだなんて冗談じゃない。少しでも男の血に関わる子供なんて育てたくない。
もう帰して、帰してよ。
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母は子を産めぬ事を理由に廃されることを期待していたが、父はそれを許さなかった。いっそ孕めぬ体ならば母も諦め切れたかもしれない、だが母は子が授かれないわけではない。現に二度、父の子供を宿してしまったし、この時の母は知らぬが後に私を産み落とした。これまではどうにか逃れたが、次もそうなるとは限らない。
そこへ与えられた父の申し出は母を絶望に突き落としたのだろう。文面からも明らかに、この日を境に母は狂っていった。読めぬほどに崩れた文字、でもそれはおそらく怨嗟の言葉なのだろうとわかってしまう。
母の嘆きに引きずられ鬱々とした気持ちになりながらも私は読み進めていく。私の知る母はおそらくこの先救われるはずだから。そして私が予測したとおり暗澹としていた流れが変わる、再びその敬称が現れたことで。
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もう二度と会うことはできないのだと思っていた。兄様は子供みたいに泣きじゃくる私をあの頃と同じように宥めて下さった。兄様の手はあの頃と変わらず優しかった。
ずっと何も食べられていないと聞いたからと兄様が差し入れしてくれたのは果物のコンポートで。私の大好物を覚えていてくださったことにまた泣いてしまった。
自分で決めたことなのに兄様は頑張ったねと褒めて下さった。城に来てから誰もそんな事言ってくれなかった、私の努力は全部当たり前のものにされていた。兄様だけだ、私を認めて下さったのは。
兄様は私の現状を聞いて男に直談判したらしい。私を説得してみせると、果たせなかったその時は命を差し出すと。私の為にそんな約束を結ばせてしまったなんて。ここで頷けば兄様とこれからも定期的に会えるらしい。
でもいくら兄様のお願いでもこれ以上はもう頑張れる気がしなくて、けど兄様はどうか私を信じてほしいと仰ったから了承した。兄様と一緒ならどんな道でもかまわない。
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二人目の子を流した後、母は体を壊していたらしい。この日記帳からするとそれこそは意図したものではなかったが、悪化させたのは母の意志だ。食事を取れなかったのではなく取らなかった。精神的に追い詰められた母はこの不調に乗って衰弱死するつもりだったのだ。けれど伯父との邂逅を機に母は考えを改め、健康を取り戻していった。
今までが嘘のように母の文面が希望に満ちたものとなっていく。特に伯父と会えた日の記述は微笑ましく思えるほどに。
だからこそ父は伯父が気にくわなかっただろう。母の笑顔を取り戻した伯父をたいそう憎んだはずだ、けれど認めるしかなかった。自分では母を追い詰めることしかできぬ、母を救えるのは伯父だけなのだと。
父は憎らしくとも伯父を信頼していたらしく、最終的には人払いした上での会話も許していたらしい。それこそが伯父の狙いとも知らず。
父は母の心を殺した。そして伯父もまた父によって壊されていたのだ。
伯父にとって母はとても大切な存在だった。なのに大事な妹を理不尽に穢され、自分を守る為に更なる不幸へと陥れられ、自ら死を望むほど追い詰められ、そんな状況で普通の人間が正気でいられるだろうか。
己の無力さを嘆くだろう、世界の不条理を呪うことだろう、何より元凶を恨まずにはいられなかっただろう。だから伯父は復讐を選んだ。互いに想い合っていたからこそ積み上がった憎悪に理性を壊され初めて成り立つ報復を。だがそれは自分の為ではなく、きっと母の為だった。
歪んでも本質は変わらぬまま、私の父は母を最も愛していたのだから。
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なら私の子を産めばいい。兄様が告げたその言葉ほど甘美な誘いは存在しないだろう。
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