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鬱・近親相姦・強姦・望まぬ妊娠・流産・復讐・主要人物は人格破綻者のみ等、人を選ぶ要素を含みますのでご注意ください。

 母が死んだ。年老いてなお損なわれぬ美貌を持った母は死に顔も美しかった。あまりにも安らかな表情は触れた頬の冷たさが無ければ、眠っているだけだと勘違いしたことだろう。

 この季節はどんよりと雪雲に覆われることが殆どだが、母の葬儀は見事な冬晴れの下で行われた。母の瞳のように透き通った青空といい、何もかも父とは対照的だった。

 母に看取られた父の顔は苦悶に満ちていた、長く続いた病は最後の最後に一際鋭い牙を向けたのだろう。父が弔われた日は夏の盛りらしかぬ大雨が纏わり付いていた。


『見ずとも見ようとも片付けておいて下さい、ラドクリフ』


 母は亡くなる寸前、私へ鍵を託した。古ぼけたそれは小さく、少なくともこの城の鍵で無いことは見て取れる。そして鍵頭に刻まれたレリーフを私は知っていた。

 主人を失った部屋は随分広く感じられる、こんなにも寂しい場所になってしまうなんて。ここで母と過ごした時間を省みて、その落差に胸が締め付けられる。訪れるたびにもう母はいないのだと思い知らされる。

 政務の合間に私は母の部屋の遺品を整理している。本格的な片付けは女中達が行うが、その前に価値のある装飾品や思い出の品、人目に晒してはならぬ物などを省いておく必要があった。そうして今日、私はそれを見つけた。

 一見美しい装飾を施されただけの木箱だがどこにも開け口は無い、上面には鍵頭と同じレリーフが彫られていた。これは母が生家より持ってきた細工箱である。呼び名通りこの箱は決まった手順を取らなければ開かないよう細工されている。

 幼い頃、母に頼んで触らせてもらったのだが仕掛けこそ解けたものの、最後に鍵を差し込む必要があり、開けることはできなかった。だから私はその中身を知らない。

 かち、かち、かち、仕掛けを解いていけばあの時と同じように鍵穴が現れる。あの時は諦めるしかなかったが、今は迷わず鍵を差し込んで捻る。

 中に入っていたのは使い古された日記帳だった。これほど隠された品だ、きっとこれは読むべきものではないのだろう。けれど私は表紙を開き、頁をめくる。

 その日記は母が王妃となる前、子爵令嬢の時代より始まっていた。


---

今日は兄様と花畑へ行った。

兄様は花の名前や花言葉を教えてくれて、花冠も作ってくださった。

どうしてこんなに詳しいのと尋ねたら……私が花が好きだから勉強してくださったんですって!嬉しい!

---

今日はいつもと違った感じのドレスを着てみたの。

そしたら兄様に褒めてもらえたわ。

思い切って変えた髪型もよく似合ってるって、良かった。

---

父上も母上もどうしてわかってくれないの。

兄様は頑張ってるのに、どうしてちゃんと見てあげないの。

---


 幼い頃の母の日記には必ずと言っていいほどその敬称が現れていた。兄様、つまり私にとっての伯父は私が物心が付く前に亡くなった。その為、私は数度しか顔を合わせたことが無いのだが、それはそれは可愛がられていたと母に聞いた。あいにく記憶に無いが私自身も伯父に懐いていたらしい。

 後に伯父の姿絵を見せてもらったが、髪も瞳もありふれた色の彼は、母と同じ血を分けた兄妹とは思えぬほど平凡な見目をしていた。私の父も彼と同じ色を持っていたが、二人の容貌を比べるのはあまり残酷だった。性格に難はあるが私の父もたいそう美しい男だったから。

 でも私は姿絵でしか見たことのない伯父の方が好ましかった。人の良さが滲む顔立ちも、優しげな眼差しも、どちらも私には無いものだからなんだろう。


『この細工箱は兄様から頂いたの』


 何度目かわからぬ『兄様』の文字に続いて思い出したのは箱を撫でながら微笑む母の姿だ。母はあの箱を何よりも大切にしていた、それを知っているのはおそらく私だけだ。母は私以外に箱の存在を知られぬようにしていたようだから。母は私以外信用していなかった、私以外の誰かが父に伝える事を恐れたのだろう。

 父は嫉妬深い男だった、母の関心を奪うとなれば息子の私にすら妬みをぶつけるほどに。あの男の事だ、自らの贈り物には全く興味を示さない妻が大切にしている物など間違いなく壊すだろう。


---

兄様は私を誰より愛して下さる方と結婚してほしいと言って下さった。

でも私は兄様の力になってくださる方と結婚するの。

---


 伯父は母にとって良き兄だったのだろう、読み込むほどそれが伝わってくる。伯父は両親の愛を奪う母を憎むことなく、大事にしていた。そんな伯父を母もまた大切に思っていたのだろう。

 だからなのか?あれほど厭う父の求婚を受けたのは。母が王妃となったことで生家である子爵は栄えた、ただ当主となった伯父が亡くなってすぐ没落したのでほんの一時だったわけだが。優秀だった世継ぎを失った家が滅びるのは必然だ。

 まだ近代の武勲によって成り上がったならともかく、薬売りだった遠い先祖が流行病の特効薬をもたらした事で得た爵位だ。密かに秘伝の薬が伝えられていたとの噂だが、作り手がいない以上どうしようもなかったのだろう。

 王家に嫁ぐ娘は伯爵以上の家格からでなければならない。けれども母は子爵の娘でありながら王妃となったが故に長く虐げられた。私の前に二人の子を流してしまったことも大きいだろう。

 子を成せぬ王妃などすぐに離縁されるものだが父はそれを望まなかった。例え子が成せなくとも母でなければならないとその身を縛り付けた。母には悪いがその点については感謝している。

 前述の慣習は今も変わっていないが、そういった類いは一度破られてしまえば形骸化するものだ。私の最愛の妻は貴族ですらない。

 父は妻を貶したが結局折れるしかなかったのだ。自分の行いで父は首を絞めた、けれど死した今でなお私は妻を侮辱したことを許していない。私を疎ましく思うくらいならどうでもいいが、妻を害するのだけはどうしても許せず、これから先どれほどの時間が経とうと許すことはないのだろう。


『貴方はやっぱりお父さんに似てるのね』


 妻を連れてきた時、母は嬉しそうにそれを口にした。父とは逆に母は彼女をとても気に入って、まるで実の娘のように可愛がっていた。私しか子がいなかったのだ、彼女の存在は新鮮だったのだろう。王妃として相応しくあろうと努力する姿に親近感を覚えたのかもしれない。

 私は母の容姿をそっくりそのまま継いでいたが、髪色だけは父から譲り受けていた。私と母は本当によく似ているのだ、だから母からその言葉を聞いた時少し不思議だった。

 私のブルネットを母はよく撫でた、父にしていたのは見たことが無い。母は完璧な王妃であり、優しき母ではあったが、良き妻ではなかった。母は父に一切心を許さなかった。

 それからすると先程の言葉が、父と同じく身分の低い娘を望んだ事についてならば不自然に思える。けれどそれ以外に何に向けて発したのか、私は結局わからなかった。ただすぐ記憶から引き出せる程度にはひっかかっているのだ、この日記に手がかりがあればいいのだが。


---

登城は明日の夜会で二度目だけれど、やはり緊張するわ。

エスコートしてくださる兄様に迷惑をかけないようにしないと。

---


 しばらく読み進めていると気になる記述があった。時期からして、これこそ父が母との婚約を発表した夜会なのだろう。けれどそんな様子は今まで出てこなかった。父の名前すら出ず、やはり殆どが伯父に関係することばかりだ。父はデビュタントで母を見初めたらしいが、この状況からどうやって婚約へと持ち込んだのだろう。

 気になって頁をめくれば、それまで毎日付けていたのに次の記述は日付が随分離れていた。それから綺麗に整っていた文字は弱々しく震えたものへと変わって――


---

あの日からずっと眠れない。眠りたくない。眠ったらまたあの日が来る、いやだいやだいやだたすけて

---

どうしてみな私を祝うの?私が間違っているの、私がおかしいの、私が悪いの、わからない、わからないの

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誰とも会いたくない、だから部屋に鍵を閉めたらあの二人が怒鳴ってくる。こわい、もうやめて、こわい、もういや

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ごめんなさいごめんなさい、兄様ごめんなさい。どうして、あの男とは全然違うのに、私は兄様の手を振り払ってしまったの。兄様は私を心配してくださったのに、ごめんなさい、兄様ごめんなさい

---

兄様、嘘をついてごめんなさい。

でも兄様にだけは知られたくないの。嫌いにならないで

---


 乱れた文字、支離滅裂な文章、円状に滲んだインク。何もかもが異常だった。心臓が痛いくらいに唸っている、確信するべきではないと頭の中で警報が鳴っていた。

 それでも私は頁をめくる、見届けなければならない。どんなことでも知る為には代償が必要なのだから。


---

もう耐えられなくてナイフを首に当てた所で兄様に取り押さえられた。その時の体勢があの時と同じで、パニックになってナイフを振り乱し傷つけてしまったのに兄様は怒ることなく宥めて下さった。私にはもうそんな資格なんてないのに。だから話してしまったの、これ以上私は兄様に優しくしてもらえるような娘じゃないから。


あの夜、兄様から離れた私は両親によって会場から連れ出され、王宮の一室であの男に――

---


 吐き気に口を押さえる。息が上手くできない、頭の中でおぞましい言葉がぐるぐると巡っている。

 ずっと不思議だった。何故あれほど母が父を嫌っているのか、母はどうして王妃になれたのか。少し考えればわかりそうなものだが、私はずっと無意識に目を逸らし続けていたのだろう。


 父は母を愛している、例え子に恵まれずとも周囲からどれほどの反発を受けようと母を唯一無二の存在として傍に置き続けるほどに。この時からそうだったのだ、父はどうしても母を王妃にしたかったのだ。

 けれど母は王妃に選ばれる身分ではない。だから母の両親と取引をして母を辱めたのだ。そしてそれを意図的に誰かに知らせ、母の逃げ場を無くしたのだろう。わけも分からず嬲られた直後など放心していたに決まっている、自分の意図せぬうちに婚約を定められた母の心情を考えて歯噛みした。

 父は私が生まれるまで直系の王家の最後の一人だった。父は母に出会うまでどんな女にもなびかなかった。それが許されてしまうほど父は王として優れていた。

 そんな父が初めて女と関係を持った。しかもいたく気に入り、もしかしたら子を宿しているかもしれない。だから周囲は認めたくなくても認めざるをえなかったのだ。母はそんな事を望んでいなかったのに。

 どうにか呼吸を整えて続きの文章へと目を通す。


---

綺麗な兄様と違って私は汚れてしまった、もう兄様に触れてもらえるような妹じゃない。気持ちの悪い話を聞かせてごめんなさい、そう伝えたのに兄様は私の手を握りしめた。汚れてしまうと言っても兄様は手を離さなかった、兄様はぼろぼろ泣いていた。

助けてあげられなくてごめん、つらいことを思い出させてごめん、今まで気付いてあげられなくてごめん、兄様は何も悪くないのに何度も私に謝って。

私はきっと上手く伝えられなかった。でも兄様はどうしてあんな出来事が起きたのか、理解してらっしゃるようだった。メリエッタは悪くないと言って下さって、両親とあの男にひどく憤っていた。兄様が怒った姿を見るのは初めてで、いつも穏やかな兄様が私の為に怒ってくださっている事にそんな場合ではないのに嬉しく思ってしまった。

あの男との婚約に抗議すると言ってくださったけれど止めた。当然ながら両親は反発した兄様に良い顔をしないだろう、兄様を廃して分家から養子を取るかもしれない。それにあの男は最高権力者だ、自分にとって気に食わぬ行動を起こした兄様を許さないだろう。

本当はあの男に嫁ぎたくなどない。でもいいの、兄様が怒ってくださったから、私は悪くないって言ってくださったから、私がこの婚姻を望んでないことに気付いてくださったから。兄様が酷い目にあわないならそれでいいの。私頑張るわ、良き王妃となって兄様が誇りに思えるように、少しでも兄様に報えるように。ありがとう兄様、大好きよ。

---


 父と母の婚姻は婚約から異例の早さで行われた。筆を握る時間すら取れぬ忙しさだったのだろう、次の日記は数月先まで飛ばされていた。前の記述から打って変わって不自然なくらい美しい文字に見えた母の決意へ、知らず一筋の水が頬を過ぎた。

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