Episode 70:マトハのオネガイ
皆さまどうも。
まだ読んで下さるんですね。
なんと勇気のあるお方なのでしょう。
さて、ここからDルートの扉が開かれます。
それでは、続きをお楽しみください。
音がする。何の音だかわからないが音がする。
それは風に揺れる木々のような、囀る鳥のような、何かを焼くような、水音のような、家の中のような、家の外のような、街の中のような、檻の中のような、洞窟の中のような、研究所の中のような、城の中のような、そして絶望の中のような。そんな騒がしくも冷ややかな音が聞こえてくる。
真黒な空間が広がっていた。あちらを見てもこちらを見ても真黒だった。男の子は一歩前へ足を踏み出す。しっかりと地面が存在していた。
「ねぇ……」
『ねぇ……ねぇ……ねぇ……』
男の子が叫ぶ。その声は山びこのように反響してそれらが混じりあいクインテットを奏でた。男の子は不安になった。不快な音が流れている。
男の子は走り出した。どこに向かっているのかは解らない。解らないがここにいてはいけない気がした。走る、走る、走る。どこまで走っても真黒な空間は続いている。どこを走っているのかも解らない。方向が全く解らない。ただ真黒な空間を男の子は走っている。
遠くの方に誰かがいるのが見えた。よく見るとそれは白黒ボーダーのセーターを着た人間の子供、マトハだった。男の子は歩みを止める。
「ヤ、ヤァ……。マタ会エタネ……」
マトハは片手にナタを持っていた。男の子が尻餅をつく。マトハは男の子に近づいてくる。男の子はお尻を地に擦り付けながら後ずさりした。
ふと右手に何かに触れる。視線を向けると子供用の小さな包丁が落ちていた。男の子はその包丁を手に取った。それをマトハに向けると彼はにやりと笑った。
「ア、ァ、ソレヲ、ドウスルノ?」
マトハは片言のように言葉を発していた。男の子は包丁をギュッと握る。マトハが走り出す。あっという間に距離を縮められ男の子はマトハに蹴り飛ばされた。
後方に飛んでいく男の子。背を地面に打ち付けた。包丁が男の子の手を離れて飛んでいく。男の子は背中を押さえながら立ち上がった。
「ネェ。ボクノ、オネガイ、キイテ、クレル?」
マトハが笑いながら言った。男の子は涙目になった。マトハと逆の方向に走り出した。マトハが笑っている。後ろからパタパタと走ってくる音が迫ってくる。そのスピードは男の子よりもはるかに速かった。
「ドコ行クノサ?」
マトハが男の子の前に立ちふさがる。そしてナタの柄で男の子をどついた。男の子の顔面に痣を作る。
「わっ!」
男の子は声をあげて後ろに倒れた。マトハが笑いながら倒れている男の子に近づく。男の子の右手の近くには包丁が落ちている。男の子は包丁に手を伸ばした。その手が踏まれる。マトハが男の子の手を踏みつけていた。
「いたい、いたい。やめて! いたい!」
男の子が泣き叫ぶ。マトハが笑いながら男の子の小さな腕にナタをあてがった。それを見て男の子は更に泣き叫ぶ。高く振りかぶられたナタが男の子の腕目がけて勢いよく振り下ろされる。言葉にならない泣き叫ぶ声が空間に反響し辺りは静まり返った。
「ボク、ハ……」
マトハの声が聞こえる。ガシャンと何かが落ちる音。ドサリと何かが倒れる音。男の子は目を開けた。手の甲は痛々しく皮が剥けていたが腕は切り落されていなかった。男の子は包丁を手に取る。ずる剥けになった手の甲を見て涙が溢れる。ヒリヒリと痛む。
マトハが立っていた方に視線を向けるとナタは地面に落ち、傍らでマトハが頭を抱えていた。男の子は包丁をマトハに向けた。今ならいつでも殺れる。殺すことができる。男の子の胸がざわめく。殺せとざわめく。男の子はモヤモヤしていた。
「コロセ……」
マトハが苦しそうにしながら言葉を発した。
「コロセ、コロセ。ボクヲ、コロシテクレ……」
マトハがナタに手をかける。
「ソウダ、コロスンダ。ボクヲ、殺セ!」
男の子は包丁を構えたまま動かなかった。マトハが立ち上がるのを待つ。ただひたすら待つ。とうとう諦めたのかマトハは膝を地に打ち付けて立ち上がった。グラリとその頭が不気味に揺れる。まるで首の据わっていない赤ちゃんのようにグラリと揺れる。
「うぅ……」
男の子が小さく唸った時、マトハの首がガクンと上がったかと思うと彼の視線は男の子に向けられていた。そして目から血を流しながら泣いているのか笑っているのか分からない表情で不気味に、小刻みに震え出した。
「コロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセ!」
マトハが言いながら男の子にナタを向ける。男の子は包丁をマトハに向けている。刹那、お互いに走り出した。お互いに大きく振りかぶり、お互いにそれを振り下ろした。
グジャっ!!
嫌な音がする。マトハがナタから手を離した。だがナタは下に落ちることなく、柄を下にした状態で停止している。そのナタの刃先から柄にかけて赤いものが伝って滴り落ちる。
「ナ、ナンデ……ナンデ……コロサナイ……ノ?」
マトハが呟いた。マトハの目の前には男の子が立っている。男の子は包丁を右手で握り締めていた。だが、その包丁はマトハに向けられていない。ただ持っているだけだ。
「ナンデ……」
男の子の左肩には、マトハが持っていたナタが食い込んでいる。肉と肉の間に挟まっている。男の子はにっこりと笑っていた。笑いながら透明な涙を流していた。
「ドウシテ……ボクハ、殺シテ、ホシカッタ……ナンデキミガ、血ヲ、ナガシテルノ」
マトハはナタから手を放して右手を握り締めた。その身体があたたかく抱きしめられる。反動で男の子の肩に挟まっていたナタが、後方へと滑り落ちた。
男の子が血を流しながらマトハを抱きしめていた。それがとても心地よくて、とてもあたたかくて、マトハは自然と涙が流れた。赤くない、透明な、本当の涙だ。
真黒だった空間が歪み始めた。男の子も歪む。視界が歪む。マトハは目を閉じた。
「大丈夫だよ……」
一言そう聞こえた。マトハが目を開けると男の子が倒れていた。真黒な空間はなくなり、黒いものが渦巻いている山の麓にいた。
その上空にはマトハと同じ姿をした人間がいた。その隣にもう一人、別の人間がいた。男の子がお兄ちゃんと呼んでいた人物だ。その身体からどす黒いものが抜けていく。それは渦巻く黒い塊に吸い込まれていった。
男の子が目を覚まし左肩に手を当てた。血は流れていない。マトハが男の子に駆け寄る。マトハの身体は透けていた。男の子がマトハを見て抱きつく。
「大丈夫だよ……。ぼく、殺さないよ」
男の子のあたたかさが、またマトハに伝わった。
「ア、アァァ、アリ、ガトウ」
マトハはそう言うと上空に浮いている自分と同じ姿をした人間を指差した。
「アノ、子モ、スクッテアゲテ……。アレハ、ボクノ、闇。マトハノ、闇。ネェ、オネガイ。ボクヲ、スクッテ。ボクハ、ズット、ボクヲ、殺シテクレル人ヲ、マッテタノ。デモ、イマハチガウ……。ボクヲ、助ケテ……」
男の子が頷いた。マトハが微笑むと、すぅっとその身体が透けていき姿が消えた。後に残ったのは能面のようなものを頭につけた黒いグニグニとしたものだった。
「クロ!」
男の子が叫ぶ。クロの正体はマトハの闇に侵された心だった。クロは全く動かなかった。それを見た男の子は新たな決心をした。マトハを救う決心だ。
男の子はマトハの姿をした上空に浮かぶ者――カオスを見た。カオスは笑いながら黒く渦巻くものを見ていた。
読了お疲れ様でした。
いかがでしたでしょうか。
クロの正体は闇に侵されて弱ってしまったマトハの心だった。
男の子は彼のオネガイを聞き入れて、彼を救う決心をする。
男の子は決心を成し遂げられるのか。
続きは第71話で!!
それではまた次回お会いしましょう。