2:透明人間、現る
はじめは黒い猫かと思った。しかし目をこらしてよく見ると、ウサギの顔だということが分かった。
黒いローブの下に、黒いウサギの仮面をつけている。
その証拠にというか、ローブを突き抜けてキュートな二つの耳が飛び出しているじゃないか。
ウサギの仮面は、リアル寄りというよりは意匠化されていて、目もどこか可愛らしい。けれども身体の大部分は黒のローブとマントに覆われていて、そのコントラストが激しい違和感を生じさせている。
要するに、めちゃくちゃ怪しい。
「どうしたんです?」
ウサギの仮面から、くぐもった女性の声が聞こえた。
「いえ、なんでも・・・・・・さっきの攻撃魔術は貴方が?」
「あんまり得意じゃないんですけど」
えへへ、とウサギ仮面は首を傾けて照れている。
「そうですか、魔術が使えても、この辺モンスターが多いから気をつけた方がいいっすよ? じゃ、お気をつけて」
「え、あの・・・・・・」
挨拶もそこそこに、俺は現場を立ち去るべくきびすを返した。
こういった時は首を突っ込まないに限る。ただでさえ銀狼退治で疲れてしまった。
「あの! あなた傭兵騎士ですよね?」
背中に声をかけられて、俺は立ち止まった。
「そ、そうですけど」
「よかった。ちょっと町まで・・・・・・ッ!?」
俺たちの会話に割って入ったのは、倒したはずの銀狼の咆哮だった。
魔術で吹き飛ばしたはずだったけど、読みが浅かった。昇華の確認も、ウサギ仮面に気を取られて忘れていた。
銀狼は「邪魔をしたのはお前か」と言わんばかりに、ウサギ仮面にむかって飛びかかった。
狼の前足に伸びる鋭い爪が、仮面を掠めるのが見えた。
ウサギ仮面は悲鳴も上げずに、ローブをたなびかせて地面に倒れ込んだ。
短剣を再び構えた俺は、「獲物」に纏わろうとする銀狼の背中を突き刺した。そのまま首根っこを掴んで、力任せに地面に放り投げる。
「ゥゥゥ・・・」
死骸の昇華を確認しつつ、俺は相手の生命力に思わず敬服の念を抱いた。
流石にもういないよな? 警戒しつつ、俺はやっと剣を鞘に収めることができた。
俺のすぐ側で、ウサギ仮面は身をよじるようにして倒れている。
ウサギ仮面はおもむろに、片膝をついて立ち上がろうとした。仮面に三本の爪痕が生々しく走っているのが見える。もしかしたら攻撃が頭部にまで及んでいるかもしれない。
「だ、大丈夫ですか?」
「えぁ、すいません・・・・・・。油断しちゃって」
意識が朦朧としているのか、振り絞るような声だ。
「俺の方こそ。仮面が無かったら大ケガしていたところですね。銀狼の爪は鋭いから」
俺は言いつつ、仮面の裂傷がみるみる伸びていくのを見た。
「あ」
仮面は音もなく割れて、地面に零れる。
目を瞬かせて、俺は思わず仮面があった場所を凝視する。
――ん? この人は仮面の下に、更に黒いマスクをかぶってるのか。それほど顔を知られたくないんだろうな。
仮面が剥がれ落ちたことに気付いているのかいないのか、ウサギ仮面は無言のまま、よろよろと立ち上がった。俺は再び、猛烈な違和感を覚えた。
黒いマスクのように見えた部分は、「反対側のローブの裏地」なのだ。見えるべき顔、あるべき頭部がそこに無い?
「・・・・・・あっっ」
ウサギ仮面は覚醒したのか、両手でさっと顔を覆った。そのままローブを翻して俺に背を向ける。
「見ましたか」
さっきまでの明るい声と打って変わって、震えるような、訴えかけるような声だった。
「見てない」
「嘘ですっ」
言うが早いか、ウサギ仮面は頭を覆っているローブをバッと後ろに払った。
常人ならあるべき頭部が、そこに無かった。
「っ・・・・・・」
気圧されて、俺は一歩後ずさった。額からは嫌な汗が頬に流れている。
―――こいつは、本当に・・・・・・。
ウサギ仮面の正体について、考えられるケースは二つある。一つは、相手がデュラハン、首無し騎士であるということ。けれどもデュラハンなら、男性の騎士であるはずだ。女性騎士のデュラハンはちょっと聞いたことがない。
だいいちデュラハンは銀狼に追われるほど弱くはない。それにウサギ仮面はローブをかぶっていた。つまりは質量のある物体として、首がそこにあるはずだ。
もう一つは、これはかなり稀というか、常人ではまずお目にかかれない体質だ。けれども消去法で、俺はこちらの可能性を選択した。
「なんというか、お珍しい体質のお方で」
苦笑いしつつ、俺は歪曲した表現で言ってみた。直接的な言い方をすれば相手の神経を逆撫でしかねない。
俺も含め、世間の人はウサギ仮面のような異能体質を「透明人間」と呼ぶ。
ウサギ仮面は沈黙したままだ。かえって頭に血が上るようなことを言ってしまったかな? 表情が分からないから、怒っているかも分からない。透明人間の厄介なところだ。
「み、見られたからには、申し訳ないですけどっ」
「は?」
ウサギ仮面は黒いグローブを着けた右手を突き出して、術を繰り出す構えをとった。
先程の銀狼を倒した攻撃をもろに受けたら、致命的なダメージを負いかねない!
「え、いや、ちょっと、待ってって」
「くうぅっ!」
人を殺すことに慣れていないのか、初めてなのか、ウサギ仮面は覚悟を決めるようなうめき声を上げた。そんな覚悟、決められたらたまったものではない。その前に・・・・・・。
「聞いて欲しい話があるッ!」
俺は両手を「止まれ」の姿勢で突き出して、ウサギ仮面に嘆願した。
俺とウサギ仮面の間に、粘り気のある沈黙の空気が流れる。
聞いて欲しい話というのは、決してその場しのぎのハッタリじゃない。目の前の透明人間に、俺は「心当たり」があるのだから。
――相手は必ず、この話に興味を持つはずだ。
もちろん俺の思い過ごし、勘違いかもしれない。その時は現場を脱出する手立てを講じなければいけない。
「――なに」
相手から発言の許可を得た俺は、音が鳴るほどに唾を強く飲み込んだ。両手を降ろした俺は、ウサギ仮面を前に屹立する。
「場合によっては透明人間であるアンタを、俺は傭兵騎士としてしょっぴかなくちゃいけないけど・・・・・・ラント・ヴィヴァルっていう奴、知ってる?」
ウサギ仮面は、押し黙ったままでいる。
俺は質問を補足した。
「十六歳の少年で、もしかしたら君の知り合いかもしれないんだけど」
「・・・・・・あなた、ラントを知ってるの」
どこか驚いたような声だった。見えない表情も、きっとこの声のように驚いているのだろう。
「知ってるもなにも、なんていうか・・・・・・俺なんだけど」
気まずそうに言いつつ、俺は汗が滲んだ髪をくしげる。
ウサギ仮面は突き出したグローブをゆっくりと下に向けた。
「栗毛に、深い緑の瞳」
相手の呟くような言葉に、俺はこくりと頷く。
「背は小さいまま」
「それはいいだろ」
「貴族相手に生意気」
「まぁ、そうだけど」
ウサギ仮面は、どこか夢想しているような口調だったけれど、
「私の名前は?」
声を引き締めて、俺に質問を返した。
「俺の予想が合っていればだけど、あなたはフィルナ・ワインガルド。ベルルスベル王国の王女様だ」
――そして都落ちした元貴族である、俺の幼馴染。
「ラント」と俺の名前を呼ぶ虚空に顔を見ることはできない。驚いているのか、微笑んでいるのか。その両方なのか。
「ローブかぶれよ。誰かに見られたら」
ウサギ仮面――フィルナは慌ててローブを被った。闇だまりが再び目の前に現れる。
「正確には、元王女様よ。・・・・・・こんな身体になっちゃったんだから」
フィルナは右腕を覆っていたグローブを外してみせた。そこにあるはずの腕はない。
さらには左腕のグローブ、袖もまくってみせてくれた。けれどもまくるだけ、何もない空間が広がるだけだった。
俺は思わず目を地面へと逸らせてしまった。
「ごめん」
「ううん。慣れるとあんまり気にならないし」
何から話せばいいのか、頭にふつふつと湧いてくる言葉が俺を混乱させつつある。
「と、とりあえず町に行こうっ こんなところで突っ立ってても始まらないし」
俺は丘の向こうに見える町を指さした。高い鐘楼塔が見える。
「うん」
ウサギの仮面を小道具の糊で応急修理し終えると、俺たちは町に伸びる小路に出た。
西に落ち始めた日は、墓標の影を長く落としはじめている。