故郷炎上2
太陽暦四十九年十一月下旬。めでたき節目の年明けを前にして、スサ帝国はサフルマーン王朝とモルダード河の戦いに臨もうとしていた。
スサ帝国は公用暦の浅さが表すように中原に新しく興ったばかりの国である。ただ勢いばかりが強かった遊牧騎馬民族スサはある時を境に各氏族がパララタイ氏族長ティルムダイの旗下に集まり、高原や平野地帯の統一に乗り出した。僅か四十九年で帝国を名乗るに相応しい広大な土地を手中に収めた国家だが、中原はその複雑な民族事情のため多くの火種を燻らせている。近年では黒人遊牧民族ザンジが地方監督官の新妻を浚ったとあって、彼の国は庇護者の威厳に掛けて奉ろわぬ民族どもの征服に尽力していた。
そのような新興国が他国と開戦するとあり「馬飼いが獅子に喧嘩を売るなど賭けの対象にもならない」と、安全圏の酒場では嘆きの声が聞こえた。
しかしサフルマーン王朝の歴史も案外と浅いものだ。元より彼の地に在ったバフクタン朝の王族を傭兵出身の将軍が追い落とし、新たに開いたのがサフルマーン王朝だ。実を云えば此方も百年足らずの新興国であり、ただ昔の栄光を嵩に着ているだけに過ぎぬのだった。
さて、話はモルダード河の戦が開かれるに至った経緯に戻る。それは実に馬鹿馬鹿しく、しかし当人たちにしてみれば深刻な問題にあった。ゴールハーネ山脈、バフクタン語で山の家を意味する森厳な山脈を水源とするモルダード河はバフクタン人の神典にも登場する。善神が悪神のひとり、乾きを北へと追いやり、二度と戻って来れぬよう不滅の河を以て道を失くしたのである。この不滅の河こそが現代のモルダード河である。河の北側は空気が乾燥し、裸地と草原が広がる。だが河を越えて南下すると気候は変わらず寒冷ながら空気と土に湿り気が混じり、針葉樹の森と林檎の栽培が成されている。モルダード河の南、バーグスィーブ地方とは各家の庭に林檎の木が植えられていることからつけられた名である。
モルダード河は地理的な視点や軍事的視点からして、古くから国境河川とされてきた。暗黙の内にスサ帝国とサフルマーン王朝との国境線にも成り得た自然の要塞をけれども、家畜番の目を盗んで山羊たちが渡ってしまったのがそもそもの始まりだった。春風が寝坊して雪解け水の合流が遅れ、河の水量が減っていたことと、放牧を行わぬ彼岸の土地が青々と肥えていたこともあって、山羊たちは食欲を満たすため河を渡ったのだ。これに気づいた家畜番は慌てて河を渡ろうとしたが、バフクタン人は当然ながらそれを許さなかった。
「その山羊たちは俺たちのものだ。返さぬならば、お前たちは恥知らずな盗人だぞ」
「我々が盗んだわけではない。この山羊たちは自らの足で川を渡ったのだ。河岸の此方に居る限り、この山羊たちは我々のものだ」
口先だけの応酬から事は順次拡大し、遂には嘆願がティルムダイ大藩主の耳にまで届く有様となったのだ。ティルムダイ大藩主は嘆願が届くとすぐさま臣下の藩主たちからなる大集会の開催を決定した。政に関わらぬ者はこの間抜けな家畜番の過失を罰すれば済む話だと思うだろうが、国を治める彼らにとっては簡単に済ませられる話ではなかった。間抜けな家畜番はバフクタン人を嫌い、スサ人の旗下に進んで降った少数民族の人間だ。元来、遊牧民族にとって山羊などの家畜は大切な資産である。もし彼らの資産を守れず、庇護者の面子を潰すこととなれば何が起こり得るか。スサ人の庇護下に在る意義を見出せず、彼の民族は蜂起するだろう。
彼らがバフクタン人と手を組む可能性は夏の高原に雪が降るほど低いが、最大の問題はそこではない。他の民族まで誤った思想、スサ人にとっての愚かしい選択が波及する可能性を危うんでいるのだ。
進んで旗下に降った民族は税と有事の出兵、兵糧の提供以外の自由を許す寛容性が売りの国だ。幾つかの民族が手を組めば、兵と成り得る男手と十分な兵糧を準備できるだろう。帝国内部に燻る火種が大火となりスサ人を呑む展望がまざまざと見える。故にスサ人は山羊たちを取り返さぬうちは引き下がれぬのだった。
無論、別の観点からの見方もある。他の土地を攻めるにあたって兵糧も畜糧も欠かせぬもの。湿潤なバーグスィーブ地方を獲得したならば、遊牧民族の一部を定住させ農耕をさせる計画をティルムダイ大藩主は既に立てていた。
そうして迎えた太陽暦四十九年十一月下旬、モルダード河の戦い。スサ帝国はティルムダイ大藩主以下、長子オルスラーン藩主、次子イスファハーン藩主、甥のカルロイ藩主らが兵を率い、サフルマーン王朝は元よりこの地に在ったセフィードゴル城塞の守備隊と中央より遣わされた万騎将軍が河を挟んで陣を敷いた。
間抜けな家畜番の集落ほど近く、遊牧民族ならば誰しもが個有する天蓋が輪状の塊を四つの丘上に作っていた。最左翼の陣営。中心に位置する天蓋の入口には不動の門衛と翻りたる赤地の旗が立つ。オルスラーン藩主の幕帳である。
幕帳の中を臨めば、齢三十九の藩主が薪が爆ぜる暖炉の傍で胡坐を掻いていた。モルダード河畔は高原と異なり雪こそ降らぬが、颪は吐息を氷片混じりに凍らせる。出陣までの間、暖炉の傍でじっと身体を芯から温めているのだった。
炉火に照らされる藩主の容貌は髪も眉も黒々と精力に満ち、意志の強そうな黒瞳はちろちろと燃える野心を映していた。
彼の父たるティルムダイ大藩主はモルダード河以南に耕作地としての興味しか持たない。大藩主の故郷は高原であり、彼の心は常に壮大な大草原と共に在るが為だ。
しかし、オルスラーンは違った。親元より独立して二十年。従弟兄弟より先駆けて独立した彼へ、ティルムダイが分封した土地はあろうことか、ファナ内海の南部海岸線の一帯であった。この土地を宛がわれた理由はすぐ察しがついた。あのけちな大藩主は守りに人手を割きたくなかったのだ。
中原を故郷とするスサ人は馬術と弓術、双方に優れるものの櫂術は下手である。泳ぎができぬ者だって大半どころか、ほぼ全ての者がかなづちだ。幸いにして外界に此れと云った敵は居らず、海からの襲撃は起こっていないが、時世は絶えず変化するものである。後の憂いを取り払うため、長子たるオルスラーンは贄としてこの地に捨て置かれたのだ。
周辺を身内の藩主国に囲まれ、唯一攻め込める方角は太陽が沈む海原。栄転の見込みなし。
先刻たって大集会を開いた際、従弟兄弟が垣間見せた同情を思い出し、ぎらりと不吉な陰がオルスラーンの黒瞳を過ぎる。
「そう血気盛んになっては大藩主に睨まれるよ、兄さん」
飢えた獣のようなオルスラーンを一言にして宥めすかしてみせたのは、馬乳の盃を片手に持つ青年だった。
オルスラーンに似て髪も眉も黒々としているが、此方は女性のように艶がある。顔つきも荒削りな兄と異なり、若さゆえの瑞々しさと繊細さがあり、ゆったりとした構えや仕草が優雅な雰囲気を醸し出す。オルスラーンの異腹弟イスファハーンである。
「お前は随分とのんびりしているな、イスファハーン。お前の領地も俺の領地と条件がさほど変わるまい。悔しくはないのか?」
「別に。私は大藩主と異なり、大陸全土の統一なんて野望を抱いていないからね。今の領地に満足しているよ」
十も齢が離れた弟の言い分を聞いてオルスラーンは呆れた。
イスファハーンはファナ内海の北部海岸線の一帯を分封されたが、どうやら自由都市の商人たちと上手く折り合いをつけているらしい。「馬乳は懐かしい気もするけど、やはり葡萄酒には適わないね」とのたまう様子からして、すっかり都市人風に染まってしまったようだ。
「心配しなくても大丈夫だよ、兄さん。旨味のない戦だけど、するべきことはしっかりとやり遂げるからね」
イスファハーンの云うするべきこととは此度の主力であるティルムダイ大藩主率いる中軍から敵を遠ざける陽動の役目のことである。オルスラーンも同じ役目を大藩主から賜っていた。左翼側に兵力を集中させ、敵がそちらに偏った隙をついて大藩主は右翼よりセフィードゴル城塞の攻略に乗り出す。幕帳の外が俄かに騒がしくなった。スサ帝国側が送り出した降伏勧告の使者が殺され、その首が晒されたのである。
「無血開城……するわけがないか」
分かり切っていた結果とも言えよう。スサ帝国総勢二万七千騎。対するセフィードゴル城塞は留守部隊一万抜いて二万部隊。寧ろ開戦を避けるため尽力すべき兵力差であった。
「平穏な生活を送っていて、もしやとは思うが、腕が怠けておらぬだろうな」
「心外だな。馬上の貴公子の名は廃れていないよ。戦場でとくとご覧あれ」
そうイスファハーンは腹に一物背に荷物を隠す商人の如く戯けてみせた。
開戦の鬨が来た。イスファハーンはオルスラーンの幕帳を辞し、隣の自陣営へと戻って行った。